天守のある城址公園の外には、北条氏が築いた土の城がいまも残っています。土塁の上から深さ約12mに及ぶ空堀、城下を見下ろす土塁、戦国期の中心部とされる丘。2026年9月に実際に歩いた順路で、丘陵部と低地部の遺構を紹介します。
このページの内容
公園の外で見られるものと歩く範囲
小田原城址公園で見られる天守や門は、江戸時代の城を戦後に復興・復元したものです。一方、1590年に豊臣秀吉の大軍を迎え撃った北条氏の城は、石垣ではなく土を掘り、盛り上げて造られていました。その姿を伝える空堀(水のない堀)や土塁(土を盛った壁)は、公園の外の丘や住宅街の中に残っています。このページでは、公園の外に残る遺構を三つのまとまりに分けて紹介します。
天守や3つの門など、公園内に復元された建物を中心に巡るなら、姉妹記事「小田原城の見どころと所要時間|天守閣・3つの門から清閑亭ランチまで」をご覧ください。
戦国期の中心部
八幡山古郭東曲輪
天守の西にある八幡山の丘。戦国期の小田原城の遺構が集中する場所とされ、東曲輪は芝生の広場と土塁が残る高台です。
城の外郭
三の丸外郭新堀土塁
高台に残る土塁と堀の跡。総構の内側にあたる外郭の防御線で、一部は総構と重なります。土塁の上からは相模湾を見渡せます。
城下を囲む外周
小峯御鐘ノ台大堀切・早川口遺構
城下町を丸ごと囲んだ総構の遺構。丘陵の尾根を断ち切る巨大な空堀と、低地に土塁と堀を二重に巡らせた出入口の跡です。
丘陵部と低地部で歩き方が大きく違います。八幡山から大堀切、新堀土塁までは坂道が続く丘の上のコースです。早川口遺構は、海に近い平地の住宅街の中にあります。今回は小田原駅から歩き始め、午前に丘陵部を、午後に清閑亭で昼食をとってから低地部を歩きました。
| 丘陵部だけ歩く | 八幡山古郭東曲輪 → 小峯御鐘ノ台大堀切 → 三の丸外郭新堀土塁。坂道が中心です。新堀土塁は10〜16時しか入れないので、到着がその時間帯に収まるように出発時刻を決めてください。 |
|---|---|
| 低地部だけ歩く | 清閑亭の三の丸土塁 → 早川口遺構 → 大手門跡。平地の住宅街を歩くルートで、城址公園の南側から回れます。 |
| 両方歩く | 2026年9月22日の取材では、丘陵部と低地部を1日で回りました。城址公園の天守閣や清閑亭の昼食と組み合わせると、一日がかりの行程になります。 |
歩いた順路と公開時間
実際に歩いた順に並べると次のとおりです。大堀切までの道は整備されていました。2026年9月22日の訪問で大変だったのは暑さでした。
天守の西にある八幡山の丘に上ります。東曲輪は芝生の広場になっていて、市街地越しに天守が見えます。
住宅街の坂道を上り、大久保神社のそばを通って丘陵の上の公園へ。道沿いに「小峯御鐘ノ台大堀切」の道標が立っています。
堀底が散策路になっていて、両側に急斜面が迫る空堀の中を歩けます。
丘の上の土塁から相模湾を見渡せます。公開時間内に着くように計画してください。
城址公園の南側の丘に建つ清閑亭は、三の丸の土塁の上にあります。そこから海側へ下り、住宅街の中の早川口遺構へ。帰りは旧東海道沿いの大手門跡を通りました。
現地までのアクセス
このページで紹介する遺構は、いずれも小田原駅を起点に徒歩で回れます。丘陵部(八幡山古郭・大堀切・新堀土塁)と低地部(早川口遺構・大手門跡など)でルートが分かれるため、事前にどちらを歩くか決めておくと計画しやすくなります。
城外遺構へのアクセス
| 最寄り駅 | 小田原駅(JR東海道線 JT16/小田急小田原線 OH47) |
|---|---|
| 東京方面から | 品川駅から東海道新幹線で小田原駅まで約30分 |
| 丘陵部(八幡山古郭・大堀切・新堀土塁) | 小田原駅から徒歩。小田原市観光協会の案内では、小峯御鐘ノ台大堀切まで駅から徒歩約25分。坂道が続きます |
| 低地部(早川口遺構・大手門跡など) | 城址公園の南側から、平地の住宅街を歩いて回れます |
| 推奨の移動手段 | 徒歩。丘陵部・低地部とも路線バスの定期便は前提にせず、駅または城址公園からの徒歩を基本に計画してください |
| 駐車場 | 各遺構に一般駐車場はありません。周辺の有料駐車場を利用します |
| 注意 | 丘陵部は坂道が中心で、夏場は特に暑さへの備えが必要です。三の丸外郭新堀土塁は公開時間(10:00〜16:00、2026年9月23日確認)が限られています |
城下を囲んだ総構と北条氏の城
小田原城は、大森氏が15世紀中ごろに築いた城郭を前身とすると考えられています。15世紀末ごろには伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原へ進出し、大森氏から小田原城を奪ったとされますが、その時期には諸説があります。2代氏綱以降、小田原城は北条氏の本拠として関東支配の中心拠点へ発展しました。
戦国期の城の中心部は、現在の城址公園よりも西側の八幡山の丘陵にあったと推定されています。そして北条氏は、豊臣秀吉との戦いに備えて、城と城下町をまるごと堀と土塁で囲みました。この外周の防御線が総構(そうがまえ)で、全長は約9kmに及びます。現地の解説板は、小田原が戦国時代最大の城郭であったことを示す遺構だと説明しています。
総構は、地形を巧みに利用して築かれました。丘陵部では尾根を深く断ち切る堀切を設け、低地部では川や海沿いの地形を利用しながら土塁と堀を巡らせています。1590年、秀吉の大軍に包囲された北条氏はおよそ3か月の籠城の末に開城しました。その後、城は徳川家康の家臣・大久保氏らによって近世の城へ改修され、現在の城址公園の天守や門は、この江戸時代の城の姿を再現しています。
① 八幡山古郭——戦国期の中心部とされる丘
八幡山古郭東曲輪
市民の保存運動で守られた、天守を見渡す戦国期の曲輪

