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富士山頂はなぜ、一つの神社の境内なのか——家康・秀吉と浅間大社の500年

富士山山頂に立つ浅間大社奥宮
富士山 / 山頂の帰属と武将史

富士山頂はなぜ浅間大社の境内なのか——家康の寄進から1974年最高裁判決まで

富士山の八合目から上は、法律上すべて富士山本宮浅間大社の境内地です。その根拠は、徳川家康の寄進、豊臣秀吉の朱印状、そして昭和の最高裁判決にさかのぼります。あわせて、江戸の富士講が登山道に残した信仰の場と、五合目から山頂までの神社・祠6か所の由緒も紹介します。

山頂の現在の帰属浅間大社奥宮境内地(八合目以上)
主な寄進者徳川家康(社殿・山頂)/豊臣秀吉(社領安堵)
確定した判決昭和49年(1974年)最高裁判決
登山道の信仰の場五合目〜山頂の6か所(小御嶽神社・蓬莱亀岩八大龍神・烏帽子岩宮・天拝宮・久須志神社・奥宮)
現地の物証本八合目・山頂火口縁の境界石柱(実見)

ひと目でわかるポイント

結論富士山八合目以上は、法律上は富士山本宮浅間大社の奥宮境内地
寄進の起点徳川家康が慶長11年(1606年)頃、山頂部を浅間大社へ寄進したと伝わる
秀吉の関与天正18年(1590年)の小田原征伐時、浅間大社へ社領保護の朱印状を発給
法的な確定昭和49年(1974年)最高裁判決/平成16年(2004年)に山頂地約385万㎡が譲与
現地の証拠本八合目と山頂火口縁に「浅間大社境内」の石柱が実在
登山道の信仰江戸の富士講が整えた。食行身禄は享保18年(1733年)に八合目の烏帽子岩で入定
この記事の範囲について

この記事は、富士山頂の帰属史と、家康・秀吉をはじめとする戦国〜江戸期の武将たちと浅間神社群の関わり、そして江戸の富士講と登山道沿いの神社・祠の由緒をまとめた史跡編です。山小屋や道中の様子といった2026年8月の登山そのものの記録は、別記事の吉田ルート登山実体験編にまとめています。

本八合目の山小屋の合間に立つ「浅間大社境内」の石柱
本八合目の山小屋の合間に立つ「浅間大社境内」の石柱

吉田ルートを登って本八合目にたどり着いたとき、山小屋の並びのあいだに「浅間大社境内」と刻まれた石柱が立っているのに気づきました。案内板も解説もなく、ただ置かれているだけの石です。標高約3,400mのこの地点から山頂までは、法律上すべて富士山本宮浅間大社の土地だといいます。

さらに山頂の火口縁まで進むと、今度は大内院境界を示す石柱がありました。大内院とは火口そのものを指す呼び名です。つまり、噴火口の内側までが神社の境内として線引きされていることになります。

ここでいう「境内」は、登記上の所有を指しています。なぜ一つの山の頂上が、一つの神社の土地になっているのか。答えは戦国から江戸にかけて、この山と関わった武将たちの判断にさかのぼります。

徳川家康——社殿の造営と山頂の寄進

三英傑のなかで、富士山ともっとも長く関わったのが徳川家康です。家康は青年期から晩年まで、人生のおよそ3分の1を駿河国で過ごしました。関ヶ原の戦い(1600年)に勝ち、慶長8年(1603年)に征夷大将軍となった家康は、戦勝への感謝と幕府の安泰を祈って、翌慶長9年(1604年)に富士山本宮浅間大社の本殿・拝殿・幣殿・楼門の造営に着手したと伝えられています。

このとき建てられた本殿は「浅間造」と呼ばれる二層構造で、神社建築としては例の少ない形式です。現在は国の重要文化財に指定されています。

さらに家康は、慶長11年(1606年)頃、富士山八合目以上の土地を浅間大社の境内地として寄進したと伝えられています。この寄進には、山頂をめぐる修験者と神職の利権争いを整理し、幕府による宗教統制の枠組みをつくる狙いもあったとされています。

