表坂を登り切り、松の丸を過ぎると、和歌山城の核心部へ足を踏み入れます。
本ページでは、本丸・天守閣エリアの6スポットを歩き順に徹底解説します。初代藩主・徳川頼宣が作庭したと伝わる七福の庭、本丸御殿跡の絶景、連立式天守を構成する楠門・二の門櫓・乾櫓、そして紀州徳川家の歴史を伝える天守閣まで——7枚の360°パノラマ写真と現地一次情報で体感できます。
3エリアナビ本丸・天守閣から、西の丸・紅葉渓庭園へ進む
全体ガイドへ戻る一の橋・大手門から外郭エリアを歩き、表坂を登ると本丸・天守閣エリアに入ります。天守見学後は、西の丸・紅葉渓庭園へ下ると自然な流れで巡れます。
🏯 天守閣 入場情報
| 開館時間 | 9:00〜17:30(入場は17:00まで) |
|---|---|
| 休館日 | 12月29日〜12月31日 |
| 入場料 | 大人(高校生含む)410円 / 小・中学生 200円 |
| 共通券 | わかやま歴史館との共通券あり |
本丸エリアのスポット一覧(歩き順)
七福の庭から出発し、本丸御殿跡を経て楠門をくぐると、二の門櫓・乾櫓が連なる天守群へ。江戸期の天守曲輪の構成を意識しながら、現在の見学ルートを歩きます。
① 本丸の記憶——御殿と庭園のゾーン
七福の庭(しちふくのにわ)
初代藩主・頼宣が願った城の安寧——宝船を模した江戸期の石庭

七福の庭は、初代藩主・徳川頼宣が元和7年(1621年)に本丸御殿の中庭として作庭したと伝わる石庭です。七福神に見立てた7個の巨石を「宝船」の形に配した、江戸期らしい洒落のある造りです。本丸御殿の消滅後、大正12年(1923年)に上水道貯水池整備のため松の丸跡へ移設され、現在に至ります。城公園内の散策ルート上にあり、無料で見学できます。
| 創設年 | 元和7年(1621年)頃と伝わる |
|---|---|
| 作庭伝承 | 初代藩主・徳川頼宣が本丸御殿の中庭として作庭させたと伝わる |
| 構造・特徴 | 七福神に見立てた7個の巨石(結晶片岩など)を宝船の形に配置。小石を敷いた水盤を囲む石組みの庭園。 |
| 移設歴 | 大正12年(1923年)、本丸御殿跡に上水道貯水池が設けられたため松の丸跡へ移設。 |
| 入場 | 無料。城公園内の散策ルート上。 |
⏳ 見学目安:約5〜10分/ゆったりなら約15〜20分
🗺 住所:和歌山県和歌山市一番丁3(和歌山城公園内・松の丸付近)
🚶 アクセス:表坂を登り切ってすぐ、松の丸付近
- 七福神に見立てた巨石の配置:宝船を模した石組みのユニークさ——7つの巨石が「宝船」に見立てられた江戸期らしい洒落のある庭。
- 歴史の移ろいを感じる石庭:本丸御殿の中庭→上水道施設→松の丸への移設という変遷を経て現在に残る。城の時代の変化を物語る石庭。
💡 トリビア:七福神や宝船を象徴する寓意的な石庭は、日本の城郭庭園ではあまり例を見ない珍しい造り。移設によって取り壊されず今に残ったのは、城の保存・再利用の歴史の一例でもある。
本丸御殿跡(ほんまるごてんあと)
天守を正面に望む絶景スポット——木々の緑に映える白亜の天守

現在は「本丸御殿跡」としてその地形と石垣のみが残る場所ですが、ここからの天守の眺めが本丸エリア最大のハイライトです。木々の緑の中に白亜の天守がそびえ立ち、夏の青空の下では特に際立った存在感を放ちます。明治期の廃城措置で御殿建物は取り壊され、大正12年(1923年)には上水道貯水池が設けられ、現在は柵越しに石垣や地形で「御殿跡」として確認できます。
パノラマ写真 天守を正面に望む撮影スポット。
| 役割 | 山上に置かれた本丸御殿の跡。藩主の謁見などに用いられたとされるが、江戸初期以降の藩政・生活の中心は二の丸へ移った。 |
|---|---|
| 消失・現状 | 明治期の廃城措置により御殿建物は取り壊し。大正12年(1923年)に上水道貯水池が設けられ、現在は柵越しに石垣や地形で「御殿跡」として確認可能。 |
| 見どころ | 天守を正面に望む眺望。城全体を通じてもっとも写真映えする視点のひとつ。 |
⏳ 見学目安:約5〜10分(石垣や展望、往時の地形を確認)
🗺 住所:和歌山県和歌山市一番丁3(和歌山城内・本丸エリア)
🚶 アクセス:七福の庭から徒歩2分
- 天守との距離感・見え方:往時の城主の視点に近い「城の中心」の眺望を味わえる。
- かつての御殿と庭園の面影:中庭にあった七福の庭は松の丸に移設されているが、御殿跡と合わせて往時を偲ぶことができる。
💡 トリビア:本丸御殿の台所部分は近隣の光恩寺の庫裡として移築され、現在もその姿をとどめているという。
② 連立式天守の関門——楠門・二の門櫓・乾櫓
楠門(天守二の門)
連立式天守への最後の関門——総楠造りの楼門が迎える天守曲輪の入口

