安土城 天主台・本丸・信長公本廟|主郭部10スポット歩き順ガイド
黒金門をくぐった瞬間、大手道とはまったく異なる空気が漂ってきます。金箔瓦が出土した関門の先に広がるのは、信長が天下統一の拠点とした城の最重要エリア──主郭部です。秀吉が信長の遺愛品を埋葬した信長公本廟、119個の礎石が碁盤目状に並ぶ「千畳敷」本丸、そして姫路城天守台と同規模とも言われる天主台跡。安土城の歴史を最も深く体感できる場所です。
このページでは、黒金門跡から天主台跡まで10スポットを歩き順に360°パノラマ写真・詳細データ付きでご案内します。足元の礎石ひとつひとつに、信長の野望のスケールが刻まれています。
黒金門への道
① 伝 織田信忠邸跡
信長の嫡男が暮らした城の中腹── 大手道と百々橋口の交差点
安土城跡の中腹、大手道と百々橋口道が交差する地点には、信長の嫡男・織田信忠の邸宅があったと伝えられています。信忠は父から家督を譲られ、織田家の次期当主として期待されていましたが、1582年の本能寺の変で信長とともに命を落としました。現在、建物は残っておらず石碑が建てられています。防衛上の要所に位置する場所で、周辺には他の重臣たちの屋敷跡も点在しています。
- 石碑:織田信忠邸跡を示す石碑があります。
- 徳富蘇峰の詩碑:安土山を詠んだ漢詩碑が近くにあり、あわせて見られます。
- 交差点という立地:大手道と百々橋口道の交差地点という防衛上の要所に位置しています。

短時間:約5分 / じっくり:約15分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:大手道エリアから天守台方面に進むと現れます
| 築造年 | 天正4〜7年(1576〜1579年) |
|---|---|
| 居住者 | 織田信忠(信長嫡男) |
| 構造・特徴 | 大手道と百々橋口道の交差地点に位置 |
| 現存状況 | 石碑が現存、建物は残っていない |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
| 目に見えるもの | 発掘・記録でわかったこと |
|---|---|
| 石碑・周辺の石垣 | 防衛上の要所に位置、周辺に重臣屋敷跡が集中 |
安土城跡発掘調査報告書
- 本能寺の変:信忠は父から家督を譲られながら、本能寺の変で共に倒れ、織田家の将来を継ぐことはありませんでした。
- 期待された後継者:信忠は織田家の嫡男として父・信長の期待を一身に受けた人物です。
② 伝 森蘭丸邸跡
信長の近習が暮らした黒金門の前衛── 信頼の証
黒金門跡の手前に位置する「伝 森蘭丸邸跡」は、信長の近習として知られる森蘭丸(本名:森成利)が居住していたとされる場所です。建物は残っておらず、石垣や礎石から当時の面影をたどる形になります。蘭丸は信長の信頼が厚く、1582年の本能寺の変で主君とともに討死したことで知られています。
- 石垣跡:屋敷の境界を示す石垣が残っており、当時の構造をわずかに感じられます。
- 黒金門との位置関係:黒金門のすぐ手前という配置は、信長からの信頼の深さを物語っています。

短時間:約5分 / じっくり:約15分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:伝 織田信忠邸跡から天守台に向かって上り左側に現れます
| 築造年 | 天正4〜7年(1576〜1579年) |
|---|---|
| 居住者 | 森蘭丸(森成利) |
| 構造・特徴 | 黒金門手前の前衛的位置 |
| 現存状況 | 石垣・礎石が残存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
| 目に見えるもの | 発掘・記録でわかったこと |
|---|---|
| 石垣跡・屋敷の境界 | 黒金門の前衛配置は信長からの信頼を示唆、近くに織田信澄邸跡も |
- 信頼の証:蘭丸の屋敷が黒金門のすぐ手前にあったことは、信長からの信頼の深さを示しているともいわれています。
- 本能寺の変:森蘭丸は信長の近習として仕え、本能寺の変で主君とともに討死しました。
③ 黒金門跡
鉄で覆われた城の中枢への第一関門── 金箔瓦が出土した要衝
「黒金門跡」は、安土城の中枢部への主要な入口にあたる遺構です。山頂近くに達した位置にあり、本丸や天主へ向かう際の第一関門でした。周囲の石垣には特に大きな石が使われており、他のエリアとは異なる圧倒的な存在感があります。門そのものは残っていませんが、石垣と虎口の構造から当時の様子をたどることができます。平成5年の発掘調査では火災の痕跡とともに金箔瓦(菊紋・桐紋)が出土しており、黒金門もかつての焼失の際に天主とともに炎にのまれたことがわかっています。
- 巨石を用いた石垣:黒金門周辺の石垣には特に大きな石が使われており、城の防御性と格式を示しています。
- 枡形虎口の構造:通路が二度直角に折れ曲がる「枡形虎口」となっており、侵入者を迷わせる工夫が施されています。
- 金箔瓦の出土:発掘調査により、この門付近からも菊紋・桐紋の金箔瓦が出土しています。