家康の寄進は、後の時代にも法的な根拠として持ち出されました。江戸中期の安永8年(1779年)、富士山の境界と参拝料をめぐる紛争が起きた際、幕府の江戸三奉行は家康の寄進状などを根拠に、八合目以上は浅間大社の境内地であるとする裁許状を出したと伝わっています。

なお、正月の縁起物として知られる「一富士、二鷹、三茄子」については、家康が駿河で好んだもの——富士山の眺め、鷹狩り、初物の折戸茄子——を順に並べたという説がよく知られています。ただし「駿河国で高いものを順に挙げた」とする別の説もあり、由来が確定しているわけではありません。

慶長期の富士山本宮浅間大社の造営普請を描いた生成AIによるイメージ図。二層の浅間造本殿が組み上がる場面
慶長9年(1604年)に始まったとされる浅間大社の造営を描いたイメージ図です。生成AIで作成した想像図であり、当時の絵画資料や現存遺構の写真ではありません。

豊臣秀吉——小田原征伐と浅間大社への朱印状

天下統一の総仕上げに臨んだ豊臣秀吉にとっても、富士山とその周辺は政治的・軍事的に押さえておくべき土地でした。天正18年(1590年)の小田原征伐で、秀吉は20万を超えるとされる大軍を率いて東海道を進み、富士山麓を通過して後北条氏を降しています。

この軍事行動と並行して、秀吉は富士山本宮浅間大社に社領を保護する朱印状を発給し、自ら社領を寄進したと伝えられています。当時の浅間大社は駿河国一宮として宗教的にも経済的にも大きな影響力を持っていました。秀吉が社領を認めて寄進したことには、武田氏や今川氏といった旧領主の権益を組み替え、豊臣政権が伝統的な聖地の庇護者であることを示す政治的な意味があったとされています。

小田原の陣中で秀吉が家康に関八州を与えると持ちかけたという逸話も知られています。富士山の東に広がる関東への家康の移封を、富士山を東西の境目とみなす当時の発想の延長として読む見方もあります。

天正18年の小田原征伐で東海道を進む豊臣軍の隊列と、背後にそびえる富士山を描いた生成AIによるイメージ図
天正18年(1590年)の小田原征伐で富士山麓を通過する軍勢のイメージ図です。生成AIで作成した想像図で、特定の史料の描写を再現したものではありません。
このサイトは実地取材で制作しています。記事が参考になった方は、サポートいただけると励みになります

織田信長——甲州征伐帰路の「富士遊覧」

天正10年(1582年)3月、織田信長は徳川家康らとともに甲斐の武田氏を滅ぼしました。戦後処理を終えた信長は、安土城への帰路で生涯最初で最後となる「富士遊覧」を行ったと、太田牛一の『信長公記』に記されています。

記録によれば、4月10日に家康とともに甲府を発って左右口に宿泊し、翌11日には中道往還を進んで本栖に陣を構えました。12日の未明に本栖を発った一行は、朝霧高原周辺とされる地に至り、残雪の富士山を眺めながら人穴を見学しています。源頼朝の「富士の巻狩り」ゆかりの上井出の丸山や、名勝として知られていた白糸の滝についても、周囲に詳しく尋ねたと伝わります。同日夕刻には大宮(現在の富士山本宮浅間大社周辺)に到着し、家康が用意した御座所に宿泊しました。翌13日、信長は大宮を発ち、富士川を渡って東海道経由で安土へ帰っています。

この遊覧を演出したのは、甲州征伐の功で駿河国を与えられていた家康でした。家康は沿道の道幅を広げ、竹木を切り払い、水を引いて整備し、二重三重の柵を備えた陣屋と千軒を超える小屋を設けて警護にあたったと伝えられています。大宮の御座所には金銀が散りばめられ、信長はこの饗応に満足して秘蔵の太刀や脇差を家康に贈ったとされています。富士宮市立中央図書館の前には、信長が腰掛けて富士山を眺めたと伝わる「富士見石」が今も残っています。

この遊覧の2か月後、天正10年6月2日に信長は本能寺の変に倒れます。信長が富士山を訪れたのは、この一度だけでした。

天正10年の富士遊覧で、残雪の富士山を高原から望む織田信長一行を描いた生成AIによるイメージ図
『信長公記』が伝える天正10年(1582年)の富士遊覧のイメージ図です。生成AIで作成した想像図であり、同時代の絵画ではありません。

