豊臣秀吉が1587年に完成させ、1595年に取り壊した聚楽第。建物はひとつも残っていません。いま現地にあるのは、住宅街に点在する石標と説明板です。この記事では実際に歩いて確かめた碑を地点ごとに整理し、京都市考古資料館で見た出土瓦と御城印、そして「聚楽第から移された」と伝わる門までを、約4.2kmのモデルコースとあわせて紹介します。
訪問前に知りたい、今の聚楽第跡で見られるものとアクセス
はじめにお伝えしておくと、聚楽第に城の建物は残っていません。天守も門も御殿も、現地にはひとつも立っていません。完成からわずか8年で取り壊され、その跡地はそのまま京都の町に飲み込まれました。いま歩いて確かめられるのは、町角に置かれた石標と説明板、そして地面の起伏だけです。
それでも歩く価値があるのは、碑の位置が城の輪郭をなぞっているからです。東の濠を示す碑と西の濠を示す碑のあいだに立つと、そこが本丸の幅にあたります。碑をたどる行為そのものが、消えた城の平面図を足でなぞる作業になります。あわせて京都市考古資料館へ寄ると、その地下から出た金箔瓦を見ることができます(2026年9月の訪問時は特別展示によるもので、会期後は展示内容が変わります)。
城域と濠を示す石標、周辺の武家屋敷跡を示す石標、京都市考古資料館の出土品展示。いずれも徒歩でまわれる範囲にあります。
聚楽第の建物は現存しません。「聚楽第から移された」と伝わる門や建物は、いずれも聚楽第跡とは別の場所に建っています。石碑の位置も、建物の正確な位置を示すものではありません。
アクセスと歩き方
石碑は上京区の住宅街に散らばっているため、「聚楽第跡」というひとつの入口はありません。筆者は京都市考古資料館を先に見学し、そこから北→南へ移動する順で歩きました。展示で城の範囲と出土品を頭に入れてから碑をたどると、ひとつひとつの位置が理解しやすくなります。
| 起点となる駅 | JR京都駅/地下鉄二条城前駅。いずれの駅も石碑群のすぐそばではありません。二条城前駅から歩く場合、もっとも近い石碑(聚楽城武家地 徳川家康邸跡)まで約1.2km・徒歩16分です。JR京都駅からは市バスの利用が前提になります |
|---|---|
| 京都駅からのバス | 京都市考古資料館へ向かう場合:市バス9系統「堀川今出川」下車、西へ徒歩2分 |
| 地下鉄からのバス | 京都市考古資料館へ向かう場合:地下鉄今出川駅から市バス51・59・201・203系統「今出川大宮」下車すぐ |
| 聚楽第跡への案内 | 京都観光Naviは市バス「千本出水」から約300mと案内。どの碑から歩き始めるかで最寄りのバス停は変わります |
| 現地移動の難易度 | 平坦な市街地。ただし一帯は真っ平らではなく、西外堀跡の周辺には坂道があります |
| 推奨する交通手段 | 市バス+徒歩。碑は住宅街の路地に点在するため、徒歩での移動が前提になります |
| 所要時間の目安 | 下記モデルコースの場合、Google Mapsで前半約2.2km・徒歩31分/後半約2.0km・徒歩27分(合計約4.2km・約58分)。撮影や説明板を読む時間を加えると、資料館の見学時間を除いて1時間30分〜2時間ほどを見込む計算です。実測値ではありません |
| 駐車場 | 専用の駐車場はありません。石碑はいずれも路上や民地際にあるため、周辺のコインパーキングを利用することになります |
| 注意点 | 碑の多くは民家や事業所の敷地際に立っています。撮影の際は私有地に立ち入らないようご注意ください。日陰が少ない区間があるため、夏場の日中に歩く場合は暑さ対策をおすすめします |
モデルコース:聚楽第跡をたどる約4.2kmの順路
聚楽第は、天守や石垣がまとまって残る城跡ではありません。そのため、以下のモデルコースでは京都市考古資料館を出発点に、発掘地点や堀跡、武将たちの屋敷跡・伝承地を順番に歩きます。前半は聚楽第の北側から本丸周辺、西側へ進み、後半は南側の外濠と武家屋敷地をたどって堀川丸太町へ向かう構成です。
| 前半 | 京都市考古資料館 → 豊臣秀勝邸跡伝承地。Googleマップ上で約2.2km・徒歩31分 |
|---|---|
| 後半 | 豊臣秀勝邸跡伝承地 → 堀川丸太町バス停。Googleマップ上で約2.0km・徒歩27分 |
| 合計 | 約4.2km・徒歩約58分(歩行時間のみ) |