短時間:約5分 / じっくり:約15分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:伝 森蘭丸邸跡から天守台に向かうと現れます
| 築造年 | 天正4〜7年(1576〜1579年) |
|---|---|
| 築造者 | 織田信長 |
| 構造・特徴 | 枡形虎口、巨石石垣、鉄覆門 |
| 現存状況 | 石垣・虎口構造が現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
| 目に見えるもの | 発掘・記録でわかったこと |
|---|---|
| 巨石石垣・枡形虎口の遺構 | 平成5年の発掘で火災痕跡と金箔瓦(菊紋・桐紋)を確認 |
安土城跡発掘調査報告書(平成5年度調査)
- 金箔瓦の発見:平成5年度の発掘調査で、黒金門付近も天主とともに火災に遭っていたことが判明し、焼けた瓦の中には菊紋・桐紋などの金箔瓦も含まれていました。
- 黒鉄の由来:黒鉄とは当時の「鉄」を意味する言葉です。木製の門の表面を鉄で覆うことで火攻めを防いだため、「黒鉄門」と呼ばれるようになりました。
二の丸と信長公本廟
④ 織田信雄公四代供養塔
信長の次男が繋いだ血統── 四代の霊を弔う石塔
黒金門跡をくぐった先の左手、かつての伝長谷川秀一邸跡とされる場所に「織田信雄公四代供養塔」があります。信雄(1558〜1630年)は信長の次男で、父の死後も大名としての地位を保ち、江戸時代まで血統を継承しました。この供養塔は、信雄公とその子孫四代の霊を弔うために建立されたと伝えられています。
- 供養塔:信雄公とその子孫四代を弔うための石塔です。
- 周辺の石垣:かつての武将邸宅の名残を感じさせる石垣が周囲に残っています。

短時間:約5分 / じっくり:約15分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:黒金門跡から天守台に向かい左手の小道から入れます
| 被供養者 | 織田信雄・高長・長頼・信武(四代) |
|---|---|
| 構造・特徴 | 石塔 |
| 現存状況 | 現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
- 織田家の存続:信雄は信長の死後も大名としての地位を保ち、江戸時代まで血統を継承した数少ない人物です。
- 伝長谷川秀一邸跡:供養塔のある場所は、かつての伝長谷川秀一邸跡とされており、土地自体にも歴史的な背景があります。
⑤ 二の丸南帯曲輪跡
城の防衛ラインを形作った細長い曲輪
「二の丸南帯曲輪跡」は、二の丸の南側に沿って設けられた細長い曲輪の跡です。帯曲輪とは主要な曲輪の外周に配置される区画で、敵の侵入を防ぐ防衛ラインとして、また兵士の配置や物資の保管にも使われていました。建物は残っていませんが、石垣と地形から当時の構造がわかります。
- 石垣の遺構:当時の石垣が部分的に残っており、戦国時代の築城技術を感じられます。
- 細長い帯状の地形:帯曲輪特有の地形は城の防御戦略を考えながら歩くと面白いポイントです。

短時間:約5分 / じっくり:約15分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:織田信雄公四代供養塔から大手通りに戻り天主台に向かうと現れます
| 築造年 | 天正4〜7年(1576〜1579年) |
|---|---|
| 構造・特徴 | 二の丸外周の細長い防衛区画 |
| 現存状況 | 石垣・地形が現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
- 多機能な曲輪:帯曲輪は主要な曲輪を囲むように設けられ、防衛だけでなく城内の移動や物資運搬路としても機能していました。
⑥ 仏足石
石垣に転用された中世の仏教遺物── 信長の合理主義の証
安土城跡の二の丸付近では、仏足石が発見されています。仏足石とはお釈迦様の足跡を石に刻んだもので、古代インドでは仏像に先立つ崇拝対象でした。日本では奈良の薬師寺にあるものが最古(奈良時代・国宝)として知られています。安土城跡の仏足石は中世のものとして数少ない遺物で、築城の際に石垣の資材として転用されたと考えられています。
- 仏足石本体:お釈迦様の足跡を刻んだ石で、中世の遺物として貴重なものです。
- 転用石の象徴:信長が築城の際、仏教由来の石をも資材として転用したことを物語る遺構です。

