
・資料館 最終入場日 2026年3月31日(4月1日〜休館)
・天守閣 最終入場日 2026年5月18日(5月19日〜休館)
いずれも2027年10月下旬まで休館予定。山頂の遺構(伝一ノ門跡・石垣・井戸跡)は通常通り見学可能。訪問前に岐阜市公式サイトで最新情報をご確認ください。
岐阜駅起点で回れる「信長ゆかりの地」を、移動の目安つきでまとめました。大河ドラマの豊臣兄弟!などで出てくる「稲葉山城」は、信長が奪取後に改名した「岐阜城」のことです(1567年ごろ)。定番は「黄金像 → 岐阜公園・岐阜城(=稲葉山城)」。もう1か所足すなら、崇福寺が見どころ(展示)が多く、満足度が高いです。
※拝観・展示内容や受付は変更されることがあるため、最新情報は公式案内もご確認ください。
岐阜の信長史を「読む」ための3つの時代
各スポットの説明を読む前に、この時代区分を頭に入れておくと見え方が変わります。
- 斎藤道三が稲葉山城と城下町を整備
- 円徳寺の前身「浄泉坊」もこの頃に遡る
- 手力雄神社への信仰もこの時代背景
- 稲葉山城を「岐阜城」に改名、天下布武
- 楽市楽座で城下の商業を活性化
- 居館・庭園を整備、善光寺如来を岐阜へ
- 川原町の水運拠点としての発展
- 本能寺の変で信長・信忠が死去
- 崇福寺に父子廟が守られる
- 1600年 関ヶ原前哨戦で岐阜城落城
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黄金の織田信長公像
岐阜の旅のスイッチを入れる駅前ランドマーク
岐阜の旅のはじまりに、まずは駅前のランドマークとして立ち寄りやすいのが「黄金の織田信長公像」です。岐阜が信長の拠点の一つとして語られる土地だ、という”入口”を作ってくれる存在。甲冑の稜線が光をはじき、角度や時間帯で印象が変わります。マントを羽織り、右手に火縄銃、左手に西洋兜を持つ姿は、駅前でもよく目立ちます。
※史跡そのものではなく、現代に設置された記念モニュメントです。「ここから信長の岐阜が始まるんだな」と思える場所として捉えると、期待値が合いやすいです。
- 駅前広場を見下ろす位置に立っており、像を見上げながら広場全体を一緒に収めた写真が撮れます。
- 写真映えする金色の陰影:晴天・夕景・夜の照明で印象が変わるので、時間帯を変えて撮るのもおすすめ。岐阜駅2階出口から像をみると同じ目線で写真がとれます。
- 冬がおすすめ:冬の晴れた日は金色がくっきり映えるので、空気が澄んでいる時期が狙い目です。
住所:岐阜県岐阜市橋本町1丁目100 JR岐阜駅から徒歩1分
| 設置年 | 2009年9月 |
|---|---|
| 設置者 | 「信長公の銅像を贈る会」により設置(市制120周年記念) |
| 構造・特徴 | 金色仕上げの信長立像(像高:約3m、台座含め約11m) |
| 文化財指定 | なし |
| 備考 | JR岐阜駅北口側に設置 |
- 設置の経緯:信長が岐阜へ入った”城下づくりの熱”を、現代の玄関口(駅前)に置き換えた象徴的モニュメントです。
- 撮り方の小ネタ:像を少し見上げる位置に立つと、甲冑の立体感が強調され、写真の迫力が増します。
- 定番撮影スポット:織田信長を題材にした岐阜の”表玄関”の定番撮影スポットとして定着しています。
円徳寺
楽市楽座の制札・織田塚――合戦ではなく「統治」の信長に触れる
岐阜で信長の痕跡を辿るなら、城や像だけでなく、城下の運営や商いに関わる手がかりにも触れておきたいところ。岐阜市中心部で立ち寄りやすい円徳寺には、楽市・楽座に関わる制札(寺に伝来する資料)が伝わるとされ、重要文化財として扱われています。合戦の武功だけでなく、人を呼び、商いを動かし、街を整える――そうした「統治」の側面に意識が向くスポットです。
この寺には「織田塚」など、織田家にまつわる供養の伝承も語り継がれています。信長だけでなく、父・信秀や孫・秀信といった”世代の重なり”に触れることで、短い滞在でも「信長だけじゃないんだな」と感じられるはずです。


- 「楽市楽座」を伝える制札:城下の商い・制度に関する手がかりとして語られる資料です。合戦中心の戦国史から、城下運営・経済の視点へ意識が切り替わるきっかけになります。
- 信長寄進と伝わる梵鐘:武将の寄進が、寺の時間を何百年も支えてきたことを実感できる寺宝(指定文化財)。