武田信玄・勝頼——国境を守る浅間信仰

甲斐国を領した武田信玄・勝頼の親子にとって、富士山は領国の南の境にあたる信仰の山で、駿河へ進出する際の要地でもありました。信玄は富士北麓の富士御室浅間神社(現在の富士河口湖町)にも、南麓の富士山本宮浅間大社にも、手厚い保護と寄進を行っています。

弘治3年(1557年)11月、信玄は富士御室浅間神社に願文を納めました。甲相駿三国同盟にもとづいて北条氏政に嫁いでいた長女・黄梅院の安産祈願で、無事に産まれれば船津の関所を開放すると誓ったと伝わります。黄梅院は無事に出産し、のちの北条家五代当主・氏直らを産みました。信玄はまた、領内の浅間神社群に「竜朱印状」を下して権益を認め、そのかわりに祈祷を義務づけたとされています。

跡を継いだ武田勝頼も浅間大社への崇敬を続け、天正4年(1576年)から社殿の再建に着手して天正6年(1578年)に遷宮を行ったと伝わります。勝頼が建てた社殿は後に焼失しましたが、家康による慶長の大造営へつながる下地になったとされています。

弘治3年、武田信玄が富士北麓の浅間神社に願文を納める場面を描いた生成AIによるイメージ図
弘治3年(1557年)の願文奉納を描いたイメージ図です。生成AIで作成した想像図で、現存する願文そのものの写真ではありません。

今川義元と富士山本宮浅間大社

駿河国を領した今川氏も、代々富士山本宮浅間大社を特別に保護しました。天文年間、今川氏と北条氏のあいだで起きた「河東の乱」で、浅間大社境内の護摩堂などが被害を受けています。今川義元は当初、勧進によって再建するよう命じましたが、本宮の別当だった宝幢院が自力で再建をやり遂げました。義元はこれを高く評価し、修造費用として新たに土地を寄進する判物を出したと伝えられています。

天文年間の河東の乱ののち、浅間大社境内の護摩堂が再建される場面を描いた生成AIによるイメージ図
河東の乱で被害を受けた護摩堂の再建を描いたイメージ図です。生成AIで作成した想像図です。

伊達政宗が詠んだ富士山

戦国武将のなかには、和歌や茶をたしなんだ者も少なくありません。仙台藩初代藩主の伊達政宗は、富士山を詠んだ和歌を残した武将歌人として知られています。

「富士の山 見る度に 気色ぞかはる 富士の山 はじめて向かう 心地こそすれ」。季節や天候、時刻によって表情の変わる富士山を、何度見ても初めて向き合うようだと詠んだ一首とされています。

伊達政宗が富士山を望みながら和歌を詠む場面を描いた生成AIによるイメージ図
政宗が富士山を詠んだ和歌にちなむイメージ図です。生成AIで作成した想像図で、特定の逸話の場面を再現したものではありません。

明治に入ると、政府の土地公有化の方針により富士山頂も国有地として処理されました。戦後、宗教法人法の施行を受けて、浅間大社側は八合目以上は徳川家康以来の神社所有地であるとして国有化の取り消しを求め、国を相手に行政訴訟を起こしたと伝えられています。

昭和49年(1974年)4月9日、最高裁判所は、八合目以上の土地(気象観測所や登山道などを除く)は浅間大社の所有であるとする神社側の主張を認める判決を下したと伝えられています。この判決を受けて、平成16年(2004年)12月、財務省東海財務局から浅間大社へ、山頂部の土地約385万平方メートルにおよぶ無償譲与通知書が送られたと報じられています。家康の寄進からおよそ400年を経て、所有権が書面のうえで確定したことになります。

浅間大社の公式サイトも、八合目以上は奥宮の境内地であり、その広さは約120万坪に達すると記しています。本八合目と火口縁には、この経緯を示す石柱が今も残っています。

