姫路城完全ガイド エリア5:堀・石垣・防御施設エリア
扇の勾配の美しい曲線、三国堀の外堀跡、黒田官兵衛普請と伝わる現存最古級の石垣まで。姫路城を”守りの構造物”として読み解く14スポットを解説します。
姫路城完全ガイド:全6エリア
エリア5では、天守の周辺から搦手・城下にかけて残る堀・石垣・門跡を中心に歩きます。上山里曲輪のお菊井戸周辺から、扇の勾配の洗練された曲線美、豊臣秀吉期にまで遡る「官兵衛普請の石垣」まで、姫路城が積み重ねてきた築城技術の変遷を、時代の異なる石垣を見比べながら体感できるエリアです。
エリア5のスポット一覧
上山里曲輪
お菊井戸が残る”空白”の防御空間

りの門をくぐった瞬間、視界がふっと開けます。ここが上山里曲輪(上山里丸)。記録上、江戸時代後期には多門櫓に囲まれつつも、曲輪の中に大きな建物はなかったとされ、むしろ「何もない」ことが、この空間の役割を雄弁に語ります。中央に残る「お菊井戸」は、「播州皿屋敷」の舞台とされる井戸で、姫路城公式サイトでも、城主・小寺則職の時代の伝承として、お菊や衣笠元信、青山鉄山らの名を挙げて紹介されています。
上山里曲輪は、ぬの門とりの門の間に位置し、周囲にはチの櫓やリの一渡櫓・リの二渡櫓といった重要文化財が連なり、白い土塀と石垣で包囲するように守りを固めています。
| 築造年 | 慶長6年(1601)着工〜慶長14年(1609)頃(池田輝政期の大改修で曲輪群が整備) |
|---|---|
| 築造者 | 池田輝政(関ヶ原後の大改修を主導) |
| 構造・特徴 | ぬの門〜りの門の間に広がる曲輪空間。中央に「お菊井戸」。周囲を櫓・渡櫓・土塀・石垣が囲む |
| 文化財指定 | 姫路城は世界遺産(1993年登録)。周辺のぬの門・チの櫓・リの渡櫓などは国指定重要文化財(1931年指定) |
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城内)
お菊井戸から徒歩1分(5m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- お菊井戸:怪談「播州皿屋敷」の舞台とされる井戸。公式サイトの解説を読んでから覗くと、ただの遺構が”物語の入口”に変わります。
- 「ぬの門」と渡櫓群がつくる包囲感:曲輪の周囲に重要文化財の門・櫓が連なり、空間そのものが防御装置になっていることを体で理解できます。
太鼓櫓南方土塀
92.3mにわたる白い防御線

天守の白さに目を奪われていると、姫路城が”壁”で戦ってきた事実を見落とします。太鼓櫓の南側に伸びる太鼓櫓南方土塀は、その存在だけで城の本音を語る建造物。延長は92.3m、銃眼(狭間)は十三所、屋根は本瓦葺——数値がそのまま防御の設計図になっています。
この土塀が整えられたのは、池田輝政が1601年から大改築を始め、1609年に連立式天守を完成させる時代です。輝政の城づくりは、天守の美しさを磨くのと同じ熱量で、曲輪の縁を締め、動線を絞り、射撃線を確保することに注がれました。
| 築造年 | 慶長6〜14年(1601〜1609) |
|---|---|
| 築造者 | 池田輝政(1601年に姫路城の大改築を開始) |
| 構造・特徴 | 延長92.3m/銃眼(狭間)十三所/本瓦葺の土塀(1棟) |
| 改修・復元歴 | 昭和62年(1987)に漆喰塗替・瓦差替の記録あり |
| 文化財指定 | 国指定重要文化財(1931年12月14日指定) |
住所:兵庫県姫路市本町(姫路城内)
上山里曲輪から徒歩1分(約35m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 92.3mの”白い防御線”:長さそのものが迫力。天守の華やかさとは別の、実戦の合理性が美しさに変わる瞬間を味わえます。
- 十三所の銃眼(狭間)を探す:丸・三角など形の違いも含め、壁面に残る”撃つための穴”を数えながら歩くと面白さが増します。
リの一渡櫓
大天守と東小天守をつなぐ戦う通路

