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長久手古戦場 訪問ガイド|記念館から3つの塚を歩く

青空の下に立つ長久手古戦場記念館の全景
愛知県長久手市/国指定史跡

長久手古戦場 訪問ガイド|記念館から3つの塚を歩く

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い。その主戦場跡は国の史跡に指定され、現在は古戦場公園として整備されています。2026年4月に開館した長久手古戦場記念館を起点に、池田恒興・元助父子と森長可が討死したと伝わる3つの塚を歩きました。

区分国指定史跡(1939年指定)
所要時間記念館+公園 約1時間15分/武蔵塚まで 約1時間半
入館料記念館 常設400円・企画展600円/公園無料
最寄り駅リニモ「長久手古戦場」駅 徒歩3分
2026年6月13日に現地を訪問し、長久手古戦場記念館・古戦場公園・勝入塚・庄九郎塚・武蔵塚を歩いて確認しています。料金・開館時間・企画展情報は2026年9月14日に公式サイトで再確認しました。9月19日からの企画展期間や駐車場の状況は変わる可能性があるため、訪問前に公式サイトでの確認をおすすめします。

長久手古戦場はどのような人におすすめ?|まず結論

先に書いておくと、長久手古戦場には天守も櫓もありません。国指定史跡「長久手古戦場」の中心である古戦場公園にあるのは、戦死地と伝わる塚、後世に建てられた石碑、そして起伏の残る地形です。城の建物を見に行くつもりだと、拍子抜けします。

逆に言えば、合戦の経過そのものに興味がある人には向いています。2026年4月に長久手古戦場記念館が開館し、「ここで何が起きたか」を理解してから歩けるようになりました。展示で軍勢の動きをつかんでから外に出ると、公園のアップダウンが戦場の地形として見えてきます。実際に歩くと平坦ではなく、高低差のある土地です。

向いている人/小牧・長久手の戦いの経過を知りたい人。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で長久手の戦いを見た人。池田恒興・森長可・井伊直政といった武将の最期を現地で確かめたい人。名古屋滞在に半日の史跡を組み込みたい人。

向いていない人/建造物や天守を目当てにしている人。子ども連れで一日遊べる場所を探している人(記念館の体験展示は楽しめますが、屋外は遊具のある公園ではありません)。

訪れて印象に残ったのは、手入れの行き届き方です。塚は雑草に埋もれておらず、園路も案内表示も整っていて、地元で大切にされている場所だと分かります。名古屋駅から公共交通機関で片道1時間弱、記念館と公園をあわせて1時間半ほどなので、名古屋滞在の半日に収まります。

2026年開館・長久手古戦場記念館|最初に見るべき理由

長久手古戦場記念館は、2026年4月22日に古戦場公園内で開館した施設です。旧・長久手市郷土資料室は2025年11月30日で閉室しているため、以前の訪問記や古い案内を見て「資料室へ行く」と計画すると行き違いになります。

結論から言うと、公園を歩く前に記念館へ入るのが断然おすすめです。受付で史跡めぐりのルートマップがもらえるため、そのあとの動き方が決まります。地上1階は無料エリアで、床いっぱいの大きな地図に市内の史跡の位置が示されています。有料の展示室は地下1階です。

国指定史跡に隣接2026年開館有料400円

長久手古戦場記念館

合戦の流れと地形を、歩く前に理解するための拠点

白壁と黒い屋根の長久手古戦場記念館入口
国指定史跡・長久手古戦場に隣接する長久手古戦場記念館の入口

2026年6月の訪問時には、三面投影のシアタールームで小牧・長久手の戦いの全体像を紹介する映像を見ることができました。教科書的な解説ではなく、本能寺の変から長久手の決戦、その後の講和までを、武将たちのやりとりを交えた物語仕立てで見せる構成でした。犬山城の攻略、羽黒での衝突、小牧での対陣、そして4月9日の一連の戦闘が順を追って展開するため、地図と年表だけでは頭に入りにくい「どちらの軍がどこから来たのか」がここで整理できました。

あわせて、織田信雄・徳川家康・羽柴秀吉がそれぞれ一人称で長久手の戦いを振り返る映像も上映されていました。同じ戦いが、勝った側・負けた側・巻き込まれた側で違う語られ方をします。家康は自軍の進軍の速さを誇り、秀吉は講和後も家康討伐を準備していたと語る。展示を見る前と後で、長久手という戦場の意味が変わる内容でした。