| 見学を含めた目安 | 石碑や案内板を確認し、写真を撮りながら歩くなら1時間30分〜2時間。京都市考古資料館の見学時間(40〜60分)は別に見ておいてください |
| コースに含む未訪問地点 | 西外堀跡、梅雨の井、鵲橋旧跡碑、直江兼続・上杉景勝屋敷推定地。位置はGoogleマップ上で確認したもので、現地の状況は未確認です |
前半|京都市考古資料館 → 豊臣秀勝邸跡伝承地
まず京都市考古資料館で聚楽第の発掘調査について知ってから現地へ向かいます。千利休、加藤清正、黒田如水、上杉景勝といった秀吉政権を支えた人物の屋敷跡をたどり、そのあと本丸周辺の濠跡へ。最後は聚楽第の西側を南下し、豊臣秀勝の屋敷跡伝承地まで歩きます。
聚楽第の復元図と出土した金箔瓦を先に見ておくと、このあと歩く石碑の位置が意味を持ちます。
晴明神社の近く。茶人の屋敷が政庁のすぐそばにあったことが分かります。
図版入りの解説パネルが並びます。石標には平安・室町・桃山の三時代の刻字。
「如水町」の町名に屋敷の記憶が残っています。路地際なので見落としに注意。
弾正町。織物工場の門前に立っています。
城域の東端。ここから次の西濠跡までが本丸の幅にあたります。
石標・木製駒札・京言葉の解説板が並ぶ、もっとも情報量の多い地点。
筆者は未訪問です。位置はGoogleマップ上で確認しました。周辺には坂道があります。
聚楽第の刻字は側面。正面は平安宮の碑文なので、回り込んで確認を。
前半のポイントは、「聚楽第そのもの」と「聚楽第を取り囲んだ武家屋敷地」の両方を見られることです。現在の街並みを歩きながら、堀の位置と有力武将の屋敷の配置を重ね合わせていくと、聚楽第の規模がつかみやすくなります。
前半の地図後半|豊臣秀勝邸跡伝承地 → 堀川丸太町バス停
後半は豊臣秀勝邸跡伝承地から再スタートし、聚楽第の南側へ回ります。本丸南堀、梅雨の井、南外濠などをたどったあと、聚楽第の南に広がっていた武家屋敷地へ。徳川家康や直江兼続・上杉景勝に関係する地点を経て、堀川丸太町バス停で終わります。
前半のゴール地点から再開します。
2012年の発掘で東西約32mの石垣が確認された地点。石垣は地中に保存されています。
筆者は未訪問です。石碑ではなく井戸の伝承地で、ふだん見学できるかは分かっていません。
筆者は未訪問です。1932年建立の碑で、橋そのものは残っていません。
松林寺の門前。境内が一段低く、濠の痕跡とされています。
北伊勢屋町、佐々木酒造の北側。2023年建立の新しい碑です。
筆者は未訪問です。講堂町にあり、1基の石の両面に2人の名が刻まれています。
市バスで京都駅方面へ戻れます。
この後半の並びは、京都市埋蔵文化財研究所の史跡ウォーク「聚楽第を巡る」でも採用されている順序です。豊臣秀勝邸跡 → 南外濠 → 鵲橋 → 徳川家康邸跡 → 直江兼続・上杉景勝屋敷跡と歩く行程が組まれています。
後半の地図1587年の完成から1595年の破却へ――秀吉・秀次と聚楽第の歴史
聚楽第の造営が始まったのは1586年、完成したのが1587年です。関白となった秀吉が、京都における政庁かつ居所として築きました。堀と石垣に囲まれ、金箔を貼った瓦で葺かれた建物が並んでいたことが、発掘調査と当時の屏風絵から分かっています。
1588年には後陽成天皇の行幸を迎えました。天皇を自邸に招くという行為は、秀吉の地位を諸大名の前で可視化する政治的な儀礼でもありました。この行幸の様子を描いたとされる屏風は後世の作で、現場を写した記録そのものではありませんが、建物の規模や配置を知る手がかりとして繰り返し参照されています。
1591年末、関白職とともに聚楽第は甥の豊臣秀次へ譲られました。しかし1595年、秀次は失脚して自害し、聚楽第は取り壊されます。完成から8年、行幸からわずか7年後のことでした。破却の経緯については当時の記録が十分に残っておらず、なぜここまで徹底的に壊されたのかは、いまも確定していません。現地の説明板にも「当時の記録があまり残っていないので、ほんまはどうやったんかよう分かりません」と、率直に書かれています。
① 城域・堀を示す石碑:聚楽第の位置をたどる
まず押さえたいのが、城そのものの範囲を示す碑です。これらは濠の跡や本丸の縁にあたる場所に立っており、碑と碑を結ぶと聚楽第のおおよその輪郭が浮かび上がります。なお、ここで紹介する石標はいずれも近現代に建てられた標識です。桃山時代の遺構そのものではありません。
聚楽第址(東濠跡)
中立売通大宮北西角