- 夏場のメモ:夏の夕方は境内が比較的涼しく、街歩きの小休止に最適。柳ヶ瀬〜岐阜駅方面の散策ルートに組み込みやすいです。
住所:〒500-8833 岐阜県岐阜市神田町6丁目24 岐阜駅からバスと徒歩で約10分
| 築造年 | 不明(前身は「浄泉坊」とされる) |
|---|---|
| 築造者 | 不明 |
| 構造・特徴 | 浄土真宗本願寺派の寺院/「楽市楽座」制札が伝わる/織田塚(戦死者供養)を伝える |
| 文化財指定 | 楽市楽座制札附織田信長百姓帰住制札:国指定重要文化財/梵鐘ほか:岐阜市指定重要文化財 |
| 備考 | 拝観時間 9:00〜17:00/拝観無料/駐車場なし(周辺の駐車場利用を推奨) |

円徳寺
国指定重要文化財
楽市楽座制札(らくいちらくざせいさつ) 四枚
附 織田信長百姓帰住制札(ひゃくしょうきじゅうせいさつ) 一枚
平成五年六月一〇日指定
織田信長百姓帰住制札:永禄一〇年(一五六七)九月
織田信長楽市楽座制札:永禄一〇年(一五六七)一〇月
織田信長楽市楽座制札:永禄一一年(一五六八)九月
池田元助楽市楽座制札:天正一一年(一五八三)六月
池田元助楽市楽座制札:天正一二年(一五八四)九月
円徳寺には、岐阜城主であった織田信長、池田元助、池田輝政の制札が伝来しています。
織田信長が発給した制札は三枚伝来しています。百姓帰住制札は、信長の美濃攻略直後の永禄一〇年九月に、戦で散り散りになった北加納の百姓たちに帰住を求めたものです。一〇月の楽市楽座制札は、市場の往来者に対して信長の領国往来の自由や借金の棒引き、諸役(雑税)の免除などの特権を与え、市場の活性化を促しています。
翌一一年の九月の制札の内容はほぼ同じですが、楽市楽座の文言があること、宛先が楽市場から加納に変わっていることが異なります。これは永禄一〇年段階では楽市場周辺は荒廃して住民がいない状態であったものが、翌年には町の活気を取り戻したことが考えられます。
楽市楽座は、信長の革新的な経済政策として考えられてきましたが、これらの制札からは、信長が入城以前からあった楽市場の特権を認め、市場の活性化を目的としたことがわかります。

岐阜市指定史跡
伝織田塚改葬地(でんおだづかかいそうち)
昭和三十二年二月十二日指定
天文十三年(一五四四)九月、尾張国の織田信秀(信長の父)は、土岐頼純(頼充)を支援する越前国の朝倉孝景と連合軍を組んで、斎藤道三のいる美濃国に侵攻してきました。 九月十九日、朝倉軍は赤坂(岐阜県大垣市)で斎藤軍を破り、稲葉山城へ退散させています。 そして、三日後の九月二十二日、織田軍は稲葉山城を攻撃します。 『信長公記』によると、織田軍は城下の村々に押し寄せて焼き払い、町の入口まで詰め寄ります。 日が暮れ始めた頃、織田軍が半分程の軍勢を引き揚げたところ、突如斎藤軍が稲葉山城から出撃してきました。 不意を突かれた織田軍は、織田信康(信秀の弟・犬山城主)をはじめとする約五千人(数百人と記された史料もあり)が討ち死にしたと伝えられています。 大敗を喫した信秀は、わずか六、七名の部下に守られて、尾張国に逃げ帰りました。
この時の戦死者を葬った塚が織田塚です。 現在、織田塚は岐阜市霞町と円徳寺境内の二か所にあります。 円徳寺の寺伝によると、かつてここから東方に浄泉坊(円徳寺の前称)があり、永禄年間(一五五八~一五七〇)に現在地へ移転すると、元々あった塚が次第に荒廃したといいます。 そこで、安永五年(一七七六)に安八郡神戸村の善学院老僧金龍上人は織田塚を円徳寺境内に移して弔い、塚の上に碑を建てたと伝えられています。 現在は、円徳寺によって大切に守られています。
- 制札の評価:ここに残る制札は、合戦の武功ではなく「城下復興と商業政策」を示す資料として評価され、国の重要文化財に指定されています。
- 街なかの戦国:駅近の”街なか寺院”ながら、境内には戦死者供養の「織田塚」を伝え、戦国の生々しい裏面にも触れられます。
- 織田家三代の痕跡:信長・信秀・秀信――織田家三代にまつわる痕跡が重なり、家の盛衰を一地点で辿れるのが円徳寺のユニークさです。
建勲神社(岐阜信長神社)
武将ではなく「御祭神」としての信長に静かに向き合う
橿森神社の境内に「建勲神社(通称:岐阜信長神社)」があります。京都の建勲神社から分霊されたと伝わり、武将としての信長ではなく、功績を背負った”御祭神としての信長”に静かに向き合えるのが魅力。派手さはないのに、境内に入るとひっそりと静かな一角に出る。賑やかな観光スポットの合間に立ち寄ると、落ち着いた気持ちで参拝できます。