本八合目に立つ「浅間大社境内」と刻まれた石柱
吉田・須走口山頂に立つ大内院境界の石柱
富士山頂の歴史と信仰を解説する案内板

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富士講と食行身禄——登山道の信仰をつくった人びと

ここまでは、武将たちが山の下から富士山を保護した話でした。一方、登山道そのものに神社や祠を建て、山小屋を成り立たせたのは、江戸の庶民です。

江戸時代、富士山への信仰で結ばれた「富士講」という集まりが各地にできました。講の中興の祖とされるのが食行身禄(じきぎょうみろく)です。寛文11年(1671年)に生まれ、元禄元年(1688年)に江戸で富士行者に弟子入りしたと伝えられています。貧しい庶民に教えを広げたことから「乞食身禄」とも呼ばれました。

享保18年(1733年)、身禄は63歳で駒込の自宅を発ち、富士山七合五勺目(現在の吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食に入りました。岩の前に小さな厨子を設け、吉田の御師・田辺十郎右衛門が付き添ったと伝わります。断食の日数は31日間とも35日間とも記録が分かれますが、身禄はそのまま山中で亡くなりました。このあいだに語った教えは「三十一日の巻」としてまとめられ、富士講の教典になったとされています。

身禄の死後、その娘や門人によって講は次々に増え、「江戸八百八講」と呼ばれるほどの広がりを見せたと伝えられています。以降、富士登山は一部の修験者のものではなく、庶民が白装束で列をなして登る行事になりました。吉田ルート沿いに山小屋が連なり、その多くが神社や祠を併設しているのは、この時代に整えられた仕組みが今も続いているからです。

以下に紹介する蓬莱亀岩八大龍神、烏帽子岩宮、冨士山天拝宮の3か所は、いずれもこの富士講の時代に登山道沿いへ据えられた信仰の場です。

江戸期の富士講の登拝を描いた生成AIによるイメージ図。白装束に金剛杖の一行が列をなして火山礫の道を登る場面
江戸期の富士講による登拝の様子を描いたイメージ図です。生成AIで作成した想像図であり、当時の絵画資料ではありません。
富士山(吉田口五合目)へのアクセス
起点富士スバルライン五合目(標高約2,305m)、吉田ルートの登山口。冨士山小御嶽神社もこの敷地内にあります
東京からの直行バスバスタ新宿から直行の高速バスで約2時間35分(公式目安)
電車+路線バス新宿から特急「富士回遊」で河口湖駅まで約1時間54分(片道4,200円)。河口湖駅から路線バスで五合目まで約55分(片道2,000円・往復3,400円、2026年7月1日改定)。富士山駅からは約1時間5分です
開山期間2026年シーズンは7月1日〜9月10日。この期間外は八合目以上の各社に神職が常駐していません
入山規制通行料4,000円、5合目ゲートは14時〜翌3時閉鎖、1日の入山者数に上限が設けられていると報じられています。最新情報は公式でご確認ください

富士吉田市観光ガイドの吉田口登山道ルートガイド

富士急行バスの富士山駅・河口湖駅〜富士山五合目 時刻表と運賃

運賃・所要時間・入山規制は2026年8月時点で各社および自治体の公式情報を確認したものです。改定される場合があるため、出発前に最新情報をご確認ください。八合目以上の各社(天拝宮・久須志神社・奥宮)へは、この五合目から徒歩で登る以外の到達手段はありません。

登山道沿いの神社と祠

2026年8月の吉田ルート登山で通った、登山道沿いの信仰の場を標高順に紹介します。五合目の小御嶽神社、八合目の蓬莱亀岩八大龍神・烏帽子岩宮・冨士山天拝宮、そして山頂の久須志神社と富士山本宮浅間大社奥宮の6か所です。成り立ちはそれぞれ違い、武将の寄進によるものと、富士講の時代に据えられたものが混在しています。

なお、蓬莱館近くの亀岩と刻まれた石碑は見つけて撮影しましたが、八大竜王・福徳弁天を祀る祠そのものは見当たりませんでした。元祖室隣の烏帽子岩宮の社殿と鳥居は見つけましたが、身禄が入定したとされる烏帽子岩そのもの(岩の形状)は特定できていません。以下ではそれぞれ確認できた範囲の写真を使っています。

