
・岐阜城資料館 2026年4月1日から2027年10月下旬まで休館予定
・岐阜城天守閣 2026年5月19日から2027年10月下旬まで休館予定(リニューアルオープンは2027年11月予定)
・工事期間中は山頂部で通行止めあり。めい想の小径・鼻高ハイキングコースからは天守閣エリアへ入れない期間があります
山頂の遺構(伝一ノ門跡・石垣・井戸跡)は見学可能。登山道利用の場合は特に岐阜市公式サイトで最新情報をご確認ください。
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で稲葉山城のシーンが気になった方へ。ドラマの中で描かれる稲葉山城——のちに織田信長が「岐阜城」と改めたこの山城は、今も金華山の頂に石垣や門跡などの遺構が残り、実際に歩いて体感できる場所です。
岐阜城の見どころを、山上の遺構中心で短時間に回りたい人、岐阜公園の居館跡まで含めて半日かけて歩きたい人向けにまとめました。2026年は耐震改修工事のため、資料館は4月1日から、天守閣は5月19日から2027年10月下旬まで休館予定です。一方で、山頂部の伝一ノ門跡・石垣・井戸跡などの遺構見学は引き続き可能です。
目安の所要時間は、山頂中心で約1〜2時間、岐阜公園の山麓エリアも含めると約3〜4時間です。ロープウェー山頂駅から天守閣までは徒歩約8分かかるため、閉館間際の到着は慌ただしくなりやすいです。
山上は石段と坂が続き、雨天時は岩盤や石が滑りやすくなります。歩きやすい靴で、時間に余裕を持って臨むのが基本です。逆に冬は下草が落ちて石垣の輪郭が読みやすくなる——遺構観察には実は向いた季節です。2026年の工事期間中は山頂部で通行止めがあるため、登山道利用の人は事前確認が欠かせません。
この記事でわかること
- JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から岐阜公園、ロープウェー山頂駅までの迷いにくい行き方
- 2026年の休館情報と、休館中でも見学しやすい遺構
- 伝一ノ門跡・石垣・井戸跡・信長居館跡など、「いま見えるもの」と「発掘で分かった役割」の対応
- 雨の日・工事期間・冬——季節や条件ごとの回り方の切り替え
- 山頂だけで回る1〜2時間コースと、山麓から歩く3〜4時間コース
アクセス
JR岐阜駅からは12番・13番のりば、名鉄岐阜駅からは4番のりば発の岐阜バスを利用し、「岐阜公園・岐阜城」停留所で下車、徒歩約1分です。市内ループ左まわりと清流ループでもアクセスできます。※のりば番号・運行系統は変更される場合があるため、当日の乗り場案内板で必ずご確認ください。
最短ルートは、バス停からロープウェー山麓駅へ進み、ロープウェーで山頂へ上がってから天守方面へ向かう流れです。ロープウェーの乗車時間は約4分、山頂駅から天守閣までは徒歩約8分です。じっくり歩くなら、信長居館発掘調査案内所・居館跡・御手洗池・三重塔を先に見てからロープウェーに乗る流れが組みやすいです。雨の日は山上の石段が滑りやすいため、山麓中心に切り替えると回りやすくなります。
御城印
岐阜城の御城印は、ぎふ金華山ロープウェー山麓売店で販売されています。通常版の販売実績は公式サイトでも確認できます。限定版や特別仕様の御城印は時期によって内容が変わるため、登城前にロープウェー公式のお知らせを確認しておくと安心です。




岐阜城を「読む」ための3つの時代
各スポットの説明を読む前に、この時代区分を頭に入れておくと遺構の見え方が大きく変わります。
- 大桑城と同系統の石垣技術で山上部を整備
- 伝一ノ門跡の基盤はこの時期に構築
- 山麓居館の原形も斎藤氏時代に遡る
- 入城後に瓦葺門へ改修・格上げ
- 金箔瓦の居館・庭園を大規模整備
- 石垣・通路を再構成し天下の拠点へ
- 岐阜城の戦いで火災発生
- 山上部の多くが焼滅(発掘で確認)
- 御手洗池の投身伝承もこの時代
コースを選ぶ
山麓+山頂ルート⏱ 3〜4時間(半日)
山頂集中ルート⏱ 1〜2時間
信長居館 発掘調査案内所
遺構を歩く前に、必ずここで「予習」する
岐阜公園を散策していると、石段や平場がただの公園の地形に見えてしまう。それを一変させてくれるのが、この案内所です。
館内に入ると、まず目を引くのが香川元太郎氏による信長の岐阜城イラスト。山頂から山麓まで城郭全体を鳥瞰した大きな絵で、発掘でわかった構造が一枚の中にまとめられています。これを頭に入れてから現地を歩くのと、そうでないのとでは、見え方がまるで違います。
展示パネルでは、天守台北・西面の戦国期石垣の現存確認、通路脇から出土した川原石・素焼きの皿(信長が山上にも「もてなしの場」を設けていた可能性)、山麓居館の金箔瓦・巨石列・庭園遺構など、近年の発掘成果が整理されている。派手な展示ではありません。ただ、ここで20分過ごしてから居館跡の石段に立つと、同じ地面がまったく別の場所に見えます。
- 発掘成果の”予習”で史跡の見え方が変わる:居館跡・庭園遺構を歩く前に、何が見つかったのかを把握すると、現地の石や段差の意味が立ち上がります。
- 映像コンテンツで一気に理解:日本遺産の概要や発掘成果紹介など、短時間でも”岐阜=信長の拠点”が腑に落ちる導線。
- 雨天・夏日の退避スポットとしても:屋外散策が厳しい日は、まずここで情報を入れてから短時間の外歩きに切り替えると満足度が落ちにくいです。