短時間:約5分 / じっくり:約15分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:二の丸南帯曲輪跡から大手通りを天主台へ向かうと現れます
| 年代 | 中世(詳細不詳) |
|---|---|
| 発見場所 | 二の丸付近の石垣 |
| 構造・特徴 | お釈迦様の足跡を刻んだ転用石 |
| 現存状況 | 現地に現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
- 仏像以前の崇拝:仏足石は仏像が作られる前の崇拝対象で、日本では奈良・薬師寺のものが最古として知られています。
- 転用石の文化:安土城跡では仏足石以外にも石仏や五輪塔が石垣や石段に転用されており、築城時の資材調達の様子が見えてきます。
⑦ 信長公本廟
秀吉が建立した信長の墓所── 遺愛品が眠る聖地
二の丸跡に、織田信長公の本廟があります。1583年(天正11年)2月に羽柴秀吉によって建立され、信長公の太刀・烏帽子・直垂などの遺愛品が埋葬されたとされています。同年6月2日の一周忌には、織田一族や家臣を集めた法要が行われています。現在も毎年6月2日には摠見寺(仮本堂)にて「信長忌」として法要が続いています。
- 信長公本廟:信長公の遺愛品が埋葬されたとされる墓所です。自由に参拝できます。
- 周辺の石垣遺構:本廟周辺には当時の石垣が残っています。
- 信長忌:毎年6月2日には「信長忌」として摠見寺で法要が行われています。

短時間:約5分 / じっくり:約20分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:仏足石から天主台方向に進み、左手の小道に入ると現れます
| 建立年 | 天正11年(1583年)2月 |
|---|---|
| 建立者 | 羽柴秀吉 |
| 埋葬品 | 信長公の太刀・烏帽子・直垂(遺愛品) |
| 現存状況 | 本廟が現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
| 目に見えるもの | 発掘・記録でわかったこと |
|---|---|
| 本廟・周辺石垣 | 1583年6月2日に一周忌法要、現在も毎年「信長忌」を開催 |
- 一周忌法要:一周忌法要は1583年6月2日に羽柴秀吉が主催し、織田一族や家臣が参列しました。
- 秀吉による建立:本廟を建立したのは羽柴秀吉で、信長公の遺愛品を埋葬したとされています。
⑧ 二の丸跡
城の政治・軍事の中枢── 信長公本廟が鎮座する場所
「二の丸跡」は、安土城の主要な区域のひとつで、城内の中枢を担っていた場所です。信長の重臣や家族が生活していたとされ、政治・軍事の拠点としても機能していました。現在は羽柴秀吉が建立した信長公の本廟が残されており、周辺には石垣や礎石も点在しています。
- 信長公本廟:秀吉が建立した本廟がここに位置しています。
- 石垣の遺構:二の丸跡周辺に当時の石垣が残っています。

短時間:約5分 / じっくり:約15分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:信長公本廟と同じ場所にあります
| 築造年 | 天正4〜7年(1576〜1579年) |
|---|---|
| 構造・特徴 | 城の中枢区画、重臣・家族の居住エリア |
| 現存状況 | 石垣・礎石・信長公本廟が現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
- 城の中枢:二の丸跡は信長の重臣や家族が生活した場所で、城内の政治・軍事の中心地でした。
本丸と天主台
⑨ 本丸跡
千畳敷と呼ばれた巨大御殿── 119個の礎石が語る規模
本丸跡は安土城の中心部で、「千畳敷」とも呼ばれる広大な敷地に御殿が建てられていたとされています。発掘調査では碁盤目状に配置された119個の建物礎石が確認され、当時の建築規模の大きさと構造の特異性が明らかになっています。研究によると、その構造は京都御所の清涼殿に似ており、天皇の行幸を想定して建てられた可能性も指摘されています。
- 建物礎石119個:碁盤目状に配置された礎石が残っており、当時の建物規模を直接感じられます。
- 千畳敷の広さ:「千畳敷」という呼称のとおり、山頂部としては驚くほど広大な平坦地が広がっています。
- 天主台を間近に望む:本丸跡から天主台を間近に望むことができ、城の中心部としての位置関係を実感できます。