地形模型へのプロジェクションマッピングでは、信雄・家康軍と秀吉軍の進軍が時系列で展開し、兵の移動や陣形が目で追える構成になっていました。

ただし、シアタールームの上映内容は時期により変更されます。2026年9月は、ガイダンスシアターで終日『戦国絵巻 歴史は長久手で動いた-小牧・長久手の戦い-』を上映すると公式サイトで案内されていました。訪問前に公式サイトで最新の上映内容を確認してください。

展示室には、徳川美術館所蔵「長久手合戦図屏風(六曲一隻)」の復元模写、甲冑や火縄銃などの収蔵品、合戦ごとの解説パネルが並びます。ガラス越しに収蔵庫の内部を見られる「見える収蔵庫」も特徴です。

館内で見ておきたいもの
  • シアタールーム/三面投影で合戦の全容を紹介。2026年6月の訪問時には、物語仕立ての本編に加え、武将が一人称で戦いを振り返る映像も上映されていました。上映内容は時期により変わるため、訪問前に公式サイトで確認してください。
  • プロジェクションマッピング/地形模型の上に両軍の進軍を投影。長久手周辺の高低差が視覚的に分かります。
  • 関連年表と勢力図/天正12年(1584)前後の動きと、羽柴秀吉・徳川家康・織田信雄らの勢力圏を整理した展示。
  • 戦いごとの解説パネル/仏ヶ根の戦い、岩崎城の戦い、白山林・桧ヶ根の戦いが個別に解説され、長久手で起きた戦闘が1つではないことが分かります。
  • デジタル火縄銃体験/火縄銃の模型と映像を組み合わせた体験展示。狙いを定めるのが難しく、大人でも十分に楽しめました。
小牧・長久手の戦いの関連年表と勢力図
天正12年3月頃の諸勢力を色分けした日本地図
池田恒興と井伊直政の仏ヶ根の戦い解説パネル
甲冑二領と火縄銃、槍などを並べた収蔵展示
火縄銃模型と画面を組み合わせた体験展示

タップすると拡大できます

所要時間の目安/2026年6月の訪問では、入館から退館まで約40分でした。シアターとプロジェクションマッピングを両方見て、展示を一通り眺めた場合の時間です。物販エリアやフリースペースでゆっくり過ごすなら、もう少し余裕を見てください。

住所愛知県長久手市武蔵塚204(古戦場公園内)
開館時間9:00〜17:00(展示室入場は16:30まで)
休館日火曜日(祝・休日の場合は開館し、翌平日閉館)、12月28日〜1月4日、臨時休館日
入館料高校生以上:常設展示期間400円、企画展開催期間600円/中学生以下無料
アクセスリニモ(東部丘陵線)「長久手古戦場」駅(L04)から北西へ徒歩約3分
2026年9月の一時的な変更(公開直前に要再確認)
展示替え休館

9月17日(木)・18日(金)は展示入替のため休館します。

秋季企画展

9月19日(土)〜11月29日(日)は秋季企画展「森兄弟-戦国を生きた家族-」を開催します。この期間は入館料が高校生以上600円になります。

駐車場

公園内西側駐車場が整備のため閉鎖されるとの案内があります。公共交通機関の利用をおすすめします。

撮影について/館内には撮影禁止のエリアがあり、フラッシュ撮影と三脚の使用は禁止されています。撮影可否の表示は展示ごとに確認してください。
記念館が建つのは、国指定史跡「長久手古戦場」に隣接する古戦場公園の一角です。展示を見てから扉を出ると、そのまま戦場跡地を歩けるという立地そのものが、この施設の強みになっています。

長久手古戦場へのアクセス|名古屋からリニモで行く

長久手市は名古屋市の東に隣接し、ジブリパークのある愛・地球博記念公園やトヨタ博物館と同じリニモ(東部丘陵線)沿線にあります。最寄りは「長久手古戦場」駅で、記念館・古戦場公園までは北西へ徒歩約3分です。駅前にはイオンモール長久手があるため、食事や休憩の場所には困りません。