| 開設年 | 不明(2023年4月に岐阜公園来園者休憩所内へ移転) |
|---|---|
| 運営 | 岐阜市 |
| 入場料 | 無料 |
| スタッフ対応 | 9:00〜16:00(火曜・祝翌日・年末年始12/29〜1/3は対応外) |
| 場所 | 岐阜公園来園者休憩所内 |
| 文化財指定 | なし(施設自体) |
- 香川元太郎氏による岐阜城鳥瞰イラスト(大判)
- 発掘調査報告パネル:山上部・山麓部それぞれ
- 日本遺産「信長公のおもてなし」関連映像コンテンツ
- 居館の金箔瓦・庭園遺構の写真・実測図
- 意外な歴史的背景:案内所は岐阜公園再整備にともない、現在は「岐阜公園来園者休憩所内」へ移転して運営されています。
- 知る人ぞ知る情報:スタッフ対応時間は9:00〜16:00で、火曜(祝日の場合は翌日)と年末年始は対応外。行くなら時間を合わせるのがコツです。
- 著名人との関係:信長が岐阜で築いた居館の実像は発掘成果で輪郭が濃くなりました。ここは”信長の館を史実に近づける”ための最短ルートです。
織田信長居館跡
金箔瓦・巨石列・庭園――「安土の前にここがあった」
金華山のふもと、千畳敷の谷筋に、信長の居館跡が広がっています。もともとは斎藤氏の頃に形づくられ、信長が岐阜へ入ると大規模に造成・改修したとされます。発掘調査から、入口に巨石を立て並べる演出、金箔瓦を用いた建物、岩盤を背景にした庭園の存在が示され、単なる居住空間ではなく”客を迎え、威を示すための空間”だったことが見えてきます。
信長が岐阜で磨いた「見せ方」は、のちの安土へつながる感性。建物はなくても、地面の起伏と石の並びだけで当時の空間の意図がかなり読めます。安土の前にここがあった、という実感が得られる場所です。
- 巨石列という”演出”:自然石を並べるだけで、権力の気配が立ち上がる——信長の見せ方が読み取れます。
- 遺構の起伏から想像する館のスケール:平面図ではなく地形で感じると、当時の空間設計が急にリアルになります。
- 季節ごとの表情:秋は紅葉が遺構の輪郭を際立たせ、写真も”戦国の深さ”が出ます。

| 築造年 | 斎藤氏時代:不明 / 信長による大改修:1567年以降 |
|---|---|
| 築造者 | 斎藤氏(造成)/織田信長(大規模改修) |
| 構造・特徴 | 巨石列の入口・建物跡・庭園痕跡など(発掘成果に基づく) |
| 改修・復元歴 | 発掘調査に基づき見学環境を整備(年不明) |
| 現存状況 | 遺構(跡)として現地見学可 |
| 消滅・損壊 | 建物は現存せず(遺構のみ) |
| 文化財指定 | 国指定史跡 |
| 備考 | 岐阜公園内(千畳敷・槻谷周辺) |
| いま目に見えるもの | 発掘で判明したこと |
|---|---|
| 巨石列(入口部) | 権力誇示の演出として意図的に配置された可能性 |
| 地面の起伏・段差 | 3種類の石組みで造られた複数の平場が確認 |
| (現地では確認困難) | 金箔瓦が出土。信長期の豪奢な建物の証拠 |
- 意外な歴史的背景:信長時代の館では金箔瓦の使用が確認され、”豪奢=政治”の発想が岐阜で既に動いていました。
- 知る人ぞ知る情報:見どころは”建物がないこと”。石と地形だけで語る戦国の空間は、逆に想像力を刺激します。
- 著名人との関係:もちろん主役は織田信長。岐阜での居館整備は、安土へ向かう美意識の助走です。
信長公居館庭園
岩盤を借景に使う――「自然を従えるのではなく、自然を舞台装置にする」
信長公居館周辺の発掘成果からは、巨大な岩盤や地形を取り込んだ庭園的な空間があった可能性が示されています。現地では、整った庭園をそのまま見るというより、地形・石組み・段差から空間構成を読み取る場所として歩くと理解しやすいです。来客を意識した設計であった可能性も指摘されていますが、現地で見えるのは主に遺構であり、当時の景観をそのまま復元したものではありません。
- 岩盤を”借景”にする発想:自然を従えるのではなく、自然を舞台装置に変える——信長らしい美学です。
- 石と段差がつくる動線:歩いて初めてわかる高低差が、当時の”見せるルート”を想像させます。
- 撮影のコツ:写真は”引き”で撮ると地形の意図が出ます。近寄りすぎると遺構の全体像が掴みにくいです。