中立売通と大宮通が交わる角に立つ石標です。城域の東側、東の濠にあたる位置を示しています。2009年に建てられたもので、この一帯でハローワークを建設した際に聚楽第の屋敷跡の瓦が出土したことを記念して設置された、と近くの説明板に書かれています。
石標は正面に「聚楽第址」、側面に「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれています。1基の石に複数の文字面があるため、別々の碑と数えないよう注意してください。
- 正面の「聚楽第址」と、側面の「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」を見比べる
- ここから西の碑までの距離が、そのまま本丸の幅の見当になる
- 平安京の大内裏の範囲とも重なる場所であることが、側面の刻字から読み取れる


タップすると拡大できます
見学の目安:5分程度。歩道に面しているため、立ち止まって読むだけで確認できます。
| 所在地 | 京都市上京区 中立売通大宮北西角 |
|---|---|
| 建立 | 2009年 |
| 示すもの | 聚楽第の東側の濠にあたる位置 |
| 見学料 | 無料(屋外・常時) |
此付近聚楽第址・本丸西濠跡
裏門通/正親小学校の北東

正親小学校の北東、裏門通に面した一角です。ここには石標と木製の駒札、さらに手書きの解説板が並んでおり、聚楽第跡のなかでもっとも情報量が多い地点といえます。
木製の駒札には「聚楽第本丸西濠跡」とあります。東濠跡の碑とこの碑のあいだが、本丸の東西の幅にあたります。石標の文言は「此付近」で始まっています。碑は場所の目印であり、建物の正確な位置を特定するものではありません。
- 木製駒札「聚楽第本丸西濠跡」の本文。本丸が二つに分かれる構造など、発掘の成果が要約されている
- 京言葉で書かれた白い解説板。ここが西の濠、250メートル東の大宮通あたりが東の濠、と距離まで示されている
- 同じ場所に立つ「平安宮大蔵省跡・大宿直跡」の石標と説明板。平安京の役所跡と聚楽第の本丸西濠が、同じ一点で重なっている





タップすると拡大できます
見学の目安:15分程度。説明板の文章量が多いため、読み込むならもう少し時間を見ておくとよいでしょう。
| 所在地 | 京都市上京区 裏門通(正親小学校の北東) |
|---|---|
| 示すもの | 聚楽第本丸の西側の濠にあたる位置 |
| 同じ場所にあるもの | 平安宮大蔵省跡・大宿直跡の石標と説明板 |
| 見学料 | 無料(屋外・常時) |
聚楽第南外濠跡
松林寺門前

浄福寺通出水を下った東入南側、松林寺の門前に立つ石標です。聚楽第の南側の外濠にあたる位置を示しています。
この地点が面白いのは、地形そのものが手がかりになっている点です。隣に立つ京都市の説明板には、松林寺の境内が周囲より一段低くなっていること、そしてその窪みが聚楽第の南外濠跡にあたることが記されています。碑の文字だけでなく、門の内側の高さを見てみてください。
- 松林寺の境内が周囲より一段低いこと。これが濠の痕跡とされている
- 隣接する「平安宮内裏東限と建春門跡」の説明板。平安京の内裏の東端も同じ場所にあたる
- 門前の石標と、寺の内側の窪地を、別々のものとして見比べる



タップすると拡大できます
見学の目安:10分程度。
| 所在地 | 京都市上京区 浄福寺通出水下る東入南側(松林寺門前) |
|---|---|
| 建立 | 2007年 |
| 示すもの | 聚楽第の南側の外濠にあたる位置 |
| 見学料 | 無料(門前・屋外) |
聚楽第本丸南堀の石垣跡(説明パネル)
京都府警察本部の敷地際

