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弘前城の歴史|津軽家の興り・築城・初代天守焼失・現存天守が残った理由

弘前城天守の外観(2026年5月撮影)
青森県弘前市 / 史跡津軽氏城跡

弘前城の歴史|津軽家の興り・築城・初代天守焼失・現存天守が残った理由

なぜ弘前城の天守は「小さい」のか。南部氏からの独立、豊臣秀吉への臣従、1627年の落雷、そして1810年の再建。400年の歴史をたどります。

起源津軽為信の独立
築城1611年
焼失1627年(落雷)
現存天守1810年再建
✅ 2026年5月 現地訪問・取材済み。歴史情報は弘前城情報館の展示および確認済み資料をもとにしています。

弘前城の歴史を簡単に(年表)

津軽為信(1550〜1607年)南部氏の家臣から独立して津軽の地を掌握し、豊臣秀吉に所領を認められる
1611年(慶長16年)2代藩主・津軽信枚のもとで弘前城が完成したとされる
1627年(寛永4年)5重の初代天守が落雷で焼失したと伝わる。以後約180年、天守のない時代が続く
1810年(文化7年)9代藩主・津軽寧親の時代に、本丸辰巳隅へ3重の天守を再建(現在の現存天守)
2015年度天守台石垣の修理のため、天守を本丸中央側の仮位置へ移動(曳家・通算約77.62m)
2025年11月24日天守内部の公開を休止
2026年7月〜11月中旬(予定)天守を元の天守台へ戻す曳戻し(弘前市の案内)
2033年度(予定)天守の一般公開(2026年8月の報道)

弘前城とはどんな城か ─ 津軽家の歴史背景

天守台の上に建つ弘前城天守を紹介する現地展示
現地展示の天守台に乗っている天守閣の写真です。

なぜ津軽家はここに城を築いたのか

弘前城は、津軽藩の本拠として江戸時代を通じて使われた城です。現在も弘前公園内に残る城郭遺構は、「史跡津軽氏城跡 弘前城跡」として国の史跡に指定されています。

津軽家の基盤を作ったのは、初代藩主・津軽為信(1550〜1607年)です。もともと南部氏の家臣だった為信は、独立して津軽の地を掌握し、豊臣秀吉に所領を認められてその立場を固めました。弘前城情報館では、津軽家と南部藩の複雑な関係や、秀吉との関わりに触れる展示が見られます。

津軽家と南部家の対立
為信の独立は、南部氏との関係に大きな緊張を生みました。以後、津軽家と南部家は江戸時代を通じて領土問題や格式をめぐって対立を続けます。弘前という土地に城を築いた背景には、この緊張関係も影響していたとされています。

南部家の居城だった盛岡城跡は、盛岡城跡公園と盛岡八幡宮のガイドで紹介しています。

なぜ現在の天守は「小さい」のか

弘前城は、為信の後を継いだ2代藩主・津軽信枚(のぶひら)によって、1611年(慶長16年)に完成したとされています。本丸を中心に、二の丸・三の丸・北の郭・西の郭が配置された梯郭式の縄張りで、複数の堀と土塁が城域をぐるりと囲んでいます。

築城当時、本丸には5重の大きな天守がそびえていましたが、1627年(寛永4年)に落雷によって焼失したと伝えられています。その後、約180年間にわたって弘前城には天守がない状態が続きました。

弘前城天守の外観(2026年5月撮影)
現在の弘前城天守(2026年5月撮影)。1810年に建てられた3重天守。

現在の弘前城天守は、9代藩主・津軽寧親(やすちか)の時代、1810年(文化7年)に本丸辰巳隅の三重の天守として再建されたものです。これが明治以降も解体されずに今日まで残ったことから「現存天守」と呼ばれています。日本全国に現存天守は12城しかなく、弘前城天守はそのうちの1つです。

なぜ180年も天守がなかったのか
1627年の焼失後、幕府への遠慮や財政的な事情もあって、弘前城は長らく天守のない城として存在しました。1810年の再建は、当時の藩主・津軽寧親が幕府に「隅やぐら」として届け出たとされています。正式な天守の再建には幕府の許可が必要な時代であったため、このような形での再建となったといわれています。
弘前城の説明看板(現地設置)
弘前城に設置された現地説明看板(2026年5月撮影)

重要文化財建造物9棟

弘前城跡には、国の重要文化財に指定された建造物が9棟残っています。これらはいずれも江戸時代の建造物であり、弘前城が「天守だけではない」ことを示しています。

建造物名種別現在の状態
天守(3重3階)現存天守外観見学可・内部休止中
二の丸辰巳(たつみ)櫓隅櫓外観見学可
二の丸未申(ひつじさる)櫓隅櫓外観見学可
二の丸丑寅(うしとら)櫓隅櫓外観見学可
追手門現存門通常通り通行可
三の丸東門現存門外観見学可
二の丸東門(東内門)現存門保存修理工事中(2026年5月時点)
南内門現存門通常通り見学可
北の郭北門(亀甲門)現存門保存修理工事中(2026年5月時点)
弘前城二の丸辰巳櫓の外観
二の丸辰巳(たつみ)櫓。1611年築城当初の現存建築。(2026年5月撮影)
弘前城追手門(大手門)の外観
追手門(大手門)。弘前公園主要入口として機能する現存門。(2026年5月撮影)

