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本丸エリアの緊張感から一転、二の丸エリアは将軍家の生活空間・憩いの場としての顔を持つエリアです。江戸時代初期に小堀遠州が作庭した二の丸庭園は、池泉回遊式の書院造庭園で、四季の花々と上皇陛下ゆかりのヒレナガニシキゴイが楽しめます。
また、平川門は御三卿(田安・一橋・清水家)が使った登城口として「お局御門」の異名を持ち、「不浄門」という裏の顔も。汐見坂では2種類の石積み技法を一か所で比較できる、歴史好きに見逃せないスポットです。
二の丸エリア
平川橋・平川門から入り、諏訪の茶屋・二の丸庭園を経て汐見坂へ——本丸の防衛線とは異なる、将軍家の生活と格式が感じられるエリアです。
平川橋
慶長の擬宝珠が残る木造アーチ橋——内濠に映える江戸の面影
平川橋(ひらかわばし)は、皇居東御苑の北東部・平川濠に架かる木造の橋で、皇居内濠に残る最後の木造橋です。慶長19年(1614年)に初めて架けられ、現在の橋は昭和63年(1988年)に台湾産ヒノキを用いて改架されたものです。全長29.7メートル、幅7.82メートルの緩やかなアーチを描く美しい姿は、内濠の景観に溶け込んでいます。
欄干に並ぶ10個の擬宝珠は実は江戸時代のもので、元々は二重橋に備え付けられていたものです。慶長19年(1614年)と寛永元年(1624年)の銘が刻まれており、400年以上の時を経た本物の遺物がここで見られます。
📜 史跡データ詳細
| 初架年 | 1614年(慶長19年) |
|---|---|
| 現橋改架年 | 1988年(昭和63年)3月31日 |
| 構造・特徴 | 木造アーチ橋(台湾産ヒノキ材・橋脚橋台は石造り・脚桁に鉄骨)。全長29.7m、幅7.82m。 |
| 擬宝珠 | 10個。元は二重橋のもの。慶長19年・寛永元年銘の江戸時代製。 |
| 現存状況 | 現存(1988年再建)。皇居内濠に残る最後の木造橋。 |
| 文化財指定 | 要確認 |
👀 見どころ
- 擬宝珠の銘文:欄干の擬宝珠に刻まれた「慶長十九年」「寛永元年」の銘文は、江戸時代初期のものです。小さいので近づいて確認してください。
- 木造アーチの美しさ:緩やかなアーチを描く木橋の姿と平川濠の水面・緑が重なる景観は、皇居東御苑の中でも特に美しい場面のひとつです。
- 春の桜:橋周辺は春の桜の名所で、木橋と花の組み合わせが絶景です。
📌 トリビア
- 二重橋から転用された擬宝珠:明治20年(1887年)に二重橋が改架された際、旧橋の擬宝珠が平川橋に移されました。本来は別の場所を飾っていたものが400年後も現役で使われているという、城郭遺物の重層性を示す例です。
- 皇居内濠最後の木造橋:二重橋・正門鉄橋など皇居の橋は現在ほぼ石造・鉄製に変わっており、平川橋は木造橋として最後の一本です。
地図を開くと、北桔橋門から平川橋までの位置関係を確認できます。
パノラマ写真:平川橋
平川門
御三卿が通った「お局御門」——二か所の高麗門を持つ唯一の枡形門
平川門(ひらかわもん)は、江戸城の内郭門のひとつで、奥女中や御三卿(田安・一橋・清水家)の登城口として使用されていたことから「お局御門」と呼ばれていました。枡形門の中で唯一、二か所の高麗門を持つ構造が建築上の特徴で、1962年に復元されました。
表向きは格式ある登城口でしたが、門の内側には「不浄門」と呼ばれる別の顔もありました——城内で亡くなった人や罪人を外に出す際に使われた門です。格式と禁忌が共存する、江戸城の複雑な空間秩序を体現する門です。
📜 史跡データ詳細
| 築造年 | 不明 |
|---|---|
| 構造・特徴 | 枡形門。二か所の高麗門を持つ(江戸城の枡形門で唯一)。 |
| 改修・復元歴 | 1962年に復元 |
| 現存状況 | 現存(復元)。皇居東御苑の出入口として現在も使用。 |
| 別称 | お局御門(女中・御三卿の登城口)、不浄門(城内での死者・罪人の搬出口) |
| 文化財指定 | 要確認 |
👀 見どころ