「リの一渡櫓(りのいち わたりやぐら)」は、大天守と東小天守をつなぐ連立式構造の一部として配置された渡櫓(わたりやぐら)です。「ハの渡櫓」内に設けられた区画のひとつで、通路としての役割だけでなく、戦闘時には防御・攻撃の拠点として機能する”戦う渡り廊下”でもありました。内部には狭間(さま)、石落とし、急階段などの防衛設備が備えられています。
池田輝政による大改修(1601〜1609年)の時代に築かれ、姫路城の連立式天守という世界的にも稀有な構造美を支えるキーパートのひとつとして、現在も国宝に指定され保存されています。
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城 天守曲輪内)
太鼓櫓南方土塀から徒歩約1分(約20m)
短時間での見どころ:約3分/じっくり観光するなら:約10分
見どころ- 連立天守を支える通路:大天守と東小天守の連携を実現する戦略的動線です。
- 狭間・石落としの実用構造:通路としての役割に加え、実際に防衛戦を想定して造られた”攻守一体型”の空間です。
ぬの門
高石垣に囲まれたトラップ門

「ぬの門(ぬのもん)」は、姫路城の登城ルート後半に設けられた門のひとつで、天守曲輪へ至る迷路型防御の中枢構造を形成する重要な通過点です。「い・ろ・は・に…」と続く仮名順の門の中でも、終盤に位置するこの門は、敵の隊列を乱し、枡形(ますがた)空間での挟撃を行うための”トラップ門”として機能していました。
ぬの門が設けられているエリアは、大天守の南西方向の高石垣に囲まれた狭い空間で、ここを通過するには直角に曲がる通路を何度も経る必要があります。この門もまた、池田輝政による姫路城の大改修(1601〜1609年)で築かれたものです。
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城 天守登城ルート途中)
リの一渡櫓から徒歩約1分(約24m)
短時間での見どころ:約3分/じっくり観光するなら:約10分
見どころ- 高石垣に挟まれた門構造:小規模ながら、門の前後が高石垣に囲まれ、守る側が一方的に優位に立てる空間です。
- 登城ルートの折れの中間点:この門をくぐることで進行方向が何度も変わり、視界を失った敵が混乱する設計です。
扇の勾配
開いた扇のような天守台の曲線美

「扇の勾配(おうぎのこうばい)」は、大天守の南東側に築かれた天守台の石垣で、その美しい曲線がまるで開いた扇のように見えることからこの名で呼ばれています。築城当時から現存するこの石垣は、豊臣秀吉が1581年に築いた三重天守の天守台をベースに、池田輝政によって1601年から始まる大改修時にさらに補強・整備されたものとされています。
この石垣の最大の特徴は、下部がゆるやかで上部が急勾配になる”反り”の美しいカーブ。見た目の美しさだけでなく、敵がよじ登りにくく、石垣が崩れにくいという合理的な防御構造でもあります。自然石を巧みに組み上げた”打ち込み接ぎ”という技法により構築されています。
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城 大天守台 南東部)
ぬの門から徒歩約1分(約22m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約10分
見どころ- 曲線が描く美の極致:「反り」が緩やかに上昇し、扇を広げたような完璧な放物線を描く姿は、まさに”石の芸術”です。
- 築城技術の高さ:石垣の石は自然石が中心で、整形せずとも隙間なく積み上げられた職人の技が光ります。
をの門跡
西の丸と天守曲輪の境界にあった門

「をの門跡(をのもんあと)」は、姫路城の登城ルート中、西の丸と天守曲輪の境界付近に設けられていたとされる門の遺構で、現在は建物自体は失われているものの、門が存在したことを示す石垣や礎石、地形の変化がしっかりと残されています。「い・ろ・は・に…」と続く仮名順の門の一つであり、天守防衛の終盤ライン、もしくは西の丸からの通路制御を担った門であったと考えられます。
門自体は江戸時代の改修や、明治以降の取り壊しにより現存していませんが、地表に残る基礎や周囲の石垣は、確かにそこに「門があった」ことを語る貴重な史跡です。
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城 西の丸・天守曲輪周辺)
扇の勾配から徒歩約1分(約11m)
短時間での見どころ:約3分/じっくり観光するなら:約10分
見どころ- 門の存在を示す礎石跡:地面に残る四角い礎石の配置から、門の柱の位置や規模がイメージできます。
- 通路の折れと石垣配置:門を挟んだ通路は直線ではなく曲がりくねっており、防御の意図が今も感じられる地形です。
二の丸跡
歴代藩主が政務を執った御殿区域