アクセス

最寄り駅リニモ(東部丘陵線)「長久手古戦場」駅(L04)から北西へ徒歩約3分
名古屋駅から(鉄道)地下鉄東山線で藤が丘駅へ約30分 → リニモに乗り換え約10分 → 徒歩約3分
名古屋駅から(バス)名鉄バスセンターから「トヨタ博物館前」行きで約70分、「長久手古戦場駅」下車 徒歩約3分
東名高速道路「名古屋IC」から東へ約2.5km、または名古屋瀬戸道路「長久手IC」から西へ約1.1km、「古戦場南」交差点を北へ
駐車場記念館に駐車場あり。台数に限りがあるうえ、2026年9月からは西側駐車場が整備のため閉鎖されるとの案内があります。公共交通機関の利用が確実です。

古戦場公園内の勝入塚・庄九郎塚、そして公園から少し離れた武蔵塚は、いずれも徒歩で回れます。案内表示は整っていますが、武蔵塚は公園の外にあるため、地図アプリで位置を確認しながら歩くと迷いません。実際に歩いた際も、地図さえ見られれば特に問題はありませんでした。

どう回る?|記念館から3つの塚を歩く

今回は古戦場公園を先に歩いてから記念館に入りましたが、もう一度行くなら順番を逆にします。記念館で合戦の流れとルートマップを手に入れてから外へ出たほうが、塚や地形の意味が分かるからです。以下は、その反省を踏まえた推奨順です。

2026年6月の訪問では、古戦場公園に入ってから武蔵塚を見終えるまでが約25分、記念館の滞在が約40分でした。移動や休憩を含めても、記念館と公園・3つの塚で1時間半を見ておけば十分に回れます。時間に余裕があれば、御旗山や色金山まで足を延ばすと、家康側の視点が加わります。

小牧・長久手の戦いとは|長久手で何が起きたのか

天正10年(1582)、織田信長が嫡男・信忠とともに本能寺の変で横死すると、織田家中は主導権をめぐって割れます。台頭したのが、京都を中心に地盤を固めた織田家臣の羽柴秀吉と、北条氏と和議を結んで三河など五か国を勢力圏に収めた徳川家康でした。天正12年(1584)、秀吉が信長の後継者の位置に就くことに反発した信長の次男・織田信雄が家康に支援を求め、尾張・美濃・伊勢を舞台とする広い戦役が始まります。これが小牧・長久手の戦いです。

開戦から小牧の対陣まで

戦端は、信雄の家臣が守る犬山城が秀吉方に攻め落とされたことで開きます。続く羽黒(八幡林)の戦いでは、逆に家康軍が森長可の部隊を破りました。秀吉は大軍を率いて楽田城に本陣を置き、家康は南へ約6キロメートル、標高86メートルの小牧山に築かれた小牧山城に入ります。信長が築いた山城に家康が入り、両軍が睨み合う。この対陣が長く続き、戦線は膠着しました。

中入り作戦と、4月9日の4つの戦い

膠着を破るために秀吉方が採ったのが、家康の本拠地・三河を突く別働隊の派遣、いわゆる中入りです。4月6日の夜半、三好秀次を総大将におよそ2万の軍勢が岡崎方面へ動き出しました。しかしこの動きは家康に察知され、家康と信雄は軍を返して追撃にかかります。4月9日、長久手周辺では性格の異なる4つの戦闘が連鎖して起こりました。

岩崎城の戦い三河へ急ぐ池田隊が、岩崎城を守る丹羽氏重側の攻撃を受けて交戦。およそ6,000対200余りという兵力差で、岩崎城はほどなく落ちました。
白山林の戦い長く伸びた隊列の最後尾、三好秀次の部隊が早朝に朝食をとっていたところへ、榊原康政らの部隊が背後から襲撃。混乱の中で秀次は乗馬を失い、討死寸前まで追い詰められました。
桧ヶ根の戦い敗報を受けた堀秀政が桧ヶ根の丘に布陣し、勝利に沸く徳川軍を鉄砲で迎え撃って優勢に立ちます。しかし御旗山に家康本隊が到達し、金扇の馬標が掲げられたのを見ると、堀は素早く兵を引きました。
仏ヶ根の戦いこの日の決戦。現在の古戦場公園一帯が舞台で、池田恒興・元助父子と森長可が討たれました。