- 二か所の高麗門:通常の枡形門は高麗門1か所ですが、平川門は2か所。どこが2つ目の高麗門かを確認しながら見ると構造の独自性がわかります。
- 帯曲輪(おびくるわ):平川濠に伸びる細長い敷地で、竹橋門まで続いています。この細長い防衛帯も城郭構造の一部として観察できます。
- 平川橋との一体感:橋→門の動線上に立つと、登城する御三卿の視点でこの場所を体感できます。
📌 トリビア
- 「不浄門」の由来:城内での死者・罪人の搬出に使われたことから「不浄門」の異名を持ちます。表向きの格式(御三卿の登城口)と裏の機能(不浄の搬出口)が同じ門に与えられていた点に、江戸城の空間秩序の徹底ぶりが現れています。
- 平川の地名由来:門の名称は、かつてこの周辺に上平川村・下平川村という村が存在していたことに由来するとされています。
- 現在も使われる入口:復元後は皇居東御苑の公式入口として機能しており、竹橋駅(T08)からの来場者が主に使うルートです。
地図を開くと、平川橋から平川門までの位置関係を確認できます。
パノラマ写真:平川門
諏訪の茶屋
吹上御苑から移築された将軍ゆかりの茶室——二の丸庭園に佇む風雅な数寄屋
諏訪の茶屋は、11代将軍・徳川家斉の時代に創建され、現在の建物は明治45年(1912年)に再建されたものです。もとは吹上御苑にあった茶室で、昭和43年(1968年)の皇居東御苑整備の際に二の丸庭園の現在地へ移築されました。
内部は通常非公開ですが、二の丸庭園の池畔に佇む数寄屋造りの外観は、四季の植栽と溶け合い、庭園景観の重要な構成要素になっています。茶室と庭園の組み合わせは日本庭園美の集大成として、じっくり眺める価値があります。
📜 史跡データ詳細
| 創建年 | 11代将軍・徳川家斉の時代(正確な年は不明) |
|---|---|
| 現建物 | 1912年(明治45年)に再建 |
| 移築年 | 1968年(昭和43年)吹上御苑から二の丸庭園へ移築 |
| 構造・特徴 | 数寄屋造り。外観のみ見学可(内部非公開) |
| 現存状況 | 現存 |
| 文化財指定 | 要確認 |
👀 見どころ
- 数寄屋造りの外観:柱・庇・屋根の比例が整った数寄屋建築の美しさを、庭園の緑を背景に観察できます。
- 庭園との一体感:茶室と池・植栽・石組みの関係は、小堀遠州の作庭意図を体感できる構成です。茶室単体ではなく庭全体の中の一要素として見ることで、景色の奥行きがわかります。
- 四季の変化:春の桜・初夏の花菖蒲・秋の紅葉と、同じ場所でも季節ごとに全く異なる表情を見せます。
📌 トリビア
- 吹上御苑から移築:現在の天皇・皇后の居所となっている吹上御苑にあった建物が、東御苑整備に合わせてここに移されました。元の場所を想像すると、建物が持つ歴史の重みが増します。
- 徳川家斉の時代:11代将軍・家斉は在職50年という最長在職の将軍。その治世に創建された茶屋は、幕府末期の文化的成熟を示す遺物のひとつです。
地図を開くと、平川門から諏訪の茶屋までの位置関係を確認できます。
パノラマ写真:諏訪の茶屋
二の丸庭園
遠州が手がけた池泉回遊式庭園——ヒレナガニシキゴイが泳ぐ江戸の憩いの場
二の丸庭園は、江戸時代初期に小堀遠州が作庭し、三代将軍・徳川家光の命で改修されたと伝えられる池泉回遊式の日本庭園です。池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園の典型で、その後荒廃しましたが、昭和期に徳川家重の時代の庭園図面を参考に復元されました。
池には上皇陛下ゆかりのヒレナガニシキゴイが泳いでいます。1977年に当時の皇太子(現・上皇陛下)がインドネシアで鰭の長い鯉に興味を持たれたことをきっかけに、日本の錦鯉との交配で誕生した品種で、2018年から池に放流されています。春の花菖蒲・秋の紅葉とあわせて、皇居東御苑の自然美が最も集約されたエリアです。
📜 史跡データ詳細
| 作庭者 | 小堀遠州(江戸時代初期) |
|---|---|
| 改修 | 三代将軍・徳川家光の命で改修 |
| 復元 | 昭和期に九代将軍・徳川家重の時代の図面を参考に復元 |