八幡山古郭は、八幡山丘陵の尾根の上、標高60m付近の平らな部分を中心に、戦国期の小田原城の遺構が集中する場所です。当時の城の中心部がここにあったと推定されています。丘の上の高校の敷地で行われた発掘調査では、城の出入口の一部や、堀の中に仕切りを設けた障子堀、大規模な井戸の跡が見つかっています。
そのうち東曲輪は、2005年の発掘調査で16世紀の遺構が確認された場所です。現地の解説板によると、マンションの建設計画をきっかけに調査が行われ、市民の保存運動を受けて公有地となり、2006年に国の史跡に指定されました。2026年9月22日の訪問時には、芝生の曲輪の縁から市街地越しに天守を見ることができました。解説板の写真には、石垣山一夜城の方角も示されています。
見どころ
- 曲輪を囲む土塁の斜面
- 市街地越しに見る天守
- 八幡山古郭と総構の範囲を示す解説板
現地の写真



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地図
② 三の丸外郭——新堀土塁と城下を見下ろす土の壁
三の丸外郭新堀土塁
丘の上に残る土塁から、城下と相模湾を見下ろす

「新堀」と呼ばれた堀と土塁の名残が色濃く残る場所です。総構の内側にあたる三の丸の外郭の防御線で、一部は総構と重なっています。丘の上の土塁に沿って園路が続き、土塁と堀の高低差を歩きながら確かめられます。
土塁の上は眺めが開けています。2026年9月22日の訪問時には、片側に城下の街並み、反対側には相模湾を望むことができました。天守はここからは見えませんが、本丸より高い場所に城下を囲む防御線が置かれていたことが、この眺めから分かります。
見どころ
- 堀と土塁の高低差
- 土塁の上から見下ろす城下の街並み
- 丘の上から見る相模湾
現地の写真




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見学データ
| 公開時間 | 10:00〜16:00(時間が前後する場合あり)。時間外は施錠 |
|---|---|
| 休園日 | 年末年始(12月29日〜1月3日) |
| 注意 | 自転車・バイクの乗り入れ不可。台風被害の復旧を経て2025年6月2日に公開を再開 |
三の丸の土塁は、城址公園の南側にも残っています。黒田長成の別邸だった清閑亭は三の丸土塁の一角に建ち、敷地は2006年に国の史跡に指定されました。前に立つ解説板が、土塁と別邸の両方を紹介しています。
③ 総構——小峯御鐘ノ台大堀切と早川口遺構
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
丘陵の尾根を断ち切った、長さ約280mの巨大な空堀

戦国時代の小田原城は、標高123.8mの小峯御鐘ノ台を頂点に、周囲約9kmにわたって堀と土塁を巡らせていました。ここは尾根伝いに箱根の山へつながっているため、尾根の上の往来を断ち切る大規模な堀切(尾根を掘り切った空堀)が造られました。現在は東から「東堀」「中堀」「西堀」と呼ばれる3本があります。
東堀は、もともと三の丸の新堀の一部で、1587年から総構の堀とともに中堀・西堀が造られたことで、一連の大堀切になったと解説板は説明しています。現在の土塁の上から測った堀の幅は25〜30m、深さはおよそ8〜10m。発掘で確認された堀底まで含めると、深さは12〜15mあったことが分かっています。堀底には障子堀(堀の中に仕切りを設けた堀)の造りも確認されています。
東堀は延長約280mが残り、堀底が散策路になっています。堀の中に下りると両側の斜面が頭上まで迫り、写真では伝わりにくい高さがあります。途中2か所で、堀の線を折り曲げて横から攻撃できるようにした「横矢掛り」も確認できます。
見どころ
- 堀底の散策路から見上げる両側の急斜面
- 堀の線が折れ曲がる横矢掛り(2か所)
- 3本の堀切の位置を示す解説板
- 丘の上から見る箱根方面の山並み
現地の写真