ここで注目したいのが、御旗山と桧ヶ根の関係です。堀秀政は戦術的には勝っていたのに、家康の馬標を見た瞬間に撤退を選んでいます。戦場の高低差と、どこに誰の旗が立ったかが、そのまま判断を左右した。記念館で展示を見てから御旗山や桧ヶ根公園の位置を地図で確かめると、この判断の意味が地形として理解できます。

仏ヶ根の決戦|古戦場公園で何が起きたか

記念館のシアター映像では、この決戦の布陣が具体的に紹介されます。池田恒興の本陣がおよそ2,000、右翼に息子の元助がおよそ4,000、左翼に森長可がおよそ3,000。対する家康・信雄の本隊がおよそ6,300、仏ヶ根には井伊直政の部隊がおよそ3,000。長久手のこの一帯に、あわせておよそ1万8,000の軍勢が集まりました。

戦いが始まったのは午前10時頃とされます。井伊直政の部隊が池田恒興隊に襲いかかり、森長可は眉間に銃弾を受けて即死しました。享年27。続いて永井直勝が池田恒興を討ち取り、恒興は享年49。長男の元助も討たれ、享年26でした。朝から始まった戦いは、昼過ぎには決着しています。現在の古戦場公園に勝入塚と庄九郎塚が、公園の西に武蔵塚が残るのは、この数時間の結果です。

「秀吉と家康の直接対決」という言い方について/小牧・長久手の戦いは、のちの天下人となる二人が生涯で唯一直接争った戦役として紹介されます。ただし4月9日に長久手で家康が戦ったのは、三河へ向かった秀吉方の別働隊であり、秀吉本人と家康がこの戦場で向かい合ったわけではありません。「戦役として両陣営が直接対決した」という意味で読むと、現地の位置関係とも矛盾しません。

戦いはどう終わったのか

長久手の戦闘は家康方の勝利に終わりましたが、それで戦役が決したわけではありません。両軍は再び膠着し、戦線は蟹江などへ広がっていきます。決着をつけたのは戦場ではなく交渉でした。天正12年11月、秀吉と織田信雄が単独で講和を結びます。家康は「信雄を助けて織田家を守る」という大義名分そのものを失い、兵を引くことになりました。

翌天正13年(1585)、秀吉は関白に上り詰め、織田家を頂点とする体制は事実上崩壊します。秀吉は講和後も家康討伐を計画していたとされますが、天正13年11月(1586年1月)の天正大地震による被害でこれを中断したと語られています。最終的に家康は天正14年(1586)に上洛して秀吉に臣従しました。秀吉が妹の朝日姫を家康に嫁がせ、母の大政所を人質として送り出したうえでのことです。

つまり長久手は、家康が秀吉に勝った戦いであると同時に、勝っても天下は動かなかった戦いでもあります。それでも「家康は秀吉に負けなかった」という事実は残り、のちに家康が江戸幕府を開く土台のひとつになりました。記念館の映像も、この戦いをそう位置づけて締めくくります。

記念館の展示では、長久手周辺で起きたこれらの戦闘が個別に解説されています。古戦場公園一帯は、そのうち仏ヶ根の戦いの舞台にあたります。展示パネルによれば、ここで池田恒興の部隊と井伊直政の部隊が激突し、池田恒興・元助父子と森長可が討死しました。公園に残る3つの塚は、その戦いと結びついた場所です。

現地に残るもの|古戦場公園と3つの塚

ここからは、実際に歩いて確認できる場所を紹介します。前提として押さえておきたいのは、塚に立つ石碑の多くが江戸時代以降に建てられた顕彰の碑であり、合戦当時の遺構がそのまま残っているわけではない、という点です。「戦死地とされる場所に築かれた塚と、後世の碑」として見ると、現地の見え方が正確になります。

国指定史跡入園無料

古戦場公園

主戦場跡地に整備された、起伏の残る史跡公園

緑の木立の中を上る長久手古戦場公園の園路
史跡を結ぶ園路。起伏のある地形と木立が残されている

国指定史跡「長久手古戦場」の中心にあたる公園です。園内には勝入塚と庄九郎塚があり、芝生広場やベンチ、解説板が整備されています。歩いてみると分かりますが、園内は平坦ではありません。ゆるやかな上り下りが続き、木立と地形が残されているため、住宅地の中にありながら戦場だった土地の形が想像できます。