短時間:約5分 / じっくり:約20分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:二の丸跡から大手通りに戻り天主台方面に進むと現れます
| 築造年 | 天正4〜7年(1576〜1579年) |
|---|---|
| 構造・特徴 | 「千畳敷」、碁盤目状119個の礎石 |
| 現存状況 | 礎石・石垣が現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
| 目に見えるもの | 発掘・記録でわかったこと |
|---|---|
| 119個の礎石・石垣 | 京都御所の清涼殿に似た構造、天皇行幸を想定した可能性 |
- 天皇の行幸:本丸御殿は京都御所の清涼殿に似た構造とされており、天皇の行幸を想定して建てられた可能性も指摘されています。
⑩ 天主台跡
信長の夢の頂点── 幻の天主が立っていた場所
天主台跡は、かつて地上6階・地下1階建て・高さ約32メートルの天主がそびえていた場所です。宗教的要素も取り入れた独創的な構造だったとされており、当時の城郭建築としては前例のないものでした。現在、天主そのものは残っていませんが、石垣と礎石から規模の大きさは十分に伝わってきます。研究によると、天主台の規模は姫路城天守台とほぼ同規模とのことで、実際に立ってみるとそのことが信じられないほどコンパクトに感じられますが、その上に高さ32mの建物が建っていたと想像すると圧倒されます。
- 天主台の石垣:高さ約2メートルの石垣が天主台を囲んでいます。
- 礎石群:天主の基礎となった礎石が並んでおり、建物の規模を想像する手がかりになります。
- 360°の眺望:天主台跡からは安土山周辺を360°見渡せます。
- 大黒柱の謎:中心に通常の礎石ではなく穴が発見されており、穴柱だった可能性など構造面でいまも謎が残っています。

短時間:約10分 / じっくり:約30分
🗺 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
🚶 アクセス:JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩約30分(安土城跡入場口からさらに約25〜30分)
| 築造年 | 天正4〜7年(1576〜1579年) |
|---|---|
| 構造・特徴 | 地上6階・地下1階、高さ約32m、宗教的要素を融合 |
| 焼失 | 天正10年(1582年)本能寺の変後 |
| 現存状況 | 石垣・礎石群が現存 |
| 文化財指定 | 国指定特別史跡「安土城跡」 |
| 目に見えるもの | 発掘・記録でわかったこと |
|---|---|
| 石垣・礎石群 | 礎石配置から地下1階構造が判明。中心に穴柱の可能性(大黒柱の謎) |
安土城跡発掘調査報告書 / 『信長公記』太田牛一
- 宗教と建築の融合:安土城の天主は従来の城郭建築にはなかった宗教的要素を取り入れた、独自の構造でした。
- 大黒柱の謎:通常、天守閣の中心には大柱とその下に礎石があるはずですが、礎石は発見されず、代わりに穴があったとのことです。穴柱だった可能性もあり、安土城の謎のひとつとなっています。
- 姫路城と同規模:研究によると、天主台の規模は姫路城の天守台とほぼ同じとのことです。実際に訪れると思ったよりコンパクトに感じますが、その上に32mの建物が建っていたとすれば、相当な迫力だったことが想像できます。
よくある質問(FAQ)
短時間で回ると約30分、じっくり見学すると約60分です。黒金門跡から天主台跡まで安土城の中枢部を巡るルートです。大手道エリアから続けて見学する場合は、主郭部に入る前に水分補給と休憩をおすすめします。
天主台跡からは安土山周辺の田園風景を360°見渡せます。かつては琵琶湖が城の直下まで迫っていましたが、干拓により地形が変わっています。それでも山頂からの視界は広く、信長が天下を見渡した目線を体感できます。
はい、信長公本廟は自由に参拝できます。1583年に羽柴秀吉が建立し、信長公の太刀や烏帽子などの遺愛品が埋葬されたとされています。毎年6月2日には摠見寺(仮本堂)にて「信長忌」として法要が行われています。
黒鉄(くろがね)は当時の「鉄」を意味する言葉です。木製の門の表面を鉄板で覆うことで火攻めを防いだため、この名が付きました。平成5年の発掘調査では門付近から金箔瓦(菊紋・桐紋)も出土しており、当時の格式の高さがわかります。
1579年に完成した安土城の天主は地上6階・地下1階・高さ約32mという当時としては前例のない壮大な建築でしたが、1582年の本能寺の変後にわずか3年で焼失しました。現存しないため「幻の天主」と呼ばれています。礎石配置の研究から、中心に大黒柱ではなく穴があったことが判明しており、構造面でも謎が残っています。
仏足石とはお釈迦様の足跡を石に刻んだもので、仏像が作られる前の崇拝対象です。安土城跡の二の丸付近で発見されたもので、築城時に石垣の資材として転用されていたと考えられています。中世の仏足石として数少ない遺物のひとつです。
はい、天主台跡・信長公本廟入口・黒金門跡・仏足石などの360°パノラマ写真を当サイトで公開しています。主郭部編(13枚)の専用ページでご覧いただけます。
他のエリアへ
▶ 大手道エリア詳細ガイド(秀吉邸・利家邸・摠見寺ほか7スポット)
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