| 築造年 | 1567年以降(推定)/復元整備:不明 |
|---|---|
| 築造者 | 織田信長(居館整備の一環として) |
| 構造・特徴 | 岩盤・石組み・地形を取り込む庭園構想(発掘成果に基づく) |
| 現存状況 | 庭園の遺構(跡)として現地で確認可 |
| 消滅・損壊 | 当時の作庭は現存せず(遺構のみ) |
| 文化財指定 | 国指定史跡(岐阜城跡の指定範囲内) |
| 備考 | 「織田信長居館跡」周辺の庭園関連遺構として扱われる |
- 意外な歴史的背景:庭は単なる鑑賞ではなく、客人を迎える政治空間として機能していた可能性があります。
- 著名人との関係:織田信長が岐阜で築いた居館文化の”核”を想像できる場所です。
御手洗池(みたらしいけ)
城以前の「祈りの記憶」と、1600年落城伝承が交わる水辺
岐阜公園の北東側、木立の影が水面に落ちる静かな一角に「御手洗池(みたらしいけ)」があります。名の由来は、かつて金華山・丸山に伊奈波神社があった頃、参拝の前にこの池で手を洗い清めたことから——城ができる以前から続く、祈りの場としての記憶が地名に残っています。
この池には、戦国の終盤を刻む伝承も重なります。御手洗池には、岐阜城落城時にまつわる伝承が残ると案内されています。史実として確認される事柄と、後世に語り継がれてきた伝承を分けて読むと、池の静かな景観にも別の奥行きが出てきます。信長が築いた岐阜の「上り坂」と、織田家が迎えた「下り坂」が、同じ山麓で交差する場所です。
- 岩盤を背にした水辺の景観:金華山の迫力ある岩肌と水面の取り合わせが印象的。城下の自然地形を”肌で理解”できます。
- 滝の落ちるポイント:岩場から池へ落ちる水の音が、園内の喧騒を切り離してくれる癒やしの区間。
- 季節ごとの表情:秋は紅葉が水面に映り込み、写真がぐっと深くなります。
🗺 住所:〒500-8002 岐阜県岐阜市御手洗385-4 最寄り:ロープウェー山麓駅から徒歩3分

| 築造年 | 不明(池の成立時期は不明) |
|---|---|
| 築造者 | 不明 |
| 構造・特徴 | 岐阜公園内の池/伊奈波神社参拝の「手水」に由来する名称/岩盤と滝を伴う景観 |
| 改修・復元歴 | 1987年(昭和62年)池底発掘調査(城に関わる遺物は確認されず)/2021年(令和3年)池改修・園路バリアフリー化完成 |
| 文化財指定 | 不明(池自体の文化財指定は確認できず) |
| 備考 | 岐阜城落城時の投身については伝承(現地案内板等で紹介) |
- 意外な歴史的背景:池名は、かつて丸山にあった伊奈波神社へ参拝する際に「ここで手を洗った」ことに由来します。
- 知る人ぞ知る情報:1987年(昭和62年)に池底の発掘調査が行われたものの、城に関わる遺物は残っていなかったと紹介されています。
- 著名人との関係:信長の孫・織田秀信が岐阜城主として敗れた1600年の落城時、城内の者がこの池に投身したという伝承が語られ、織田家の栄枯盛衰を水辺で感じられます。
三重塔
大正6年建立・伊東忠太設計――国史跡の敷地に近代の岐阜が重ねた「美」
岐阜公園の散策で、ふと視線を奪われる朱の塔——建立は大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として、大正6年(1917)に岐阜市が市民の寄付を募って建てたもの。考案は、明治神宮や築地本願寺なども手掛けた建築家・伊東忠太です。装飾を抑えた古風な意匠に、木造三重塔の端正なプロポーションが際立ち、金華山山麓の緑や紅葉の中で朱色がいっそう鮮やかに浮かび上がります。
信長ゆかりのスポットが多い岐阜公園の中で、この塔は近代の岐阜市民が建てたものとして少し毛色が違います。三重塔の立つ敷地を含む金華山一帯は国史跡「岐阜城跡」の指定範囲——信長の城下の空気を受け継ぐ場所に、近代の岐阜が「祝祭」と「美」を重ねたランドマークです。
- 朱と緑のコントラスト:金華山山麓の木々に朱色が映え、晴天・曇天どちらでも”絵になる”ランドマークです。
- 伊東忠太の「古風な意匠」:過度な装飾を抑えた端正さが魅力。近代の設計でありながら、古建築の品格を感じられます。
- 秋は特におすすめ:紅葉シーズンは塔の朱がいっそう深く見え、写真の満足度が跳ね上がります。