園路も塚の周囲も荒れておらず、案内表示も新しく保たれています。地域で大切にされている史跡だという印象が、歩いているあいだずっと続きました。

園内で確認できるもの
  • 国指定史跡「長久手古戦場」の解説板(合戦の経過と史跡の位置を地図で表示)
  • 勝入塚・庄九郎塚と、それぞれの解説板
  • 周辺史跡の案内図(武蔵塚など公園外の史跡も掲載)
  • 芝生広場・ベンチ・園内図つきの案内柱
地図と合戦図を載せた国指定史跡長久手古戦場の解説板
周辺史跡を地図と写真で示す長久手古戦場の案内板

タップすると拡大できます

所要時間の目安/勝入塚・庄九郎塚を見て園内を一周するだけなら15分ほど。武蔵塚まで含めると、2026年6月の訪問では約25分でした。

園内の解説板では、国指定史跡「長久手古戦場」の指定範囲と、小牧・長久手の戦いの経過が地図とあわせて説明されています。周辺史跡の案内図には勝入塚・庄九郎塚・武蔵塚の位置が写真つきで示されており、次にどこへ行くか決めるのに役立ちます。
国指定史跡の構成要素見学自由

勝入塚(しょうにゅうづか)

池田恒興が討死したと伝わる場所に築かれた塚

石組みと石柵に囲まれた勝入塚
石組みと石柵に囲まれた勝入塚の全景

羽柴秀吉方の武将・池田恒興(勝入)が討死したと伝わる場所に築かれた塚です。中央には「勝入池田公戦死塚」と刻まれた碑が立ち、周囲は石組みと石柵で囲われています。碑は江戸時代から明治期にかけて建てられたもので、合戦当時の遺構ではありません。

園路から数歩上がるだけで着きます。入口に案内板が立っているので、園内を歩いていれば見落としません。

木立に囲まれた勝入塚の石碑と石柵
国指定史跡長久手古戦場の勝入塚解説板

タップすると拡大できます

池田恒興/織田信長に仕えた武将で、清須会議に出席した4人のうちの1人でもあります。小牧・長久手の戦いでは秀吉方につきました。「勝入」は出家後の号です。長男の元助も同じ日に討死しており、公園内には父子それぞれの塚が残っています。
姫路城とのつながり/この日に父と兄を失ったことで、池田家の家督を継いだのが恒興の次男・池田輝政(1565〜1613)でした。輝政はのちに秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫を継室に迎え、関ヶ原の戦いの戦功で播磨姫路52万石を得ます。そして慶長6年(1601)から9年をかけて、現在われわれが見る姫路城の大天守と城郭を築き上げました。世界遺産・姫路城の姿は、長久手で父と兄が討たれたこの日から始まっているとも言えます。詳しくは姫路城完全ガイドをどうぞ。
塚は「戦死地とされる場所」に築かれたものです。文化財の資料でも碑・塚・墓の表現が混在するため、この記事では「討死したと伝わる場所に築かれた塚と、後世の顕彰碑」として扱っています。
国指定史跡の構成要素見学自由

庄九郎塚(しょうくろうづか)

池田元助が討死したと伝わる、父・恒興の塚と対になる場所

石柵と石碑で構成された庄九郎塚
池田元助(庄九郎)が討死したと伝わる庄九郎塚

池田恒興の長男・池田元助(庄九郎)が討死したと伝わる場所の塚です。石組みの上に碑が立ち、石柵で囲われた構成は勝入塚とよく似ています。園路から石畳の入口が伸び、解説板と「文化財愛護」の標柱が立っています。

勝入塚からは同じ公園内を歩いて移動できます。父と子の塚が、同じ公園の別々の場所に残っている。それだけで、この日ここで何が起きたのかは十分に伝わります。

国指定史跡長久手古戦場の庄九郎塚解説板
庄九郎塚の解説板
解説板では、国指定史跡「長久手古戦場」の構成要素として庄九郎塚が紹介され、池田恒興の長男・池田元助(庄九郎)が討死したと伝わる場所であることが説明されています。
記念館の「仏ヶ根の戦い」解説では、池田恒興の部隊と井伊直政の部隊が激突し、池田恒興・元助父子と森長可が討死したと説明されています。公園内の2つの塚と、公園外の武蔵塚は、この戦況と対応する位置に残っています。
国指定史跡の構成要素見学自由