五合目・標高約2,305m

冨士山小御嶽神社——富士山より古い山に建つ社 🎥 360°

冨士山小御嶽神社の拝殿正面
冨士山小御嶽神社の拝殿正面(五合目・標高約2,305m付近)

富士スバルライン五合目のバスターミナルから歩いてすぐ、赤い欄干の参道の先に建つのが冨士山小御嶽神社です。山梨県の公式観光サイトによれば、創建は承平7年(937年)。鎮座しているのは「小御嶽山」という別の山の山頂で、この小御嶽は富士山よりも古く、古富士とともに度重なる噴火を経て現在の富士山の土台になったとされています。今の富士山の五合目に神社があるのは、その古い山の頂だからです。

祀られているのは小御嶽太郎坊正真という天狗で、道開きの神とされています。五合目周辺は「天狗の庭」と呼ばれ、天狗が支配していたという言い伝えが残ります。境内には重さ百貫(375kg)の天狗の大斧が置かれていました。登山の安全を祈願する人が絶えず、金剛杖や御守りもここで受けられます。

御朱印

冨士山小御嶽神社でいただいた御朱印

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🎥
360° パノラマ — 現地体験 冨士山小御嶽神社の社頭(吉田ルート五合目)
赤い欄干に沿う冨士山小御嶽神社の参道
小御嶽神社の拝殿正面を見上げた様子
冨士山小御嶽神社の拝殿正面
小御嶽神社境内の手水舎
小御嶽神社境内に置かれた天狗の大斧の斧頭
天狗の大斧の斧頭を間近から見た様子
小御嶽神社境内の狛犬
小御嶽神社境内の狛犬と石積み
小御嶽神社の社務所と参拝者
小御嶽神社境内の案内図
小御嶽神社のお守りカードと御朱印

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八合目・標高約3,150m

蓬莱亀岩八大龍神——水の神を祀る岩

蓬莱館近くに立つ亀岩の石碑
蓬莱館近くに立つ亀岩の石碑

七合目の岩場を登りきった先、標高約3,150mに建つのが蓬莱館です。五合目から山頂までのちょうど中間にあたります。富士吉田市の観光ガイドによれば、この蓬莱館の近くに「亀岩」と呼ばれる大きな岩があり、そこに八大竜王を祀る祠が置かれ、のちに福徳弁天もあわせて祀られたとされています。

八大竜王は水にまつわる神です。富士山は火山で、山肌に流れる水がありません。江戸期の登拝者にとって水は山小屋で買うか担ぎ上げるものでした。同じ八大竜王は、この一つ下の七合目・東洋館の下にある「お穴」と呼ばれる溶岩洞窟にも祀られています。八畳ほどの広さで、洞窟の天井から水が滴るのだといいます。水の乏しい山で、水の湧く場所と水の神が結びついていたことがうかがえます。

今回の登山では、蓬莱館の前で温かい汁物を出してもらって休憩しました。亀岩と刻まれた石碑は見つけられましたが、八大竜王・福徳弁天を祀る祠そのものは見当たりませんでした。

八合目・蓬莱館の正面看板
八合目・蓬莱館の正面の登山道
蓬莱館周辺の急な岩場を登る登山者
蓬莱館周辺の鎖で区切られた急な溶岩の岩場
蓬莱館へ続く石段と火山岩
蓬莱館で購入した体にしみる豚汁

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八合目・標高約3,250m / 差別化フック

烏帽子岩宮——食行身禄が入定した岩

烏帽子岩宮の社殿と鳥居
烏帽子岩宮の社殿と鳥居

八合目の山小屋・元祖室は、烏帽子岩のすぐ隣に建っています。この烏帽子岩こそ、享保18年(1733年)に食行身禄が断食に入り、そのまま亡くなった場所です。当時この地点は七合五勺目と呼ばれていました。

元祖室が公開している沿革によれば、身禄の入定が大きなきっかけとなって、身禄を祀る烏帽子岩神社が建てられました。元祖室そのものが創業したのもほぼ同じ時期で、初代の小屋主は身禄に付き添った田辺十郎右衛門だとされています。つまりこの山小屋は、宿泊施設であると同時に、身禄の入定を見届けた家がそのまま守ってきた場所ということになります。七代目までが田辺家で、八代目以降は川村家が継いでいるとされています。