石碑ではなく説明パネルですが、聚楽第の実物の遺構にもっとも近い場所です。パネルによれば、この敷地は本丸南堀の北側にあたり、2012年の発掘調査で東西約32メートルにわたって石垣が見つかりました。石材は非常に大きく、高度な技術で積まれていたと記されています。
ただし、その石垣をいま目で見ることはできません。調査のあと、石垣は地中にそのまま保存されました。パネルの横にある石材の真下に埋まっている、というのが現在の状態です。地上に露出している石積みを、桃山時代の石垣と取り違えないようご注意ください。
- パネルに掲載された発掘時の石垣写真。積み方の大きさが分かる
- あわせて掲載された聚楽第の縄張図。本丸・南堀の位置関係が示されている
- 「聚楽第図屏風」の図版。破却前の姿を伝える数少ない手がかり
見学の目安:5分程度。パネルを読むだけで完結します。
| 所在地 | 京都市上京区(京都府警察本部の敷地際) |
|---|---|
| 設置 | 2014年5月・京都府警察本部 |
| 発掘調査 | 2012年。東西約32mの石垣を確認 |
| 石垣の現状 | 調査後に地中へ保存。地上からは見られません |
② 周辺武家地の石碑:大名たちの屋敷跡・推定地をたどる
聚楽第の周囲には、秀吉に仕えた大名たちの屋敷が置かれていました。その場所を示す石標が、いまも町なかに点々と立っています。こちらは城域の碑と違い、「伝承地」「推定地」と明記されたものが多く含まれます。建立者が古地図や日記を根拠に位置を比定したもので、発掘で確定した地点とは性格が異なります。
聚楽城武家地 上杉景勝屋敷跡
弾正町

弾正町に立つ石標です。五大老のひとり上杉景勝の屋敷がこのあたりにあったとされています。石標の足元には小さな解説プレートが据えられており、建立者が史料と地名の両面から位置を説明しています。
現在この場所は西陣の織物工場の門前です。石標は工場の入口脇に、生活の景色の一部として立っています。大名屋敷の跡が特別な史跡公園にならず、町の営みのなかに埋もれている――聚楽第跡を歩くときの基本的な感触が、この一点によく表れています。
- 石標の足元にある解説プレート。建立者による比定の根拠が書かれている
- 「聚楽城」という表記。碑は「聚楽第」ではなく「聚楽城」の語を使っている
- 後述する講堂町の碑とは別の地点。同じ上杉景勝の名が2か所に出てくる点に注意


タップすると拡大できます
見学の目安:5分程度。
| 所在地 | 京都市上京区 弾正町 |
|---|---|
| 人物 | 上杉景勝(豊臣政権の五大老のひとり) |
| 位置づけ | 建立者が史料・地名から比定した屋敷跡 |
| 見学料 | 無料(屋外・常時) |
黒田如水邸址
如水町付近

秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛、出家後の号で如水の屋敷跡を示す石標です。町名の「如水町」そのものが、この屋敷の記憶を残しています。地名が史跡の名残になっている好例です。
石標は住宅と住宅のあいだ、細い路地の入口にあります。案内表示があるわけではないので、地図を見ながら歩かないと通り過ぎてしまいます。この碑は2026年の公式ウォークの対象にも含まれていました。
- 「如水町」という町名。屋敷の記憶が地名として残っている
- 路地際という立地。大名屋敷跡がいまは民家の間にあること
- 碑は屋敷の位置を示す標識であり、建物の遺構ではないこと


タップすると拡大できます
見学の目安:5分程度。
| 所在地 | 京都市上京区 如水町付近 |
|---|---|
| 人物 | 黒田如水(黒田官兵衛孝高) |
| 位置づけ | 屋敷跡の比定地。町名に名が残る |
| 見学料 | 無料(屋外・常時) |
聚楽城武家地 豊臣秀勝邸跡伝承地
弁天町/土屋町通出水上る