楠門は天守曲輪への入口として機能する門で、別名「天守二の門」とも呼ばれます。現在の楠門は昭和33年(1958年)に木造で復元されたものです。一方、天守閣を含む天守群の主要部は鉄筋コンクリートによる外観復元で、楠門は天守曲輪の中でも木造復元として見られる貴重な部分です。旧門は弘化3年(1846年)の落雷で焼失し、嘉永3年(1850年)に再建されましたが、昭和20年(1945年)の空襲で再び失われました。「楠門」の名は柱・門板に楠材が用いられていることに由来します。
パノラマ写真 門を抜けた内側。
| 築造・再建年 | 旧門:弘化3年(1846年)落雷で焼失→嘉永3年(1850年)再建。現存門:昭和33年(1958年)木造復元。 |
|---|---|
| 構造・特徴 | 楼門形式の櫓門。本瓦葺き、柱・門板に楠材を使用した「総楠造り」。天守への正式な入口として土塀や多門櫓と連結。現在は入城チケット売場を兼ねる。 |
⏳ 見学目安:約5〜10分(門の外観・構造観察)
🗺 住所:和歌山県和歌山市一番丁3(天守曲輪入口)
🚶 アクセス:本丸御殿跡から徒歩2分
- 総楠造りの楼門:柱・門板に楠を用いた堂々たる構造。木造復元ながら往時の門の存在感を伝える。
- 天守群への入口としての重み:門をくぐると天守・櫓・多門櫓が連なる城の核心部に入る感覚を味わえる。
💡 トリビア:楠門は「連立式天守の最後の関門」であり、現在は天守見学の入口かつチケット売場として和歌山城観光の玄関口を担う。
二の門櫓(にのもんやぐら)
連立式天守を構成する櫓群の要——天守閣最上階から見下ろして初めてわかる全体像


二の門櫓は、楠門の脇に建てられた天守群の構成要素のひとつです。かつては天守・小天守・多門櫓・乾櫓などと「連立式」で連結された構造で、防御と監視の要を担いました。地上から見ると全体像が把握しにくいですが、天守最上階から見下ろすと、この二の門櫓を含む連結構造の全貌が一望できます。
パノラマ写真 二の門櫓からの眺め。
| 設置期 | 浅野期に整えられた連立式天守の構成要素。現在の建物は昭和33年(1958年)復元の天守群の一部。 |
|---|---|
| 構造・特徴 | 櫓+門構造を兼ねた城門付櫓。天守と小天守・多門櫓などと「連立式」で連結。内部を通り抜けながら天守群の構造を体感できる。 |
⏳ 見学目安:約5〜10分(復元櫓の外観・連結構造を確認)
🗺 住所:和歌山県和歌山市一番丁3(天守曲輪周辺)
🚶 アクセス:楠門をくぐってすぐ
- 天守最上階から見下ろすと全体像が見える:地上では連結の複雑さが掴みにくいが、天守頂上から見下ろすと二の門櫓・乾櫓・多門櫓の連結構造が一目瞭然。
- 連立式天守の構造を理解する鍵:内部を通り抜けながら和歌山城がかつてどのような構造だったかを体感できる。
💡 トリビア:「二の門櫓」という名は、天守への入口「二ノ門(楠門)」の脇を守るためで、門と櫓が一体的に防御構造を構成していた。
乾櫓(いぬいやぐら)
天守群の西北を守る——連立構造の「死角なき設計」を体感する


乾櫓は天守群の西北隅(乾の方角)に位置する重要な構成要素です。天守最上階からは、この乾櫓と二の門櫓が両翼に展開し、多門櫓で連結された「連立式天守の全体構造」を俯瞰できます。地上から見るとそれぞれの建物が独立して見えますが、上から見下ろすことで「つながりの意図」が初めて伝わります。
パノラマ写真 乾櫓方向。
| 位置 | 大天守の北西「乾(戌亥/いぬい)」の方向。天守最上階からその姿が確認できる。 |
|---|---|
| 構造・特徴 | 天守・小天守および多門櫓と連結する「連立式天守」を構成する西北隅の櫓。石落とし・白漆喰壁・屋根付き多聞櫓通路によって天守群を覆う構造。 |
| 現存状況 | 外観が復元され現在も見学可能。 |
⏳ 見学目安:約5〜10分(外観と石垣の観察)
🗺 住所:和歌山県和歌山市一番丁3(天守曲輪内)
🚶 アクセス:二の門櫓の反対側
- 天守から見て初めてわかる連結:最上階から乾櫓を見ることで、天守群+櫓群+多門櫓の全体構成と位置関係がよくわかる。地上では伝わりにくい「連立」の意味を上から理解できる。
- 「乾」という方角の意味:「乾」は北西を意味する方角名です。乾櫓は天守群の北西側を守る櫓として、連立式天守の一角を構成しています。
💡 トリビア:乾櫓・多門櫓・櫓群を連結する構成は、天守曲輪全体の防御性を高めるための実戦的な構造と考えられます。天守最上階から見下ろすと、建物同士のつながりがよくわかります。
③ 城のシンボル——天守閣
天守閣
豊臣家と紀州徳川家——二つの家紋の陣羽織と、360°を制する連立式天守