武蔵塚(むさしづか)

森長可が落命したと伝わる、公園から少し離れた塚

木立の中に立つ武蔵塚の石碑
森長可(森武蔵守)が討死したと伝わる場所に築かれた武蔵塚

羽柴秀吉方の武将・森長可(森武蔵守)が落命したと伝わる場所の塚です。古戦場公園からは西へ歩いた住宅地の中にあり、道路沿いの入口に「武蔵塚 50m」の案内が出ています。そこから木立に覆われた小高い塚へ上っていく構造です。

石柱の門を抜けると、主碑と板碑形の石碑が立っています。市街地の中にありながら、塚の周囲だけ樹木と斜面が残っています。ここで地形が変わることが、立つと分かります。

迷わないための目印
  • 道路沿いに「武蔵塚 50m」の案内表示がある
  • 入口には「武蔵塚」の標識が立ち、木立に覆われた塚へ道が続く
  • 古戦場公園の周辺史跡案内図にも位置が示されている
武蔵塚50メートルの案内がある史跡入口
国指定史跡長久手古戦場の武蔵塚解説板

タップすると拡大できます

歩きやすさ/古戦場公園から徒歩で移動できます。歩道と信号を使って普通に歩ける距離ですが、住宅地の中で目印が少ないため、地図アプリで位置を確認しながら進むと確実です。

森長可/本能寺の変で信長とともに討たれた森蘭丸の兄にあたる武将です。「鬼武蔵」と呼ばれた猛将として知られ、小牧・長久手の戦いで討死しました。義父は池田恒興で、同じ日に同じ戦場で命を落としています。

周辺の関連史跡|御旗山・色金山・首塚ほか

長久手市内には、記念館と古戦場公園以外にも合戦にまつわる史跡が点在しています。御旗山・色金山・首塚は今回の訪問では回っていません。公式の史跡案内では、古戦場公園・3つの塚を巡る仏ヶ根コースとは別のコースとして案内されています。時間に余裕がある場合の追加候補として検討できます。現地の状況や歩きやすさについては、実際に訪れたうえで別途追記します。

御旗山国指定史跡。家康が山頂に金扇の馬標を立てたと伝わる場所。徳川方が戦場を見渡した地点として案内されています。
色金山国指定史跡・歴史公園。家康が軍議で腰掛けたと伝わる「床机石」が残ります。
首塚国指定史跡。安昌寺の雲山和尚と村人が、戦死者を敵味方の区別なく供養した塚と説明されています。
堀秀政本陣地跡秀吉方の武将・堀秀政の本陣跡を示す碑。現在は桧ヶ根公園内にあります。
長久手城趾加藤忠景の居城跡とされる場所。忠景の死後は使われなくなったと説明されています。
安昌寺首塚と戦死者供養に関わる寺院。
木下勘解由塚白山林で敗れた三好秀次に馬を譲り、討死したと伝わる木下兄弟の塚・顕彰地。近くには木下周防守の戦死の地を示す碑もあります。

公式の史跡案内は、仏ヶ根・御旗山・色金山の3コースで構成されています。古戦場公園と3つの塚は仏ヶ根コースにあたり、御旗山・色金山はそれぞれ別コースです。全体をガイドつきで回る場合の所要時間は2〜2.5時間程度とされており、個人で一日かけて歩けば3コースすべてを回ることも可能です。ガイドの申込みは1団体1,000円、原則として希望日の2週間前までとなっています。

市内の史跡をアプリで巡りたい場合は、2026年4月21日に始まった「おしえて!しょうにゅうくん!長久手のたたかいさんぽ」というデジタルスタンプラリーもあります。無料アプリ「MEGURUWAY」を使い、長久手の戦いにまつわる全14スポットを巡る内容で、参加は無料です。開催回や実施期間は変わるため、参加前に長久手市観光交流協会の案内を確認してください。