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地図(東堀)
早川口遺構
土塁と堀を二重に巡らせた、総構の出入口の跡

海に近い平地の住宅街に、芝生の窪みと土塁の高まりが突然現れます。早川口は「二重外張(ふたえそとばり)」と呼ばれる、土塁と堀を二重にして守りを固めた場所で、北条氏の時代には総構の虎口(城の出入口)であったと考えられています。
江戸時代になると、東海道沿いの上方口(板橋口)に虎口が移ったため、ここには戦国時代の遺構がよく残りました。明治時代以降に別荘地などとして使われ、地形が変わった部分もありますが、低地部で見られる数少ない戦国時代の土塁の一つです。発掘調査では、人の頭ほどから一抱えもある玉石を2m以上積み上げて土塁を築いていたことが分かっています。


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低地部の帰り道では、江戸時代の城の門の跡も通りました。旧東海道沿いの大手門跡には、門の櫓台の石垣の上に大正時代に建てられた鐘楼が残ります。駅に近い幸田口門跡は、三の丸の出入口の一つだった場所で、広場に石碑と解説板が立っています。どちらも戦国期の総構ではなく、江戸時代の城の門の跡です。


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公園と城外の遺構を両方歩いてみて感じたのは、今の住宅街からは想像しにくいほど広い範囲に、手間をかけて戦への備えを施していたということです。堀切や堀は、実際にその場に立つと写真では伝わらない高さがあり、規模の大きさを体で実感できました。
ほかに残る総構の遺構(今回は未訪問)
総構の遺構は、ほかにも市内の各所に残っています。今回の取材では歩いていませんが、位置の参考として地図と概要をまとめました。説明は小田原市の案内などにもとづきます。
城下張出
地形を利用して総構から外側へ張り出させた部分で、総構に取り付いた敵を横から攻撃できるようにしたと説明されています。
山ノ神堀切
谷津丘陵の上の通行を制限するために設けられた堀切です。北側は総構の堀とつながっています。
稲荷森
総構の中でも遺構が最も良好に残る場所の一つとされ、堀が地形に沿って弧を描く様子を確認できると案内されています。
江戸口見附
総構の東側、江戸方面からの東海道が城下に入る地点に置かれた見附(門)の跡とされます。
蓮上院土塁
1590年の秀吉の小田原攻めに備えて北条氏が築いた総構の一部です。
よくある質問
北条氏が城と城下町をまるごと囲んだ、堀と土塁による外周の防御線です。全長は約9kmに及び、1590年の豊臣秀吉との戦いに備えて築かれました。丘陵部の大堀切や低地部の早川口遺構などが、いまも市内に残っています。
このページで紹介した遺構は、いずれも屋外の史跡で入場料はかかりません(小田原市の公式情報を2026年9月23日に確認)。ただし、三の丸外郭新堀土塁は公開時間が10:00〜16:00(時間が前後する場合あり)で、時間外は施錠されます。年末年始(12月29日〜1月3日)は休園です。
小峯御鐘ノ台大堀切の東堀は、延長約280mの堀底が散策路になっていて、空堀の中を歩けます。取材時、東堀までの道は整備されていました。
八幡山から大堀切、新堀土塁までの丘陵部は坂道が中心です。取材した2026年9月22日は日中30度近い暑さで、道は整っていても暑さがこたえました。飲み物を用意して、涼しい時間帯に歩くことをおすすめします。早川口遺構のある低地部は平地の住宅街です。
城址公園の天守や門は、江戸時代の城の姿を戦後に復興・復元した建物です。このページの遺構は、北条氏の時代の城を形づくっていた土の堀や土塁で、建物は残っていません。石垣の城になる前の、戦国時代の城の規模を地形から読み取れるのが特徴です。
小田原市観光協会の案内では、小田原駅から小峯御鐘ノ台大堀切まで徒歩約25分です。途中は住宅街の坂道が続きます。取材では八幡山古郭東曲輪に寄ってから向かいましたが、大堀切までの道は整備されていました。
2026年9月22日の訪問時には、八幡山古郭東曲輪の芝生の縁から、市街地越しに天守を見ることができました。三の丸外郭新堀土塁からは天守は見えませんが、城下の街並みと相模湾を望めました。
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Following the Shogunは現地取材をもとに制作しています。
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