「二の丸跡(にのまるあと)」は、大天守南側に広がる広大な曲輪跡(くるわあと)で、かつては藩主の政務を執る御殿や家臣の詰所、会議室、食事の場などが並んでいた「御殿区域」=政治・生活の中心地でした。現在は建物こそ失われていますが、礎石や庭園跡、井戸跡などが多数残されており、江戸時代の城内生活の様子を想像できる貴重な史跡となっています。
このエリアには、藩主の「二の丸御殿」や「勘定所」「台所」「侍詰所」などが立ち並んでいたとされ、池田輝政や本多忠政、松平氏など歴代藩主たちがこの地から姫路藩を治めていた拠点でした。
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城 二の丸跡)
をの門跡から徒歩約1分(約42m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 礎石が語るかつての御殿跡:広大な地面に規則正しく並ぶ礎石群が、当時の建物の規模と配置を物語っています。
- 庭園や井戸の遺構:政務の合間に藩主が憩ったとされる庭園跡や、生活用水を供給した井戸跡などが残されています。
るの門
天守曲輪北西を守る最終関門

「るの門(るのもん)」は、天守曲輪へ向かう登城ルートに設けられた仮名順の防御門のひとつで、「い・ろ・は…」と続く複数の門の中でも最終盤に位置する防衛ラインに当たります。構造は高麗門形式とされ、堅牢な木製の扉を持ち、両側を高石垣に囲まれた枡形(ますがた)構造の中に設置されていました。
この門は、乾小天守と渡櫓(ロの渡櫓)を経た先、天守曲輪の要所に位置しており、大天守の北西からの侵入を防ぐ最終関門のひとつです。現在、建物そのものは現存していないものの、「るの門跡」として門の礎石や周辺の石垣、地形構造が確認できます。
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城 天守曲輪北西部)
二の丸跡から徒歩約1分(約85m)
短時間での見どころ:約3分/じっくり観光するなら:約10分
見どころ- 高石垣に囲まれた”最後の門”:この門を越えると、すぐそこは天守の敷地。最後の防衛ラインにふさわしい堅固な構えだったとされます。
- 門跡と枡形構造:通路の折れや狭さが現在も地形に残り、門の防御機能を体感できます。
三国堀跡
池田輝政の三国統治を象徴する外堀

「三国堀跡(さんごくぼりあと)」は、かつて姫路城の外郭防衛線を形成していた三重の堀のうち、外堀に当たる「三の丸外堀」の一部であり、現在はその痕跡のみが残る遺構です。名前の「三国」は、諸説ありますが、池田輝政が備前(岡山)、播磨(姫路)、美作(津山)を領していたことに由来し、三国を守る要害として築いた堀とも言われています。
この堀は、江戸初期に整備された姫路城の「総構(そうがまえ)」の一環で、城下町全体を含めて城と見なすという思想に基づいて築かれました。現在は埋め立てられていますが、一部の地形や痕跡、案内板などが残っています。
住所:〒670-0012 兵庫県姫路市本町68
るの門から徒歩約1分(約37m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 堀跡の地形変化:わずかな凹凸や高低差、緩やかなカーブに、堀の名残を感じることができます。
- 案内板・説明碑:現地には三国堀の説明板が設置されており、当時の規模や城下町の配置がわかりやすく紹介されています。
菱の門 東方土塀
銃眼47所を備えた入口の守り

大手道を進み、姫路城の「入口の顔」としてそびえる菱の門へ。視線を右へ滑らせると、石垣の上に白漆喰の長壁がすっと伸び、静かなのに近寄りがたい緊張感をまとっています。これが「菱の門東方土塀」。池田輝政が慶長期(1601〜1609)に城を”迷路の要塞”へ仕立て直したとき、門だけでなく、その脇を固める土塀もまた”戦う建築”として設計されました。延々と続く白壁に穿たれた無数の銃眼は、通路に侵入した敵を横から狙うための目です。
| 築造年 | 慶長6〜14年(1601〜1609年) |
|---|---|
| 築造者 | 池田輝政(姫路城大改築の一環) |
| 構造・特徴 | 延長88.7m/銃眼47所/本瓦葺(土塀) |
| 改修・復元歴 | 昭和期の大規模保存修理で菱の門周辺が修理対象に(昭和25年再開の記録)。令和6年(2024年)にも「菱の門東方土塀外」保存修理工事を実施 |
| 文化財指定 | 重要文化財(1931年12月14日指定) |
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城内・菱の門東方土塀)
三国堀跡から徒歩1分(約30m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- “横から撃つ”ための銃眼47所:白壁に小さく穿たれた銃眼が、通路へ斜めの射線を通します。
- 白漆喰×石垣×本瓦葺の三層美:石垣の荒々しさ、漆喰の白、屋根瓦の陰影が重なり、近づくほど”白鷺城”の質感が立ち上がります。
姫路城 天守台礎石庭園
未使用の礎石が語る築城の裏側