さらに古く、昭和60年(1985年)に元祖室付近で1482年の年紀を持つ不動明王像の御正体が見つかっており、室町時代にはすでにこの場所に堂宇があったと考えられています。標高3,250mの地点に、少なくとも550年近く前から何らかの信仰の建物があったことになります。

今回の登山では元祖室で休憩し、隣に建つ烏帽子岩宮の社殿と鳥居も見つけて撮影しました。ただし、身禄が入定したとされる烏帽子岩そのもの(岩の形状)を特定して撮ることはできていません。

御朱印

烏帽子岩宮でいただいた御朱印

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八合目・元祖室の外観
標高3,250mを示す八合目元祖室の看板
元祖室の山小屋正面
元祖室の窓口と石積み外壁
八合目・元祖室の売店
元祖室の売店と登山者
八合目・元祖室へ続く石段
八合目・元祖室の外観と流れる雲
元祖室前の石段と参拝施設

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八合目・標高約3,250m

冨士山天拝宮——山頂から下ろされた社 🎥 360°

富士山天拝宮の社殿と鳥居
富士山天拝宮の社殿と鳥居

元祖室に隣接して建つのが冨士山天拝宮です。白い鳥居が入口に立っていて、登山道から社殿までがひと続きに見えます。標高3,250mという高さに、木造の社殿がきちんと建っているのが目を引きました。

富士吉田市の観光ガイドによれば、この社は明治15年(1882年)に山頂から遷されたものです。もとは山頂にあった社を、この八合目まで下ろしたことになります。毎年7月中旬から8月中旬にかけて神職が参籠し、御札やお守りを出しているとされています。訪れたときも、火山礫の上に御朱印や記念印の紙札が並べられていました。

冨士山天拝宮の前身である天拝所は、かつて富士山頂の金明水付近にありました。しかし、石積みの施設は山頂の厳しい自然条件によって毎年のように崩れ、当時の人力による修繕が困難になったと伝えられています。そのため明治15年(1882年)、吉田口八合目の元祖室へ移されました。移転先として元祖室が選ばれた背景には、そこが富士講中興の祖・食行身禄の入定した霊跡であり、身禄を祀る身禄堂・元祖室が設けられていたことがあると考えられます。扶桑教にとって特に重要な聖地であり、天拝所の信仰を受け継ぐ場所としてふさわしかったのでしょう。こうして天拝所と元祖室が一つにまとめられ、現在の冨士山天拝宮となりました。なお、神仏分離による移転とする説もありますが、神仏分離の実施時期とは約8年の隔たりがあり、扶桑教側の説明では施設維持の困難が直接の理由とされています。

元祖室が公開している沿革では、明治期に神道扶桑教が組織化されるなかでこの天拝宮が建てられ、御神体が毎夏、本部から遷されて祀られると説明されています。

御朱印

天拝宮でいただいた御朱印
天拝宮で授与された富士山の木製記念札

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🎥
360° パノラマ — 現地体験 冨士山天拝宮の社頭(八合目・元祖室隣)
富士山天拝宮の社殿正面
元祖室と富士山天拝宮の全景
火山礫の上に並べられた御朱印・記念印の紙札
元祖室と富士山天拝宮周辺

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山頂・標高約3,710m

久須志神社——吉田口山頂に着いて最初に出会う社

吉田口山頂の久須志神社入口
吉田口山頂の久須志神社入口

夜通し登って吉田口山頂の鳥居をくぐると、山小屋の並びとともに現れるのが久須志神社です。浅間大社の公式サイトによれば、須走口・吉田口・河口湖口の登山道の頂上に鎮座し、大名牟遅命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っています。奥宮の末社(本社の管理下に置かれた小規模な神社)にあたる社です。

入口には白い狛犬が据えられ、社の前には石柱が立っていました。掲示された御朱印や神紋を見ることができます。奥宮が火口の反対側にあるのに対し、久須志神社は吉田ルートで登ってきた人が最初にたどり着く位置にあります。御来光を待つあいだ、参拝に立ち寄る人の姿が続いていました。