| 構造・特徴 | 池泉回遊式。池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園。 |
| 現存状況 | 現存(復元) |
| 特記事項 | 2018年から上皇陛下ゆかりのヒレナガニシキゴイが池に放流されている。 |
👀 見どころ
- ヒレナガニシキゴイ:上皇陛下がインドネシアで見たヒレの長い鯉と日本の錦鯉を交配させた品種。優雅に泳ぐ姿は二の丸庭園の名物です。
- 池泉回遊式の構成:蓬莱島・鶴亀の島と池を巡る回遊路は、日本庭園の古典的な書院造庭園の形式です。島の配置を確認しながら歩くと小堀遠州の意匠が見えてきます。
- 花菖蒲(初夏):庭園の一角に花菖蒲田があり、毎年6月頃に見頃を迎えます。
- 紅葉(秋):秋は庭園全体が色づき、池の水面に映る紅葉が美しい景色を作ります。
📌 トリビア
- 小堀遠州とは:江戸初期の大名・茶人・作庭家で、江戸城・桂離宮・仙洞御所など数々の名園を手がけました。「綺麗さび」と呼ばれる美学で知られ、日本庭園史上最重要人物の一人です。
- 荒廃と復元の歴史:明治維新後に荒廃した庭園は、昭和43年(1968年)の皇居東御苑一般公開に合わせて復元されました。復元の根拠となった図面が家重時代のものであるため、元禄・享保期の姿とは異なる可能性があります。
地図を開くと、諏訪の茶屋から二の丸庭園までの位置関係を確認できます。
パノラマ写真:二の丸庭園
汐見坂
二種の石積み技法が並ぶ本丸と二の丸の連絡路——かつて日比谷入江を望んだ歴史の坂
汐見坂(しおみざか)は、本丸と二の丸を結ぶ連絡路で、かつてはこの坂から日比谷入江を望むことができたためにその名がつきました。横には白鳥濠が広がり、坂を下ると二の丸庭園方面へとつながります。
歴史好きに特に見逃せないのが石垣の比較です。坂の左側(白鳥濠側)の石垣は築城当時の「打ち込み接ぎ」、右側は後の修理で「切込み接ぎ」と、異なる時代の石積み技法が一か所で並んで見られる貴重なスポットです。石を意識しながら歩くと、江戸城の普請の歴史が時系列で読み取れます。
📜 史跡データ詳細
| 築造年 | 不明 |
|---|---|
| 構造・特徴 | 本丸と二の丸を結ぶ坂道。左側石垣:「打ち込み接ぎ」(築城当時)。右側石垣:「切込み接ぎ」(後の修理)。 |
| 石垣修復工事 | 2002〜2005年に修復工事実施。その際に寛永14年(1637年)建立の東照宮遺構が発見。 |
| 名称の由来 | かつてここから日比谷入江が見えた(現在は見えない) |
| 現存状況 | 現存 |
👀 見どころ
- 2種類の石積み技法の比較:左側の「打ち込み接ぎ」は石の角を打ち欠いて形を整えたもの、右側の「切込み接ぎ」は石を精密に切り加工したもの。技法の精度と石の表情の違いを見比べてください。
- 白鳥濠の景観:坂横に広がる白鳥濠は独立した堀で、ほぼ湧き水だけで水量を保っています。大火の際に本丸から金銀財宝が投げ込まれたという伝説もあります。
- 東照宮遺構(発見):石垣修復工事中に、1637年(寛永14年)建立の東照宮の遺構が発見されました。城内に徳川家康を祀る社があったことを示す、歴史的発見です。
📌 トリビア
- 石積み技法の変遷:「打ち込み接ぎ」は江戸初期(慶長〜寛永期)に多く用いられ、後に精度の高い「切込み接ぎ」が普及しました。この坂でその変遷が一目で確認できます。
- 明暦の大火の伝説:1657年(明暦3年)の大火の際、本丸の御金蔵が焼け、金銀財宝が白鳥濠に投げ込まれたという伝説が残っています。真偽は不明ですが、白鳥濠の独立した水源とあわせて謎めいた雰囲気があります。
地図を開くと、二の丸庭園から汐見坂までの位置関係を確認できます。
よくある質問(FAQ)
江戸城跡 全体マップ
二の丸エリアは皇居東御苑の北東〜東側に広がります。汐見坂を経由すると本丸エリアへ戻ることができ、平川門からは城外エリアへもアクセスできます。
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