伝承と、失われたもの|床机石・鎧掛けの松・血の池

長久手の史跡を回るとき、押さえておきたい区別があります。国が史跡に指定した場所、後世に建てられた顕彰の碑、地域に伝わる伝承地、そしてすでに失われたもの。この4つは性格が違います。

1

指定史跡

国指定史跡

「長久手古戦場 附 御旗山・首塚・色金山」として1939年9月7日に指定。古戦場公園と3つの塚、御旗山・色金山・首塚がこれにあたります。

2

後世の碑

顕彰の石碑

勝入塚・庄九郎塚・武蔵塚に立つ碑は、江戸時代以降に建てられたものです。合戦当時からそこにあった構造物ではありません。

3

伝承

伝わる場所・もの

色金山の床机石は、家康が軍議で腰掛けたと伝わる石。鎧掛けの松は、合戦後に家康方の武将が鎧を掛けたと伝わる木です。

4

消失

すでに失われたもの

血の池は、家康方が血のついた槍や刀を洗ったと伝わる池ですが、池そのものは現在残っていません。現在は血の池公園として地名に名残があります。

この区別を持っておくと、現地の案内表示が「〜と伝わる」「〜とされる」と書いている理由が分かります。長久手には、史料で裏づけられることと、地域が語り継いできたことが並んで残っています。どちらがどちらなのかを見分けながら歩くのが、この古戦場のいちばん面白いところです。

合戦印(御城印)はどこで買える?

長久手古戦場記念館の開館にあわせて、「小牧・長久手の戦い同盟」による合戦印が発売されました。同盟に参加しているのは、愛知県の小牧市・長久手市・日進市・春日井市・犬山市・尾張旭市・瀬戸市・東郷町・江南市と、岐阜県の可児市・海津市です。販売開始は2026年4月22日で、数量限定のため、なくなり次第終了となっています。

長久手古戦場記念館で購入した小牧・長久手の戦いの合戦印
2026年6月の訪問時に長久手古戦場記念館で購入した合戦印

2026年6月に訪れた際には、記念館で長久手版の合戦印を購入できました。ただし限定品のため、時期によっては品切れの可能性があります。実際に国宝犬山城の合戦印は2026年5月26日に完売しています。確実に入手したい場合は、訪問前に記念館へ在庫を問い合わせておくと安心です。

現地を歩いた判断:時間がないならどう回るか

2026年6月の現地訪問にもとづく、筆者個人の優先順位です。長久手古戦場記念館や長久手市の公式な推奨順ではありません。

最優先
長久手古戦場記念館

初めて訪れるなら、先に記念館を見るのがおすすめです。受付で史跡めぐりのルートマップを入手でき、その後の歩き方を決めやすくなります。展示で合戦の背景を確認してから歩ける点もメリットです。滞在の目安は約40分。

最優先
古戦場公園・勝入塚・庄九郎塚

記念館と同じ敷地にあり、追加の移動がほぼ不要です。園内の起伏を歩くこと自体が、この土地が戦場だったことの手がかりになります。

できれば
武蔵塚

公園の外にあるため往復の時間が必要ですが、道路沿いに案内が出ており徒歩で行けます。池田父子と森長可の3人分の塚が揃うと、仏ヶ根の戦いの構図が現地でつながります。

地図|長久手古戦場記念館の位置

記念館と古戦場公園は同じ敷地です。武蔵塚は地図の西側、住宅地の中にあります。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第35回「秀長誕生」の舞台を歩く

2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・秀長を主人公とする作品です。9月13日放送の第35回「秀長誕生」で、ついに小牧・長久手の戦いが描かれました。長久手古戦場を訪ねるなら、いま行くのがいちばん面白いタイミングです。

第35回では、家康の後ろ盾を得た織田信雄が挙兵し、小牧山城に籠もる徳川軍に対して池田恒興が「あえて岡崎を攻めて城からおびき出す」策を提案します。この作戦の大将となったのが、姉・ともの子である三好信吉(のちの豊臣秀次)。しかし徳川軍の奇襲を受けて羽柴軍は大敗し、戦線は各地へ広がって膠着します。その中で小一郎(秀長)が丹羽長秀の言葉から突破口を見つける、という回でした。