御朱印

久須志神社でいただいた御朱印
「六根清浄」と記された久須志神社の御朱印
久須志神社の御朱印
銀色の富士山をあしらった久須志神社の御朱印(見開き)

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久須志神社前に立つ石柱
久須志神社側の白い狛犬像
久須志神社側の狛犬像
久須志神社に掲げられた御朱印や神紋
久須志神社側の山小屋と参拝施設
久須志神社の入口

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山頂南東・標高約3,700m / 差別化フック

富士山本宮浅間大社奥宮——八合目以上を治める本社 🎥 360°

富士山本宮浅間大社奥宮の社殿全景
富士山本宮浅間大社奥宮の社殿全景(山頂(御殿場口・富士宮口側)・標高約3,700m付近)

お鉢巡りの東側を1時間ほど歩いた火口の南東側に、富士山本宮浅間大社の奥宮があります。浅間大社の公式サイトによれば、主祭神は浅間大神(木花之佐久夜毘売命)で、父神の大山祇神と瓊々杵尊を相殿に祀っています。7月・8月の開山期には神職が奉仕し、諸祈願のほか結婚式まで受け付けていると案内されています。

この記事の冒頭で触れた「浅間大社境内」の石柱が示す土地は、法的にはこの奥宮の境内地です。公式サイトはその広さを約120万坪と記しています。奥宮のすぐ手前には「富士山頂浅間大社銀明水」と刻まれた石碑があり、火口縁に立つ大内院境界の石柱もこの近くです。標高3,700mの火山礫の上に、社殿と鳥居、石灯籠が整然と並んでいます。

御朱印

富士山頂上・浅間大社奥宮の御朱印(見開き)
富士山頂上・浅間大社奥宮の御朱印
金色の富士山をあしらった浅間大社奥宮の御朱印(見開き)

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🎥
360° パノラマ — 現地体験 富士山本宮浅間大社奥宮の社頭(富士山頂)
富士山本宮浅間大社奥宮の社殿入口
富士山本宮浅間大社奥宮の鳥居と石灯籠
富士山頂の浅間大社奥宮を示す木柱
「富士山頂浅間大社銀明水」と刻まれた石碑
銀明水付近の鳥居と火口縁
浅間大社奥宮周辺の石碑
石積み壁に取り付けられた金属製の鐘
山頂施設に掲示された御朱印・記念印の案内
奥宮の社殿越しに見る山頂の峰
浅間大社奥宮周辺で休憩する登山者

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現地を歩いた判断:6か所をどう回るか

2026年8月に吉田ルートを1泊2日で歩いたうえでの、筆者個人の優先順位です。公式の推奨順ではありません。

最優先
五合目の小御嶽神社

登り始める前に立ち寄れます。体力を使わずに参拝でき、金剛杖もここで買えます。天狗の大斧は他では見られないので、バスを降りたら先に寄っておくのがおすすめです。

通り道なので
八合目の天拝宮(元祖室隣)

登山道が社殿の前を通るので、立ち寄る手間はかかりません。白い鳥居が目印です。標高3,250mに木造の社殿が建っている光景は、ここでしか見られません。

山頂に着いたら
久須志神社

吉田口山頂の鳥居をくぐればすぐ目の前です。御来光を待つ時間に参拝でき、追加の移動もいりません。

事前に位置を調べて
蓬莱館の亀岩と、元祖室隣の烏帽子岩

どちらも山小屋のすぐそばですが、今回は歩いていて見つけられませんでした。探すつもりなら、事前に位置を確認しておいたほうが確実です。

時間があれば
奥宮まで足を延ばす

お鉢巡り東側を往復1時間ほど見ておく必要があります。大内院の石柱と銀明水もこの区間です。下山のバス時刻が読めないときは、久須志神社で切り上げても問題ありません。

この先は今回訪れていない南麓エリアです

2026年8月の登山は吉田ルート(山梨県側)から行っています。富士山本宮浅間大社の本殿や富士見石、人穴といった富士宮側(南麓)の史跡には、今回は行っていません。以下は、確認できている史実と伝承にもとづく背景情報です。