この碑は見落としやすい一基です。通りに向いている正面には「平安宮内裏蘭林坊跡」と刻まれており、「聚楽城武家地 豊臣秀勝邸跡伝承地」の文字は側面に回っています。北から南へ歩いてくると、聚楽第に関する面が進行方向と逆を向くため、平安宮の碑だと思って通り過ぎてしまいます。
ここでいう豊臣秀勝は、秀吉の甥で、のちに江(崇源院)の夫となった人物です。織田信長の子で秀吉の養子となった同名の秀勝とは別人ですので、混同しないようご注意ください。所在地はあくまで「伝承地」であり、確定した屋敷跡ではありません。
- 1基の石に平安宮と聚楽第、二つの時代の刻字が同居している
- 碑の足元の石積み。周囲より一段高くなった地形が見て取れる
- 隣に立つ説明板。平安宮内裏の蘭林坊についての解説


タップすると拡大できます
見学の目安:5分程度。碑の側面に回り込んで刻字を確認してください。
| 所在地 | 京都市上京区 弁天町(土屋町通出水上る) |
|---|---|
| 人物 | 豊臣秀勝(秀吉の甥。江の夫) |
| 位置づけ | 伝承地。確定した屋敷跡ではありません |
| 見落とし注意 | 聚楽第の刻字は側面。正面は平安宮の碑文です |
聚楽城 加藤清正邸跡伝承地
石標と解説パネルが並ぶ

賤ヶ岳の七本槍で知られる加藤清正の屋敷があったと伝わる場所です。石標の隣には、図版入りの青い解説パネルが設置されています。パネルには「洛中洛外図屏風」の該当部分と加藤清正の画像が並べられ、位置の比定について丁寧な説明が添えられています。2018年8月、京都歴史地理同考会の建立です。
この石標も複数の文字面を持っています。正面が「聚楽城 加藤清正邸跡伝承地」、別の面に「此付近応仁の乱洛中合戦跡」、さらに「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」。ひとつの石に平安・室町・桃山の三つの時代が刻まれており、上京区という土地の重層性がそのまま石になっています。
- 青い解説パネルの図版。洛中洛外図屏風のなかの該当箇所が示されている
- 石標の三つの文字面。平安・室町・桃山の三時代が1基に収まっている
- 建立者による比定の説明。どの史料をもとに位置を定めたかが読み取れる

見学の目安:10分程度。解説パネルを読むなら少し長めに。
| 所在地 | 京都市上京区 |
|---|---|
| 人物 | 加藤清正 |
| 建立 | 2018年8月・京都歴史地理同考会 |
| 位置づけ | 伝承地。確定した屋敷跡ではありません |
聚楽城武家地 徳川家康邸跡
北伊勢屋町

のちに天下人となる徳川家康の屋敷が、聚楽第の武家地にあったと伝わる場所です。石標は2023年に建てられたもので、比較的新しい碑にあたります。建立者は古地図と日記を根拠に位置を説明しています。
この石標も複数の文字面を持っています。ある面には「京都所司代千本屋敷跡」、別の面には「和州郡山柳沢家陣屋跡」の文字も読み取れます。徳川の世になったのちも、この土地が武家地として使われ続けたことがうかがえます。ただし所在地はあくまで比定地であり、発掘で確定した屋敷跡ではありません。
- 「聚楽城 武家地 徳川家康邸跡」の刻字と、同じ石にある「京都所司代千本屋敷跡」など複数の文字面
- 2023年という建立年の新しさ。古い散策図だけでは拾えなかった比較的新しい候補であること
- 木造の町家の壁ぎわという立地。他の武家地の碑と同じく、生活の景色に溶け込んでいる



タップすると拡大できます
見学の目安:5分程度。
| 所在地 | 京都市上京区 北伊勢屋町(佐々木酒造の北側) |
|---|---|
| 人物 | 徳川家康 |
| 建立 | 2023年 |
| 位置づけ | 比定地。建立者が古図と日記を根拠に説明 |
千利休居士聚楽屋敷趾
晴明神社付近