| 築造年 | 1917年(大正6年) |
|---|---|
| 築造者 | 岐阜市(市民の寄付による御大典記念事業として建立) |
| 構造・特徴 | 木造・三間三重塔婆、瓦葺き/総高22.168m/櫓構法・懸垂式心柱 |
| 設計 | 伊東忠太(明治神宮・築地本願寺なども手掛ける建築家) |
| 文化財指定 | 国登録有形文化財(建造物) |
| 備考 | 金華山一帯(塔の敷地を含む)は国史跡「岐阜城跡」指定範囲 |
- 意外な歴史的背景:寺院の塔ではなく、御大典記念事業として「市が建立した三重塔」という点が珍しい存在です。
- 知る人ぞ知る情報:総高は22.168m。山の斜面に建つため、見上げると数値以上に大きく感じます。
- 著名人との関係:国史跡「岐阜城跡」指定範囲に建ち、信長の拠点の”景観の一部”として楽しめます。
冠木門(信長公居館跡入口)
「史跡モード」へスイッチを入れる入口の演出
岐阜公園を歩いていると、居館跡エリアへの入口になる冠木門が目に入ります。豪壮な城門というより、自然の中に溶ける素朴な構えで、木の質感そのものが「ここから先は、かつて人の営みが濃かった場所だ」と静かに告げます。
この門自体は戦国当時の遺構ではなく、現代に「雰囲気をしのばせる」ために設置されたもの。それでも、門をくぐって石段を上がるだけで、自然と気持ちが切り替わります。居館跡を歩く前に、入口として立ち寄るのにちょうどいい場所です。
- 門をくぐる”切り替え”の瞬間:公園散策の空気から、居館跡へ向かう「史跡モード」へ一気にスイッチが入ります。
- 石段と門の構図:正面から撮ると、門越しに伸びる石段が奥行きをつくり、写真が締まります。
- 山頂の「天下第一の門」とは別物:同じ「冠木門」という名称が使われているため混同注意。

| 築造年 | 不明(現代に設置された冠木門) |
|---|---|
| 築造者 | 不明 |
| 構造・特徴 | 信長公居館跡へ続く石段前の入口門/「館が建てられていた頃の雰囲気をしのばせる」門として設置 |
| 文化財指定 | なし(門自体の文化財指定は確認できず) |
| 備考 | 同じ「冠木門」として、岐阜城山頂側に「天下第一の門」と呼ばれる門が設けられている(別地点) |
- 意外な歴史的背景:戦国当時の遺構ではなく、居館跡入口に「雰囲気をしのばせる」ために設置されたものとして紹介されています。
- 知る人ぞ知る情報:夜にはイベントで光に彩られることもあり、信長の岐阜が持っていた”見せる力”を、今の岐阜が受け継いでいることまで感じさせます。
- 著名人との関係:門の先に広がるのは、信長が岐阜に築いた居館のエリア。発掘調査では庭園遺構などが確認されています。
信長の庭
遺構の「実態」を見たあとに「解釈」を見る場所
信長の庭は、史跡の復元ではなく、戦国の世をイメージして整えられた現代庭園です。岐阜市の案内でも、長良川流域の巨大な石(約1,000t)を使い、「剛」「静」「雅」の3つの滝と池が織りなす庭として紹介されています。居館跡の遺構を見たあとに立ち寄ると、発掘で見える信長像と、現代の景観デザインが描く信長像の違いを楽しみやすくなります。
遺構(居館跡)のあとにここへ来ると、現代の岐阜が信長をどう解釈しているかがよくわかって、それはそれで面白いです。
- 3つの滝「剛・静・雅」:同じ水音でも表情が違い、信長の多面性を庭で感じられます。
- 石の量感がつくる”戦国の圧”:庭の主役が植物ではなく石。足元から迫る力強さが独特です。
- 初夏は水面の反射が美しい:新緑と水音と光で”涼の庭”になります。

| 築造年 | 2001年 |
|---|---|
| 築造者 | 不明 |
| 構造・特徴 | 「剛」「静」「雅」の3つの滝と池/巨大石を多用した石庭(石材総量約1,000t) |
| 文化財指定 | なし |
| 備考 | 岐阜公園内(ロープウェー乗り場付近) |
- 意外な歴史的背景:史跡の復元ではなく、”信長の時代像”を現代庭園として表現した場所です。
- 知る人ぞ知る情報:遺構(居館跡)→現代庭園(信長の庭)と続けて歩くと、岐阜の信長観が立体的になります。
天下布武印
路面に踏みしめる信長の「合言葉」
「天下布武印」は、信長ゆかりの言葉である「天下布武」を岐阜公園内で視覚的に表現した意匠として楽しむスポットです。史料としての印章実物を展示する場所ではなく、散策中に信長と岐阜の関係を意識しやすくする景観要素として見るとわかりやすいでしょう。岐阜公園再整備により、現在は信長の庭周辺の路面や案内板付近にデザインされています。
- 足元に”天下布武”を踏む:見上げる城ではなく、踏みしめる合言葉。身体に残る体験です。
- 写真のワンポイント:信長巡りの途中で、旅の記号として撮っておくと後で効いてきます。

| 築造年 | 不明 |
|---|---|
| 構造・特徴 | 「天下布武」をモチーフにした路面デザイン(モニュメント的要素) |
| 文化財指定 | なし |
| 備考 | 岐阜公園再整備により、現在は信長の庭周辺の路面や案内板付近にデザインされています |
- 意外な歴史的背景:「天下布武」は信長の政治的スローガンとして知られ、岐阜という拠点性と結びつきます。
- 知る人ぞ知る情報:城への動線上で見つけると”宝探し感”があり、歩く楽しさが増します。
「若き日の織田信長」北村西望
岐阜城をバックに「天下へ駆ける」構図が決まる撮影スポット
岐阜公園の正門前に立つのは、馬上で弓を引き、今まさに駆け抜けていく”若き信長”の瞬間を切り取ったブロンズ像。作者は、長崎の平和祈念像でも知られる彫刻家・北村西望です。岐阜市制100周年を記念して1988年(昭和63年)に寄贈され、2009年(平成21年)に岐阜公園正門前へ移設されました。
史跡そのものではありませんが、ここに立つと金華山の稜線の向こうに岐阜城を仰ぎ、信長がこの地で「天下」へ視線を定めた空気を体感できます。旅のはじまりに立ち寄りやすい、定番の撮影スポットです。
- 躍動する馬上像の造形:弓を引く上体と、疾走する馬体の流れが一体になり、信長の”攻めの速度”が視覚化されています。
- 岐阜城を背景にした撮影:立ち位置を少し調整すると、金華山と岐阜城を背に「天下へ駆ける」構図が決まります。
- 春・秋は特におすすめ:桜や紅葉の色が像のシルエットを引き立て、写真映えが増します。