和歌山城の天守閣は、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した後、1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリートで外観復元された城のシンボルです。城の築城は1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命で始まり、連立式天守は慶長年間(1600年代初頭)に浅野家によって整えられたと公式に説明されています。以後、紀州徳川家の居城として江戸時代を通じて日本史に名を刻み、八代将軍・徳川吉宗を輩出した城としても知られています。

天守閣から渡櫓で二の門櫓、乾櫓と連なっており、ぐるっと一周できる珍しい造りになっています。中には和歌山城に関係のある写真や礎石などが展示されています。
パノラマ写真 最上階内部。
最上階のテラス。
天守閣の外側。
| 築城・天守の成立 | 築城開始:天正13年(1585年)。連立式天守は慶長年間(1600年代初頭)に浅野家によって整えられたと公式に説明されている。 |
|---|---|
| 天守の変遷 | 浅野期の連立式天守→寛政10年(1798年)に白亜の外観へ改修→弘化3年(1846年)落雷で焼失→嘉永3年(1850年)再建→昭和20年(1945年)空襲で焼失→昭和33年(1958年)RC外観復元。 |
| 開館時間 | 9:00〜17:30(入場は17:00まで) |
| 入場料 | 大人(高校生含む)410円 / 小・中学生 200円 |
| 主な展示 | 豊臣家・紀州徳川家ゆかりの陣羽織・甲冑・武具、礎石など発掘調査の成果 |
| 文化財指定 | 和歌山城跡は国指定史跡。現在の天守閣は昭和33年(1958年)復元の建造物。 |
⏳ 見学目安:約30〜40分(内部展示+最上階からの展望)
🗺 住所:和歌山県和歌山市一番丁3
🚶 アクセス:楠門を通り、二の門櫓・乾櫓を道なり進んだ先
- 最上階から「連立の全体像」を見る:天守最上階から二の門櫓・乾櫓を見下ろすと、各櫓が多門櫓で連結された全体構成が一目でわかる。「連立式天守」の意味がここで初めて腑に落ちる体験ができる。
- 豊臣家と徳川家の陣羽織:内部展示に豊臣家の家紋(五三の桐)がついた陣羽織と紀州徳川家の家紋(三つ葉葵)がついた陣羽織が並ぶ。この城が豊臣期から徳川期へと引き継がれた歴史の転換が、実物の武具として目の前に現れる。
- 四季折々の景観との調和:白亜の天守と城山の緑が美しいコントラストを生む。夏の青空との相性が特に良い。
💡 トリビア:和歌山では天守閣を昔「おてんしゅ」、転じて「おてんす」と呼んできたという地元ならではの愛称がある。1945年の空襲で焼失後、1958年に地域の浄財と熱意によって今の姿が再建され”市民の城”として甦った。
よくある質問(FAQ)
開館時間は9:00〜17:30(入場は17:00まで)です。入場料は大人(高校生含む)410円、小・中学生200円です。わかやま歴史館との共通券もあります。休館日は12月29日〜31日です。
「連立式天守」とは、大天守・小天守・複数の櫓が渡り廊下(多門櫓)でつながれた構造のことです。和歌山城は姫路城・松山城と並ぶ連立式天守の代表例で、楠門・二の門櫓・乾櫓・多門櫓がひとつの天守群を形成しています。天守最上階から見下ろすと、各櫓が連結された全体構造を一望できます。
訪問時の天守閣内部では、豊臣家ゆかりの家紋をあしらった陣羽織や紀州徳川家の家紋(三つ葉葵)がついた陣羽織など、城にゆかりのある武具・甲冑・資料を見ることができました。また、礎石など発掘調査の成果も見ることができます。豊臣期から徳川期への城の歴史の転換が、実物の武具を通じて伝わります。展示内容は変更される場合があります。
徳川吉宗は紀州徳川家の出身で、和歌山市公式では貞享元年(1684年)に城下の吹上邸で生まれたと説明されています。和歌山城は吉宗を輩出した紀州徳川家の居城として知られています。
現在の楠門は昭和33年(1958年)に木造で復元されたものです。旧門は弘化3年(1846年)の落雷で焼失し、嘉永3年(1850年)に再建されましたが、昭和20年(1945年)の空襲で再び焼失しました。「楠門」の名は柱・門板に楠材が使われていることに由来します。
七福の庭は和歌山城公園内、松の丸付近にあります。初代藩主・徳川頼宣が元和7年(1621年)に本丸御殿の中庭として作庭したと伝わる石庭で、大正12年(1923年)に松の丸跡に移設されました。城公園内の散策ルート上にあり、無料で見学できます。
次のエリアへ:天守閣を出たら、西の丸・紅葉渓庭園エリアへ進みます。追廻門・御橋廊下・紅葉渓庭園を巡る流れです。
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