茶人・千利休が聚楽第の近くに構えていた屋敷跡を示す石標です。聚楽第そのものの遺構ではなく、周辺にあった関係者の屋敷をたどる手掛かりの一つです。
秀吉と利休の関係を考えるうえで、この立地は示唆に富みます。政庁のすぐそばに茶人の屋敷があったという配置は、茶の湯が当時の政治とどれほど近い距離にあったかを、地図の上で示しています。この碑も2026年の公式ウォークの対象に含まれていました。
- 「聚楽屋敷」という呼称。利休邸が聚楽第の一部として認識されていた
- 聚楽第の中心部からの距離。政庁と茶室の近さを歩いて体感できる
- 晴明神社と組み合わせて歩ける立地
見学の目安:5分程度。晴明神社に立ち寄るなら追加で20〜30分ほど。
| 所在地 | 京都市上京区 晴明神社付近 |
|---|---|
| 人物 | 千利休 |
| 位置づけ | 屋敷跡を示す近現代の石標 |
| 見学料 | 無料(屋外・常時) |
③ 今回訪ねていない碑と、関連する顕彰碑
聚楽第にゆかりのある碑は、上に挙げたものだけではありません。以下は場所として記録しておきたいものの、筆者がまだ現地で確認できていない碑です。訪問を計画される方の参考として、所在の手がかりとあわせて挙げておきます。現地の状況は未確認のため、設置状態が変わっている可能性があります。
| 直江兼続・上杉景勝屋敷跡推定地碑 | 講堂町。1基の石の両面に2人の名が刻まれています。弾正町の上杉景勝屋敷跡碑とは別の地点です |
|---|---|
| 聚楽城鵲橋旧跡碑 | 松屋町通出水上る東側、松永稲荷前。1932年の建立。橋そのものは残っていません |
| 伝「梅雨の井」跡 | 石碑ではなく井戸の伝承地。2026年の公式ウォークの対象に含まれていました。ふだん見学できるかどうかは分かっていません |
| 木村長門守重成公旧館地碑 | 弘誓寺門前。木村重成は大坂の陣で戦った武将で、聚楽第が建っていた時期からは世代が下ります。この地との関わりは碑文と現地の説明でご確認ください |
| 聚楽第北之丸北堀跡の石垣遺構/西外堀跡 | いずれも2026年の公式ウォークの対象地点。すべてに石碑があるとは限りません。西外堀跡の周辺には坂道があります |
地図
直江兼続・上杉景勝屋敷跡推定地碑
聚楽城鵲橋旧跡碑
伝「梅雨の井」跡
木村長門守重成公旧館地碑
聚楽第北之丸北堀跡の石垣遺構/西外堀跡
④ 出土品:瓦と展示から聚楽第を知る
石碑をいくら眺めても、聚楽第がどんな建物だったかは見えてきません。それを補ってくれるのが、京都市考古資料館の展示です。地下から出てきた実物の瓦を見ると、この場所に何が建っていたのかが、はじめて手触りを持って迫ってきます。
京都市考古資料館
上京区今出川通大宮東入元伊佐町

石碑めぐりの出発点にするなら、まずここです。入館は無料で、聚楽第跡から出土した瓦が常設・特別展示の双方で扱われています。訪問時は前期特別展示「秀吉の京都改造」が開催されており、妙顕寺城から聚楽第、京都新城、淀城、伏見城へと続く秀吉期の京都を、出土品で追う構成になっていました。
展示ケースには「聚楽第」のラベルが置かれ、金箔桐文軒丸瓦、金箔唐草文軒平瓦、金箔菊文軒丸瓦、金箔巴文軒丸瓦、金箔六角文道具瓦、金箔鯱瓦が並びます。金箔が剥がれかけた瓦の表面を間近で見ると、屏風絵の金色が絵師の誇張ではなかったことが分かります。
- 聚楽第復元図。本丸・西之丸・北之丸・南二之丸と濠の位置が色分けされた大判の図で、この記事で紹介した碑がどこに対応するかを一目で確認できます
- 金箔瓦の実物。桐文・唐草文・菊文・巴文の軒瓦と、鯱瓦
- 聚楽第跡の発掘調査写真。地中の石垣がどう出てきたかが分かります
- 妙顕寺城跡の出土品。聚楽第の前段階にあたる秀吉の京都拠点








タップすると拡大できます
見学の目安:40〜60分。展示をじっくり見るならもう少しかかります。
| 所在地 | 京都市上京区今出川通大宮東入元伊佐町265-1 |
|---|---|
| 開館時間 | 9:00〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は開館し、翌平日が休館)、年末年始12月28日〜1月3日 |
| 入館料 | 無料 |
| 特別展示 | 「秀吉の京都改造」2026年7月11日〜11月23日。会期終了後は展示内容が変わります |
| アクセス | 市バス9系統「堀川今出川」下車、西へ徒歩2分/市バス51・59・201・203系統「今出川大宮」下車すぐ |
御城印:京都市考古資料館で買える聚楽第の御城印
聚楽第の御城印は、京都市考古資料館で販売されています。石碑をめぐるだけでは形の残らない訪問ですが、御城印は数少ない持ち帰れる記録になります。展示を見たあと、受付で購入できます。