| 制作年 | 1988年(昭和63年) |
|---|---|
| 作者 | 北村西望(平和祈念像の作者) |
| 経緯 | 岐阜市制100周年記念として岐阜市に寄贈。2009年(平成21年)に岐阜公園正門前へ移設。 |
| 文化財指定 | 不明(彫像自体の文化財指定は確認できず) |
| 備考 | 同じ作者名・題名で類似の馬上像が各地で紹介されることがあります。設置経緯や同一原型かは資料により差があります。 |
- 意外な歴史的背景:建立は戦国期ではなく、岐阜市制100周年(1988年)の記念事業として生まれた”現代の信長レガシー”です。
- 知る人ぞ知る情報:2009年に岐阜公園正門前へ移設され、現在の「岐阜城をバックに撮れる」配置になりました。
- 著名人との関係:作者の北村西望は、日本を代表する彫刻家として知られ、平和祈念像の作者としても広く認知されています。
岐阜城 天下第一の門
山頂散策路の入口を告げる「区切り」の門。戦国遺構ではない。
金華山ロープウェー山頂駅から天守へ向かう途中にあるのが「天下第一の門」です。戦国当時の門跡を復元したものではなく、岐阜城と織田信長のイメージを伝えるために設置された冠木門として見るのが適切です。史実上の遺構ではない点を押さえたうえで通ると、山頂散策路の入口として位置づけを理解しやすくなります。
- 「城へ入る」気分を作る門:天守へ急ぐ足を一度止め、歴史散策にスイッチを入れてくれる”区切り”のポイントです。
- 木組みのシンプルな造形:過剰に飾らず、山上の自然に馴染む設計。写真は正面から撮ると「道の奥行き」が出ます。
- 新緑・紅葉の季節が特に映える:木の門が風景に溶け込みやすく、門越しの散策路が絵になります。

| 築造年 | 不明(戦国期の遺構ではなく、近現代に設置) |
|---|---|
| 築造者 | 岐阜市(記念的に建立・復元された冠木門) |
| 構造・特徴 | 冠木門(かぶきもん)/大手道・旧三の丸付近の”入口”を象徴する門/「天下」にちなんで命名 |
| 文化財指定 | 不明(門自体の文化財指定は確認できず) |
| 備考 | ロープウェー山頂駅から天守へ向かう道で、最初にくぐる門。山麓の居館跡入口の「冠木門」とは別物。 |
- 意外な歴史的背景:現地は「戦国当時ここに門があった」場所ではなく、信長の大志を称える趣旨で岐阜市が設けた”記念的な冠木門”として紹介されています。
- 知る人ぞ知る情報:「大手道旧三の丸付近」に置かれ、山頂駅から天守へ向かう導線の”最初の門”になっています。
- 著名人との関係:命名の背景は、信長が好んで用いた「天下」という言葉。岐阜城が天下統一へ踏み出す城であったことを象徴する意図が込められています。
岐阜城 伝一ノ門跡
斎藤道三の技術・信長の改修・関ヶ原の焼滅――3つの時代が1か所に折り重なる
ロープウェー山頂駅から天守方面へ歩き始めてすぐ——そこで旅人を迎えるのが「伝一ノ門跡」です。いま目に見えるのは、巨石石垣、岩盤を掘り残した高まり、そして左へ折れる通路構造。ここは山上部(内城)の入り口にあたる場所で、まっすぐ進ませずに視界と動きを制御する、山城らしい関門でした。岐阜市の発掘資料でも一ノ門の特徴として説明されています。
さらに注目したいのは、2026年1月公表の最新調査成果です。一ノ門北側で竪堀の北側の落ち込みが確認され、前年度に確認された南側と合わせて、幅約8.5メートルの竪堀の存在が確定したとされています。門跡の構造に周辺防御の理解が加わり、山上部の入口としての重要性がさらに見えやすくなりました。門柱の加工痕、焼けた壁土・瓦の出土については、斎藤期の基盤の上に信長期の改修が重なり、1600年の戦いに関わる焼失痕が残る地点として読むと、現地の遺構と発掘成果がつながります——天守へ急ぐ前に、ここで少し足を止めてみてください。石と岩盤だけの遺構が、思いのほか城の「意図」を語ってくれます。
- 岩盤を掘り抜いた”折れ”の通路:まっすぐ進ませないことで、侵入者の速度と視界を奪う。山城らしい防御の知恵が体感できます。
- 巨石石垣の迫力:門の脇に巨石を立て並べ、入城者に威圧感を与える構え。石のサイズが、当時の権威の示し方をそのまま伝えています。
- 冬は遺構観察向き:葉が落ち、岩肌や石組みが見やすい”遺構観察向き”の季節。夏は木陰が濃く、涼しく歩けます。