富士山本宮浅間大社と南麓の史跡

富士山本宮浅間大社の本殿・拝殿・楼門は、家康が造営させたと伝わる社殿群で、国の重要文化財に指定されています。境内から少し歩いた富士宮市立中央図書館の前には、信長が腰掛けて富士山を眺めたと伝わる「富士見石」があります。この逸話は『信長公記』の記述にもとづくとされていますが、当該箇所の一次史料での直接確認まではできていません。

信長が視察したと伝わる人穴(人穴富士講遺跡)は、富士山の世界文化遺産の構成資産の一つとして今も残っています。富士山北麓の富士御室浅間神社は、武田信玄が願文を納めた神社として知られています。

富士山本宮浅間大社 基本情報
正式名称富士山本宮浅間大社
所在地静岡県富士宮市宮町1-1
電車でのアクセスJR身延線 富士宮駅から徒歩約10分。新幹線利用の場合は新富士駅からバスまたはタクシー
車でのアクセス東名高速 富士ICから約20分、新東名 新富士ICから約15分(西富士バイパス経由)
駐車場普通車1時間200円・1日1,500円(30分以内出庫は参拝者無料、祈祷者は2時間無料)

富士山本宮浅間大社の公式サイト

上記は2026年8月に富士山本宮浅間大社の公式サイトで確認した情報です。参拝時間や行事による変更があり得るため、最新情報は公式サイトでご確認ください。

よくある質問

はい。法律上、富士山八合目以上は富士山本宮浅間大社の奥宮境内地です。徳川家康が寄進したとされる土地について、昭和49年(1974年)に最高裁判所が浅間大社の所有権を認める判決を下したと伝えられ、平成16年(2004年)に国から正式に譲与されたと報じられています。本八合目と山頂の火口縁には、実際に「浅間大社境内」と刻まれた石柱が立っています。

はい。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、秀吉は富士山麓を通過し、富士山本宮浅間大社に社領を保護する朱印状を発給して社領を寄進したと伝えられています。家康ほど直接的に社殿造営に関わってはいませんが、豊臣政権が伝統的な聖地を庇護する立場を示す政治的な意味があったとされています。

吉田ルートには、五合目の冨士山小御嶽神社、八合目の蓬莱亀岩八大龍神・烏帽子岩宮・冨士山天拝宮、山頂の久須志神社、そしてお鉢巡りの先にある富士山本宮浅間大社奥宮の6か所があります。奥宮と久須志神社は開山期間中に神職が奉仕し、御朱印も受けられます。天拝宮も7月中旬から8月中旬に神職が参籠し、御札やお守りを出しているとされています。由緒と回り方はこの記事の「登山道沿いの神社と祠」にまとめています。

江戸の富士講を立て直したとされる行者です。寛文11年(1671年)に生まれ、貧しい庶民に教えを広げたことから「乞食身禄」とも呼ばれました。享保18年(1733年)、63歳で富士山七合五勺目(現在の吉田口八合目)の烏帽子岩に入り、断食のすえ亡くなっています。断食の日数は31日間とも35日間とも伝えられます。このとき語った教えは「三十一日の巻」としてまとめられ、その死後に富士講は「江戸八百八講」と呼ばれるほど広がったとされています。

江戸時代の富士講による集団登拝を受け入れるなかで、宿泊機能を備えた山小屋が整えられたためだとされています。八合目の元祖室は、食行身禄の入定をきっかけに創業したと伝えられ、初代の小屋主は身禄に付き添った吉田の御師・田辺十郎右衛門だったとされています。山小屋の多くが神社や祠を併設しているのは、この時代の仕組みが今も続いているからです。

本殿・拝殿など富士宮側(南麓)の史跡は、今回の吉田ルート登山では訪れていません。山頂にある奥宮と久須志神社、五合目の小御嶽神社の3社には実際に参拝しました。南麓の史跡は、確認できている史実と伝承にもとづく背景情報として紹介しています。

山小屋や道中の標識、御来光、下山路の様子など、2026年8月の吉田ルート登山そのものの記録は、姉妹記事の吉田ルート登山実体験編にまとめています。

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