種類と価格は、販売パネルに掲示されています。2026年9月の訪問時は次のとおりでした。
| 豪華版 | 2種類。1枚1,000円 |
|---|---|
| 通常版 | 4種類。1枚300円 |
| ご当地版 | 1種類。1枚400円 |
| 販売場所 | 京都市考古資料館(入館無料) |

⑤ 移築伝承:聚楽第から移されたと伝わる門と建物
聚楽第は取り壊されましたが、その建物の一部が別の場所へ移されたという伝承が、いくつかの寺社に残っています。ただし、いずれも寺伝や地元の言い伝えであり、移築の事実が史料で確定しているわけではありません。また、これらはすべて聚楽第跡とは別の場所に建っています。石碑めぐりのルートに組み込めるものではない、という点をまず押さえてください。
| 妙覚寺大門 (京都市上京区下清蔵口町) | 寺伝では聚楽第の裏門を1663年に移建したとされます。建築年代については異なる見方も紹介されています。「聚楽第の裏門と伝わる門」として見るのが適切です |
|---|---|
| 大徳寺唐門 (京都市北区紫野) | 旧聚楽第の遺構とする説明が大慈院の公式サイトにあります。勅使門・三門とは別の建物ですので取り違えないようご注意ください。なお同じ説明では、勅使門は御所由来、方丈は1636年の寄進とされています |
| 西本願寺飛雲閣 (京都市下京区) | 聚楽第からの移築伝承が知られますが、門ではなく建物です。西本願寺の公式案内では通常非公開とされています |
| 常念寺表門 (山口県萩市下五間町) | 聚楽第裏門の寺伝がありますが、山口県の文化財解説は正式な文書による裏付けがないと説明しています。京都の徒歩コースには含められません |
石碑・発掘資料・寺伝から、どこまで分かるのか
ここまで見てきた三種類の手がかりは、確からしさの度合いがそれぞれ違います。整理しておきます。
もっとも確かなのは発掘調査の成果です。本丸南堀の北側で東西約32メートルの石垣が確認され、東堀からは金箔瓦が出土しました。これらは地面の下から実際に出てきたもので、位置も遺物も記録されています。ただし石垣は再び埋め戻されており、現地で見ることはできません。
次に石碑と説明板です。これらは近現代に建てられた標識で、公式の散策図や建立団体の調査にもとづいています。信頼できる目印ではありますが、碑の立つ位置が建物の正確な位置を示しているわけではありません。多くの碑が「此付近」「伝承地」「推定地」という語を使っているのは、その限界を建立者自身が示しているからです。
そしてもっとも慎重に扱うべきが寺伝や移築伝承です。「聚楽第から移した」という伝えが寺に残っていること自体は事実ですが、それは移築が史実であることを意味しません。伝承の存在と、伝承の内容が確かめられていることは、別のことです。
もうひとつ、歩いて初めて分かったことがあります。この一帯は真っ平らではありません。場所によってはっきりと高低差があります。松林寺の境内が一段低いこと、西外堀跡の周辺に坂があること。濠と土塁でできた城の輪郭が、四百年を経た住宅街の地面に、わずかな傾きとして残っています。路地の石積みは近代以降に積まれたものが大半ですが、その石積みが必要になるほどの段差がある、という事実自体が、地形の名残を伝えています。

複数回の現地訪問(最終:2026年9月)にもとづく、筆者個人の優先順位です。各施設・各自治体の公式の推奨順ではありません。
入館無料で、聚楽第の復元図と出土した金箔瓦を一度に見られます。ここで城の範囲を頭に入れてから碑をたどると、石標の位置が意味を持ちます。逆にここを飛ばすと、石碑めぐりは文字を読むだけの行程になりがちです。
この2地点のあいだが本丸の幅にあたります。片方だけ見ても城の大きさは実感できません。資料館から南へ下る導線に素直に乗るため、時間が限られていてもこの2つは組み合わせて訪ねる価値があります。
妙覚寺・大徳寺・西本願寺はいずれも聚楽第跡から離れた別の場所にあり、公開条件もそれぞれ異なります。西本願寺飛雲閣は通常非公開です。石碑めぐりと同じ日に組み込もうとすると移動だけで時間を使いますので、別の機会に分けるほうが無理がありません。

comment