9棟それぞれの写真・360°パノラマ・地図は弘前城 現存建築ガイドで1棟ずつ紹介しています。

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現存天守・再建・跡地の違い

弘前城を訪れる前に、「現存」「再建」「復元」という言葉の違いを知っておくと理解が深まります。

現存天守とは
江戸時代に建てられた木造天守が、解体・再建されることなく現代まで残っているもの。日本全国でわずか12城しかありません。弘前城、松本城、犬山城、彦根城、姫路城などがこれにあたります。
再建天守・復元天守とは
明治以降に解体されたり、戦争で焼失したりした天守を、後から鉄筋コンクリートや木造で建て直したもの。大阪城・名古屋城・熊本城などはこれにあたります。

弘前城天守は「現存天守」です。江戸時代に建てられた建物が一度も解体されずに現代まで残っています。ただし、弘前城の「最初の天守」(1611年築城の五重天守)は1627年の落雷で失われており、現在の天守(1810年建造)はその後に建てられたものです。現在の天守は「築城当初から変わらず残る建物」ではありませんが、江戸時代に建てられた木造天守が、修理を重ねながら現在まで残っている点に、現存天守としての価値があります。

同じ現存天守の城は、犬山城・姫路城のガイドでも紹介しています。

曳家・曳戻し工事について

なぜ天守を「動かす」必要があったのか

天守曳戻し工事の様子(2026年5月撮影)
天守曳家・曳戻し工事(2026年5月撮影)

天守曳戻し工事(2026年5月撮影)/ タップすると拡大できます

2015年度、弘前城天守は石垣修理のため、天守台から本丸中央側の仮位置へ曳家されました。弘前市の記録では、最終的な移動距離は通算約77.62メートルです。天守を移動させた理由は、天守台の石垣が孕(はら)み出し(膨らんで崩落しかけている状態)を起こしており、このままでは天守ごと崩れる危険があったためです。

石垣の修理が完了したのちに天守を元の位置に戻す作業を「曳戻し(ひきもどし)」といいます(「曳き戻し」とも書きます)。現在はこの曳戻し工事と、その後に続く保存修理・耐震対策が進められています。天守内部の公開休止は、2025年11月24日から2033年3月31日まで予定されています。保存修理・耐震対策の完成時期は変更される可能性があるため、訪問前に最新情報をご確認ください。

2026年10月時点の補足:天守の曳戻し

弘前市の案内(2026年3月12日発行のチラシ)では、天守を元の天守台へ戻す移動は2026年7月〜11月中旬の予定で、8月21日〜23日には市民が天守を引く曳戻しイベントが開かれました。2026年8月の報道によると、移動後は屋根や外壁の修理が続き、天守の一般公開は2033年度の予定です。

このページの写真と工事状況は、2026年5月の現地訪問時点のものです。最新の情報は弘前市・弘前公園の公式サイトでご確認ください。

修理中の天守台石垣(2026年5月撮影)
天守台周辺の工事状況(2026年5月撮影)

天守台・石垣の工事状況(2026年5月撮影)/ タップすると拡大できます

木造天守を解体せずに動かした大規模な曳家
木造天守を解体せず、建物全体を丸ごと移動させる曳家の技術は、建築保存の観点からも注目を集めました。2015年の曳家作業は多くのメディアに取り上げられ、現存天守を守るための取り組みとして広く知られることになりました。

弘前城情報館で歴史を学ぶ

弘前城情報館の外観(通年開館・入場無料)
弘前城情報館(通年開館・入場無料)(2026年5月撮影)

弘前城情報館は、弘前公園の追手門側にある歴史展示施設です。通年開館・入場無料(9:00〜17:00)。津軽藩の歴史と弘前城の歩みを紹介する施設で、見学前に立ち寄ると弘前城の歴史や工事の背景を把握しやすくなります。

展示では、津軽家の歴史、弘前城の築城から現在に至る変遷、天守の曳家・曳戻しの仕組みなどについて知ることができます。津軽家と南部藩の歴史的な関係や、豊臣秀吉との関わりにも触れることができます。

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よくある質問

津軽藩の本拠として江戸時代を通じて使われた城です。南部氏から独立した初代藩主・津軽為信が津軽家の基盤を作り、2代藩主・津軽信枚のもとで1611年に完成したとされています。

2代藩主・津軽信枚(のぶひら)によって、1611年(慶長16年)に完成したとされています。津軽家の基盤を作ったのは、南部氏から独立した初代藩主・津軽為信です。

築城当時の5重の天守は、1627年(寛永4年)に落雷で焼失したと伝えられています。約180年後の1810年(文化7年)、9代藩主・津軽寧親の時代に、本丸辰巳隅の三重の天守として再建されたのが現在の天守です。

正式な天守の再建には幕府の許可が必要な時代であったため、津軽寧親は幕府に「隅やぐら」として届け出たとされています。

はい。1810年に建てられた天守が明治以降も解体されずに残っており、日本全国に12城しかない現存天守のひとつです。

天守台の石垣が孕み出し(膨らんで崩落しかけている状態)を起こしており、天守ごと崩れる危険があったためです。2015年度に天守台から本丸中央側の仮位置へ曳家され、移動距離は通算約77.62メートルです。

天守内部の公開休止は、2025年11月24日から2033年3月31日まで予定されています。2026年8月の報道では、天守の一般公開は2033年度の予定です。

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