つまりドラマで語られた出来事は、そのまま長久手市内の史跡に対応しています。恒興が提案した岡崎への中入り、奇襲を受けた三好隊、そして討たれた恒興父子。現地に立つと、劇中で数分だった展開が、歩いて回れる距離のなかで起きていたことが分かります。

恒興の中入り策岡崎を攻めて家康を小牧山城からおびき出す作戦。これが4月9日の一連の戦闘につながります。
三好信吉の大敗徳川軍の奇襲を受けた白山林の戦い。信吉(のちの秀次)は乗馬を失い、家臣に救われて逃れました。
池田恒興の最期仏ヶ根の戦いで討死。現地の勝入塚がその場所と伝わります。
池田元助の最期恒興の長男。庄九郎塚が残ります。
森長可の最期劇中でも際立つ「鬼武蔵」。武蔵塚がその地と伝わります。

ただし、ドラマの描写と史実は分けて見てください。人物の会話や動機づけは脚本による構成です。長久手で何が起きたかを知りたいなら、記念館の展示と現地の解説板が出発点になります。とくに「秀吉と家康が長久手で直接戦った」という理解は、前述のとおり現地の位置関係とは食い違います。

なお、記念館の目玉展示である「長久手合戦図屏風(六曲一隻)」復元模写の原本は、名古屋市の徳川美術館が所蔵しています。ドラマ関連の特別展も同館で開催されました。名古屋に滞在するなら、あわせて訪ねると理解が深まります。

小牧・長久手の戦いは、長久手だけで完結する合戦ではありません。両軍が対陣した小牧山城、織田信雄の拠点だった清洲、秀吉方の進軍路にあたる犬山。これらをあわせて歩くと、戦役全体の地理がつかめます。

よくある質問

記念館と古戦場公園、3つの塚をあわせて1時間半ほどが目安です。2026年6月の訪問では、記念館の滞在が約40分、公園に入ってから武蔵塚を見終えるまでが約25分でした。御旗山や色金山まで足を延ばす場合は、さらに時間が必要です。
記念館を先に見ることをおすすめします。受付で史跡めぐりのルートマップがもらえるほか、展示で合戦の背景を確認してから歩ける点もメリットです。
長久手古戦場記念館の入館料は、高校生以上が常設展示期間400円、企画展開催期間600円です。中学生以下は無料。開館時間は9:00〜17:00で、展示室への入場は16:30までとなっています。休館日は火曜日(祝・休日の場合は開館し翌平日閉館)と12月28日〜1月4日、および展示替えのための臨時休館日です。2026年9月19日〜11月29日は秋季企画展の開催期間にあたり、9月17日・18日は展示替え休館です。古戦場公園と3つの塚の見学は無料です。
地下鉄東山線で藤が丘駅まで約30分、リニモ(東部丘陵線)に乗り換えて約10分、「長久手古戦場」駅から北西へ徒歩約3分です。名鉄バスセンターから「トヨタ博物館前」行きのバスで「長久手古戦場駅」へ向かう方法もあり、所要は約70分です。
小牧・長久手の戦いは、のちの天下人となる二人が生涯で唯一直接争った戦役として紹介されます。ただし1584年4月9日に長久手で家康が戦った相手は、三河へ向かった秀吉方の別働隊です。秀吉本人がこの戦場で家康と向かい合ったわけではありません。
2026年9月13日放送の第35回「秀長誕生」です。織田信雄の挙兵、池田恒興による岡崎への中入り策の提案、三好信吉を大将とする部隊が徳川軍の奇襲で大敗するまでが描かれました。劇中で討たれる池田恒興・池田元助・森長可の3人は、いずれも長久手古戦場公園とその周辺に塚が残っています。
あります。池田輝政は、勝入塚が戦死地とされる池田恒興の次男で、庄九郎塚の池田元助の弟にあたります。長久手の戦いで父と兄を同じ日に失ったことで池田家の家督を継ぎ、のちに関ヶ原の戦いの戦功で播磨姫路52万石を得て、現在の姫路城を築きました。
記念館のシアターには、大人向けの解説映像とは別に、子ども向けのマンガをもとにした映像が用意されています。地上1階の無料エリアには歴史に関する書籍やボードゲーム・カードゲームが置かれ、陣羽織や兜を着て写真を撮れる体験コーナーもあります。中学生以下は入館無料です。

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