姫路城の天守台礎石庭園は、城郭建築の裏側にある歴史の断片を垣間見ることができる静かなスポットです。この庭園には、築城時に使用されなかった礎石が配置されており、その多くは豊臣秀吉の時代に遡るとされています。これらの石は、城の建設過程や当時の技術、資材の調達方法を物語っています。
| 築造年 | 1601年〜1609年(姫路城全体) |
|---|---|
| 築造者 | 池田輝政 |
| 構造・特徴 | 未使用の礎石を配置した庭園 |
| 文化財指定 | 指定なし(姫路城全体は国宝・世界遺産) |
住所:兵庫県姫路市本町68
菱の門東方土塀から徒歩約1分(約110m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 未使用の礎石群:豊臣時代の石材がそのまま配置されており、当時の築城技術を感じることができます。
- 石の刻印:一部の石には、石工や藩の印が刻まれており、歴史的背景を物語っています。
出土五輪塔集積場所
石垣に眠っていた祈りの記憶

豪壮な天守の陰で、苔むした石に花が手向けられ、祠(ほこら)が寄り添う光景は、戦国の攻防よりもむしろ「ここに眠っていた時間」を語りかけてきます。昭和の大修理(1956〜1964)で石垣の内部から掘り出された墓標や仏石が、ここに集められ供養の形として据えられました。姫山にかつて存在した称名寺の伝承では、1143年にこの丘に寺があったことが知られ、城づくりが進む過程で寺が麓へ移され、墓石などが石垣の”転用石”として組み込まれた可能性が示されています。
五輪塔の前に立つ石燈籠は、1990年に東京から移されたもので、江戸後期に城主を務めた酒井家の墓前にあった燈籠でした。最後の城主として知られる酒井忠邦(1854〜1879)を偲んで建てられたとされます。
| 築造年 | 設置(集積・供養):昭和の大修理(1956〜1964) |
|---|---|
| 構造・特徴 | 石垣内部から出土した墓標・仏石を集め、五輪塔の形に積み上げて供養(祠・石燈籠を伴う) |
| 改修・復元歴 | 1990年:五輪塔前の石燈籠を東京から移築 |
| 文化財指定 | 姫路城跡:特別史跡/姫路城:世界遺産(1993) |
住所:〒670-0012 兵庫県姫路市本町68(姫路城内・下山里曲輪)
菱の門東方土塀から徒歩3分(約210m)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 五輪塔(集積された仏石):石垣の”中”から出てきた墓標・仏石が、いまは供養の形で並ぶ——姫路城の石垣文化(転用石)を体感できる核心ポイントです。
- 酒井忠邦を偲ぶ石燈籠:東京から移された燈籠が、姫路藩最後の城主の記憶をこの城へ”帰郷”させています。
官兵衛普請の石垣
姫路城内で現存最古級の野面積

大天守へ向かう人の流れから少し外れた上山里曲輪下段に残るのが、通称「官兵衛普請の石垣」。天正8(1580)年、羽柴秀吉が中国攻めの拠点として姫路を改修したころに積まれたと推定され、姫路城跡で現存最古級の石垣と位置づけられます。石はほとんど加工せず、凝灰岩やチャートなど自然石を選び、肌理(きめ)の違いを寄せ集めるように積み上げた野面積(のづらづみ)です。
この石垣に「官兵衛」の名が添えられる理由は、姫路を知り尽くした黒田官兵衛(黒田孝高/如水)が普請に関わったと伝えられているためです。整えられた石で美しく魅せる前に、まず堅く守る——その思想が、粗く見えて実は合理的な石の選び方に表れています。
| 築造年 | 天正8年(1580年)頃(上山里曲輪下段石垣として推定) |
|---|---|
| 築造者 | 羽柴秀吉(改築主体)/普請に黒田官兵衛が関与したと伝えられる |
| 構造・特徴 | 野面積(自然石中心)。凝灰岩・チャート等を多用し、角度は比較的緩やか |
| 改修・復元歴 | 保存修理:2013年12月〜2014年3月(予定)/石材の抜け・剥離補充、割れへの樹脂充填など |
| 文化財指定 | 国指定「特別史跡 姫路城跡」区域内/世界遺産「姫路城」構成資産 |
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城内・上山里曲輪下段周辺)
出土五輪塔集積場所から徒歩3分(約0.2km)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 野面積の”手触り”:加工の少ない石が生む凹凸は、戦国期の現場感そのもの。近づいて見るほど、石の選別と据え方の巧さが分かります。
- 石垣技術のタイムライン:豊臣期の古式石垣と、のちに発達する石垣技術(算木積・扇の勾配等)を同じ城内で見比べられるのが姫路城の醍醐味です。
姫路城 東船場蔵跡
城の暮らしを支えた物流の跡地