| 築造年 | 16世紀前半(岐阜市の発掘調査成果により、斎藤道三期の築造と整理) |
|---|---|
| 築造者 | 斎藤道三(岐阜市の調査成果による) |
| 構造・特徴 | 岩盤の高まりの周りに石垣+巨石石垣を組み合わせ、折れ曲がる通路で入城者を制御/巨石で権威を誇示する構え |
| 改修・復元歴 | 1567年(永禄10)信長入場後に瓦葺の門へ改修された可能性(出土遺物等から)/令和2年度(2020)発掘調査で構造確認 |
| 現存状況 | 遺構として一部現存(石垣・巨石など) |
| 消滅・損壊 | 1600年(慶長5)関ヶ原前哨戦の火災で焼け崩れた可能性が高い(調査成果による) |
| 文化財指定 | 国指定史跡 |
| 備考 | 現地案内板では江戸時代の絵図・記録に「一ノ門」とある場所として紹介される |
| いま目に見えるもの | 発掘で判明したこと |
|---|---|
| 岩盤の直線状加工痕(複数) | 門柱を据えた痕跡の可能性が指摘されている |
| 折れ曲がる通路の起伏 | 侵入者の速度と視界を奪う防御設計として確認 |
| 巨石石垣 | 大桑城(山県市)と同系統の技術。斎藤道三期の築造と整理されている |
| (現地では確認困難) | 焼けた壁土・瓦が出土。信長期の瓦葺改修と1600年焼滅の痕跡 |
- 意外な歴史的背景:発掘成果により、一ノ門は斎藤道三が大桑城(山県市)の技術と同系統の方法で築いた可能性が高いとされます。
- 知る人ぞ知る情報:岩盤に残る直線状の加工痕が複数確認され、門柱を据えた”痕跡”の可能性が指摘されています。
- 著名人との関係:信長が岐阜へ入った1567年以後、瓦葺の門へ改修された可能性が高いとされ、信長の「城の格上げ」が門跡にも刻まれています。
岐阜城 二の丸門
コンクリート製・観光施設として整備。「当時の遺構」ではない点を押さえて通る
金華山の山頂で、天守へ向かう人の流れがいったん整列する場所——それが「二の丸門」です。岐阜市の資料では、山上部の二の丸門はコンクリート製で、近代以降に観光施設として整備されたものとされています。設置にあたり、戦国期の門の位置や構造を復元したものではない点には注意が必要です。
「当時の遺構」ではなく、散策動線上の目印や雰囲気づくりの施設として見ると理解しやすいでしょう。ただ、「門をくぐって曲輪へ入る感覚」を体験させてくれる場所ではあります。
- 「門」をくぐって曲輪へ入る感覚:天守へ急ぐ足を一度整え、”城の中に入っていく”気分を作ってくれます。
- 二の丸の位置関係がわかる:本丸(天守台)の一段下を支える曲輪として、城の立体構造をイメージしやすい通過点です。

| 築造年 | 不明(岐阜市資料では、昭和48年〔1973年〕放映の大河ドラマ以降に観光施設として整備された旨が整理されている) |
|---|---|
| 築造者 | 不明(岐阜城山上部の観光施設として整備) |
| 構造・特徴 | コンクリート製の門(山上部)/二の丸への通過点として設置 |
| 文化財指定 | 不明(門自体の文化財指定は確認できず) |
| 備考 | 史跡整備施設としての門で、設置にあたり歴史的な調査・検証を経ていない旨が資料に記載される |
- 意外な歴史的背景:岐阜市の資料では、二の丸門はコンクリート製で、近代以降に観光施設として造られたものと整理されています。
- 知る人ぞ知る情報:同資料では、門や塀などの城郭整備施設は、設置にあたり歴史的な調査・検証を経ていない点もあわせて示されています。
岐阜城 井戸跡(金銘水)
「湧かない井戸」が語る山城の現実――天守の華やかさとは真逆の生々しさ
岐阜城の山頂部を歩いていると、天守の華やかさとは真逆の”生々しい現実”に出会います。それが、軍用井戸と伝わる「金銘水(きんめいすい)」。金華山は岩塊そのものの山で、湧水がほとんど望めず、籠城戦の最大の弱点は「飲み水」でした。だからこそ、雨水や岩の隙間からわずかに沁み出す水をためるために、岩を掘り下げて”水を生かす装置”をつくった。
天守へ向かう道から少し外れた場所にありますが、城の実用的な側面を知るうえで立ち寄る価値があります。石垣や門よりも先に水の話が出てくる。それだけで、山城の現実の厳しさが少しわかる気がします。
- “湧かない井戸”という戦国のリアル:地下水ではなく、雨水と岩の隙間水を集める発想そのものが、山城の厳しさを物語ります。
- 天守の陰にある「兵站」視点:天守の眺めだけでなく、城の実用的な側面に目が向くきっかけになります。
- 雨後は”水を溜める施設”としての説得力が増す:乾いた季節とは違う表情になります(足元注意)。

| 築造年 | 不明(戦国期に籠城用として掘削されたとされる) |
|---|---|
| 築造者 | 不明 |
| 構造・特徴 | 湧水ではなく、雨水や岩の間からの沁み出し水を溜めるための井戸(貯水施設的性格)/二の丸西側に位置するとされる |
| 文化財指定 | 国指定史跡(岐阜城跡の指定範囲内) |
| 備考 | 二の丸を挟んで西側に複数・東側に1か所、計4か所の井戸があると案内板等で紹介される |
- 意外な歴史的背景:金華山は岩塊の山で湧水が期待できず、籠城の飲料水確保が「非常に困難」だったと岐阜市が解説しています。
- 知る人ぞ知る情報:案内板等では、二の丸を挟んで西側に複数、東側に1か所の井戸があるとされ、金銘水はその一つとして紹介されます。
- 著名人との関係:信長が岐阜城を天下取りの拠点へ引き上げたとき、見栄えだけでなく籠城の”持久力”が不可欠でした。金銘水は、その弱点を補おうとした城の知恵を伝えます。
岐阜城 天守閣
1956年再建の復興天守。眼下の濃尾平野が「なぜ信長がこの山を選んだか」を答える
岐阜の現在の岐阜城天守閣は、1956年(昭和31年)に再建された復興天守です。戦国期の建物そのものではありませんが、展望台から長良川と濃尾平野を見渡すと、岐阜城が交通と景観の要地に置かれていたことを実感しやすい場所です。なぜ信長がこの山を選んだのか、説明を読まなくても納得できます。
⚠️ 天守閣は2026年5月19日から2027年10月下旬まで休館予定です。2026年前半に訪れる場合は、ロープウェー山頂駅から天守まで徒歩約8分かかるため、最終入場時刻の15分前には山頂駅に着いているのが安心です。内部展示のハイライトは楽市楽座の制札(複製)。1569年にポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが岐阜城を訪れた記録展示では、8日間の滞在が日ごとに紹介されています。
- 天守からの360度展望:長良川と濃尾平野が一望。信長が”地形を味方にした理由”が視界そのもので理解できます。
- 山城の導線(門跡・石垣と合わせて):山頂駅から天守へ至る道に遺構が点在し、岐阜城が「眺め」だけでなく「仕組み」で守られていたことがわかります。
- 夜間営業「岐阜城パノラマ夜景」:期間限定で夕暮れから夜へ変わる”天下の光”を体験できます(開催日程は公式情報をご確認ください)。

| 築造年 | 伝:建仁年間(1201〜1204)/信長の岐阜城時代:1567年(永禄10年)〜/現天守:1956年(昭和31年)再建 |
|---|---|
| 築造者 | 伝:二階堂行政(諸説あり)/戦国期:斎藤氏→織田信長 |
| 改修・復元歴 | 1910年(明治43年)模擬天守→1943年(昭和18年)焼失→1956年(昭和31年)復興天守再建 |
| 文化財指定 | 国史跡「岐阜城跡」(範囲内) |
| 最終入場日 | 2026年5月18日(令和8年5月18日) |
| 休館期間 | 2026年5月19日〜2027年10月下旬(耐震改修工事)/リニューアルオープン:2027年11月予定 |
- 2017年復元:2領の甲冑(緑金の戦国甲冑/南蛮具足+ビロードのマント)
- 楽市楽座の制札(複製)
- ルイス・フロイス岐阜城訪問記録(1569年、8日間の滞在日記)
- 「岐阜」地名の由来解説(岐山+曲阜)
- NHK大河「信長 KING OF ZIPANGU」(1992年)濃姫役・菊池桃子さんの打掛展示
- 360度展望(長良川・濃尾平野)
- 意外な歴史的背景:現在の天守は1956年(昭和31年)の復興天守で、戦国当時の天守がそのまま残っているわけではありません。
- 知る人ぞ知る情報:山頂駅から天守まで「徒歩8分」。閉館間際は間に合わないことがあるので、山頂駅到着の時刻に余裕を持つのがコツです。
岐阜城資料館
天守が「感動」なら資料館は「納得」。城の裏側を想像させる場所
天守へ向かう道の途中に、もうひとつの城の顔がある。岐阜城資料館です。昔の武器庫・食糧庫を隅櫓城郭造りに再現した建物で、1975年(昭和50年)に整備されました。天守が「見せる城」なら、こちらは城の裏側を想像させる場所です。
入口では、岐阜城資料館は、1975年に整備された隅櫓城郭造りの施設です。入口では赤いマントをまとった信長の等身大像が出迎えます。傍らには「美濃へは何度でも訪れよ」——フロイスとの別れ際に信長が言ったとされる一言。館内では2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」関連の展示(本木雅弘・長谷川博己・染谷将太の衣装など)も楽しめます。ただし2026年3月31日が最終入場日のため、訪れるなら早めの計画を。天守と資料館、両方合わせてはじめて岐阜城を見たと言える気がします。
- 隅櫓城郭造りの外観:山上の景色に映える白壁と瓦屋根。天守とは違う”城郭らしさ”を楽しめます。
- 岐阜城を理解する展示:天守の眺めが「感動」なら、資料館は「納得」。城の見方を一段深めてくれます。
- 入場券は天守閣で購入:資料館では販売していません(行き違い防止に覚えておくと便利)。