姫路城の東側、動物園の賑わいのすぐそばにひっそりと残るのが「東船場蔵跡」。ここは、白鷺城の”華”を支えた”胃袋”のような場所でした。堀に沿って物資が動き、蔵には米や用度品が積まれ、城の暮らしと政務を陰で回していく——その舞台裏が、この一角に重なります。関ヶ原後に播磨へ入った池田輝政が1601年頃から進めた大改修(Ⅱ期)による石垣が周辺に残ります。
明治以降、城内の多くの建物が撤去され軍施設などへ転用されていった流れの中で、蔵も姿を消し「跡」として現在へ至っています。
| 築造年 | 江戸時代初期(1601年頃以降、池田輝政の大改修期と同時期の整備とみられる) |
|---|---|
| 築造者 | 池田輝政(姫路城大改修の主導) |
| 構造・特徴 | 蔵(倉庫)群の跡地/内堀沿いの物流拠点(現在は遺構表示) |
| 文化財指定 | 特別史跡「姫路城跡」・世界文化遺産(登録エリア) |
住所:〒670-0012 兵庫県姫路市本町68(姫路城内・動物園付近)
官兵衛普請の石垣から徒歩3分(約0.2km)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 内堀沿いの”物流の気配”:蔵が並んだ「跡」だからこそ、堀と動線を見て”どう運び、どう守ったか”を想像するのがいちばんの楽しみです。
- 堀と石垣の分岐ライン:動物園西側で内堀が分岐し、三の丸側と搦手側を分断していたという地形の説明が、城の防御と施設配置のリアリティを上げます。
との四門
搦手の防御線を締めくくる門

大天守を背にして「搦手(からめて)」の坂を下っていくと、ふいに空気が変わります。観光客の流れが薄れ、石垣と土塀がつくる”狭さ”が前に出てくる——その出口に立つのが「との四門」。桃山期(1601〜1609)の築造とされ、脇戸付きの高麗門で、本瓦葺という端正な形式が、軍事のための”機能美”を語ります。
この門が面白いのは、ただの出入口で終わらないところ。搦手周辺の特別公開などでは、門の内側に設けられた「穴蔵(あなぐら)」に触れられることがあり、城が”見せる建築”である以前に”備える建築”だったことを体感できます。
| 築造年 | 1601〜1609年(桃山) |
|---|---|
| 築造者 | 池田輝政(姫路城大改修期の普請) |
| 構造・特徴 | 脇戸付高麗門、本瓦葺/搦手側の防御線上に位置 |
| 文化財指定 | 重要文化財(指定:1931年12月14日) |
住所:兵庫県姫路市本町68(姫路城内)
東船場蔵跡から徒歩約1分(約0.8km)
短時間での見どころ:約5分/じっくり観光するなら:約15分
見どころ- 搦手の”締めの門”:大手とは違う、裏手の防御導線の終点。坂・折れ・土塀の連続の先で門が待ち、姫路城の「迷路設計」を実感できます。
- 門の内側に潜む穴蔵:特別公開などで注目される”備え”の空間。華やかな白壁の裏に、実戦のロジックが隠れていたことが伝わります。
FAQ
大天守南東側の天守台石垣で、下部が緩やかで上部が急勾配になる”反り”の曲線が特徴です。敵の登攀を防ぎつつ、崩れにくい合理的な構造でもあります。
天正8年(1580年)頃、羽柴秀吉が姫路を改修した際に、播磨を知り尽くした黒田官兵衛が普請に関与したと伝えられている石垣です。姫路城内で現存最古級の石垣とされています。
堀・石垣・門跡を一通り見て回ると、エリア5全体でおよそ1時間〜1時間30分を見込んでください。
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