| 整備年 | 1975年(昭和50年)4月 |
|---|---|
| 構造 | 昔の武器庫・食糧庫を「隅櫓城郭造り」に再現 |
| 入場料 | 岐阜城天守閣と共通。資料館では販売なし(天守閣で購入)。 |
| 最終入場日 | 2026年3月31日(令和8年3月31日) |
| 休館期間 | 2026年4月1日〜2027年10月下旬(耐震改修工事に伴う) |
| 文化財指定 | なし(建物自体) |
- 信長等身大像(赤マント)/「美濃へは何度でも訪れよ」の言葉
- 大河「麒麟がくる」(2020年)衣装:本木雅弘(斎藤道三:黒糸縅筋兜)・長谷川博己(明智光秀)・染谷将太(信長)
- 長野剛氏による信長・道三の肖像画(「信長の野望」シリーズのイラストレーター)
- 意外な歴史的背景:岐阜市の案内では、昔の武器庫・食糧庫をモデルに、1975年(昭和50年)4月に隅櫓城郭造りとして再現した建物とされています。
- 知る人ぞ知る情報:資料館の入場券は天守閣で購入する運用で、資料館では販売していません。
石垣・井戸跡
谷地形を護岸して通路化した「土木の知恵」と、兵站の裏方
岐阜城の山上部で、天守の”映え”をいったん脇へ置いて歩きたくなる場所があります。それが「石垣・井戸跡」。ここは本来、山の起伏がつくる大きな谷地形でしたが、両側を石垣で護岸して、城内の動線として使える通路へ作り替えたと説明されています。見どころは「石」そのものというより、地形を読んで削り、積んで通路にするその発想です。
岐阜市の山上部調査では、石材が比較的大きく、石材の間に間詰石を入念に入れて構築した石垣が確認され、山麓の信長公居館の石垣と共通する特徴があると説明されています。山上で見える石垣を、単なる残存物ではなく、信長期の改修を考える手がかりとして見やすい区間です。石垣の先に残る井戸跡もまた、山上で水が得にくい現実に対する”兵站の知恵”。籠城の生存ラインを支えた裏方の存在です。
- 護岸石垣がつくる”谷の通路”:自然地形をそのままにせず、石垣で両側を固めて動線へ変えた発想が、山城の実務を伝えます。
- 井戸跡=兵站の核心:華やかな天守のすぐ近くにある”水の確保”の遺構。城の強さが生活基盤で決まることを実感できます。
- 冬は石組みが見やすい:下草が落ちて石組みが観察しやすく、遺構観察向き。

| 築造年 | 不明(石垣は戦国期/一部は信長入城後に構築された可能性が高い) |
|---|---|
| 築造者 | 不明(戦国期の岐阜城の造成の一環) |
| 構造・特徴 | 谷地形を石垣で護岸して通路化/岐阜城で石垣が比較的良く残る地点とされる/貯水用の井戸跡(雨水などの貯留を想定) |
| 現存状況 | 遺構として現存(見学可) |
| 消滅・損壊 | 不明(破城や風化により崩落した箇所が多いとされる) |
| 文化財指定 | 国指定史跡 |
| 備考 | 現地の説明板で「地形(谷)→護岸石垣→通路化」「貯水用井戸」の趣旨が紹介される |
| いま目に見えるもの | 発掘で判明したこと |
|---|---|
| 護岸石垣 | 石材の形状・積み方から「信長入城後の石垣」に分類される例あり |
| 石垣先の窪み(井戸跡) | 湧水ではなく雨水・岩の間の水を貯める貯水施設と説明されている |
- 意外な歴史的背景:石材の形状や積み方の特徴から「信長入城後の石垣」に分類される例が報告され、信長期の改修を裏づける材料になっています。
- 知る人ぞ知る情報:この地点は”石垣がよく残る”とされ、井戸跡から見上げる石垣と天守の構図が密かな人気です。
- 著名人との関係:信長が岐阜を天下取りの拠点に据えた時代、城は見せる場であると同時に、持久戦に耐える生活装置でもありました。
発掘成果サマリー
各スポットに散在する発掘情報を一覧化。城郭全体の変遷を俯瞰するための参照表です。
| 発掘箇所 | 主な成果 | 時代帰属 |
|---|---|---|
| 伝一ノ門跡 | 折れ曲がる通路構造・巨石石垣・岩盤加工痕・焼けた壁土・瓦 | 斎藤期→信長期改修→1600年焼滅 |
| 天守台北・西面 | 戦国期石垣の現存確認 | 信長期 |
| 山上通路脇 | 川原石・素焼きの皿大量出土(もてなしの場の可能性) | 信長期 |
| 居館跡(山麓) | 金箔瓦・巨石列・3種類の石組みによる平場・庭園的空間 | 信長期(1567年以降) |
| 石垣・井戸跡(山上通路) | 谷地形を護岸して通路化。「信長入城後の石垣」に分類される例あり | 信長期 |
| 御手洗池底 | 1987年調査。城に関わる遺物は確認されなかった | ― |
出典:岐阜市発掘調査成果(岐阜城跡山上部・山麓部)/現地案内板・信長居館発掘調査案内所展示
FAQ
※ 本記事は2026年3月現在の情報をもとに作成しています。開館時間・入場料・休館日・工事状況は変更される場合があります。訪問前に岐阜市公式サイトおよび各施設の最新情報をご確認ください。
※ 発掘成果に関する記述は、岐阜市発掘調査成果・現地案内板・信長居館発掘調査案内所の展示内容をもとにしています。調査は継続中のため、今後の成果により内容が更新される可能性があります。

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