御朱印:通常の御朱印は橿森神社の授与所で書置きとして拝受できました(状況により変わる場合あり)。金の御朱印は「毎月最終金曜日」に直書き対応として案内されていました。※実施日・受付方法は変更の可能性あり。
- “信長を祀る”という視点:城や合戦ではなく、功績を背負った存在としての信長に向き合えます。
- 境内の空気の切り替わり:橿森神社の中にありながら、参道の先は木に囲まれていて、少し奥まった静かな場所にあります。
- 夏場のメモ:夏は木陰が深く、参拝後の涼しさが心地よい時間になります。
住所:岐阜県岐阜市若宮町1-8 岐阜駅からバスと徒歩で16分
| 築造年 | 明治時代(年不明) |
|---|---|
| 築造者 | 不明(京都・建勲神社から分霊) |
| 構造・特徴 | 橿森神社境内の社(信長を主祭神とする) |
| 文化財指定 | 不明 |
| 備考 | 通称「岐阜信長神社」 |
- 分霊の由来:京都の建勲神社から分霊されたとされ、岐阜でも信長信仰が形になっています。
- 三社参り:橿森神社は「岐阜三社参り」の一社としても知られ、巡礼的な歩き方ができます。
- 御祭神は信長公:祀られているのは”織田信長公”その人。岐阜の信長巡りの精神的な拠点です。
岐阜公園(岐阜城/稲葉山城)
信長の拠点そのもの。山麓から山頂まで半日かけて味わえる
岐阜公園・岐阜城は、このページの各スポットとは別に詳細ガイドを用意しています。山麓の居館跡・庭園遺構・三重塔から、山頂の門跡・石垣・天守閣まで、歩き順とあわせて詳しく紹介していますので、下記リンクからご確認ください。
岐阜城・岐阜公園 詳細ガイド住所:岐阜県岐阜市大宮町1丁目 岐阜駅からバスと徒歩で約20分
| 関連ページ | 岐阜城・岐阜公園 詳細ガイド |
|---|---|
| 天守閣最終入場日 | 2026年5月18日(5月19日〜2027年10月下旬 休館) |
| 資料館最終入場日 | 2026年3月31日(4月1日〜 休館) |
| 備考 | 山頂の遺構(伝一ノ門跡・石垣・井戸跡)は通常通り見学可能 |
川原町の古いまちなみ
信長の城下町づくりが育てた水運の町。白木格子の町家が今も残る
長良川のほとりに静かに佇む川原町は、戦国時代に斎藤道三が築いた城下町を、織田信長が大きく発展させたことに始まる歴史ある町並みです。永禄10年(1567年)、美濃を平定した信長は稲葉山城を「岐阜城」と改称し、楽市楽座の導入により商業を活性化させる一方、川湊の商人には舟木座の結成を認めるなど柔軟なまちづくりを展開。長良川の水運を基軸とした城下町を国内有数の商業都市へと成長させています。
奇跡的に1945年の岐阜空襲の戦火を免れたこの地区には、江戸時代から昭和初期にかけて建てられた白木格子の町家や蔵が今も往時の姿を留めています。狭い間口に長い奥行きという商家建築の特徴を持つ日本家屋が通り沿いに連なり、普通に人が暮らしながら景観が維持されています。
- 白木格子の町家群:電柱が地中化されているため視界を遮るものがなく、江戸時代さながらの美しい景観が広がります。
- 川原町屋(旧和紙問屋):かつての和紙問屋を改装したカフェ&ギャラリー。赤い丸ポストが目印で、蔵を改装した奥の喫茶室では趣ある空間でくつろげます。
- 住井冨次郎商店:岐阜市で唯一残る手作りうちわ専門店。柿渋を塗った渋うちわの製造販売を行い、店先で職人の作業風景を見学できます。
- 長良川デパート湊町店:長良川流域の伝統工芸品や食品を集めたセレクトショップ。美濃和紙、岐阜提灯、岐阜和傘などに出会えます。
- 鵜飼シーズンなら:5月11日〜10月15日頃の長良川鵜飼シーズンには川原町から徒歩すぐの乗船場から鵜飼観覧が楽しめます。夜間は提灯のライトアップも。
住所:岐阜県岐阜市湊町・玉井町・元浜町界隈 「長良橋」バス停下車、徒歩約5分
| 築造年 | 戦国時代(16世紀中頃)に斎藤道三が城下町整備、永禄10年(1567年)以降に信長が発展。現存する町家は江戸時代〜昭和初期の建造 |
|---|---|
| 築造者 | 斎藤道三(城下町の基盤整備)、織田信長(楽市楽座による商業振興と川湊の発展) |
| 構造・特徴 | 白木格子・荒格子・黒塀を備えた町家建築。狭い間口に長い奥行きの商家造り。通りは湊町・玉井町・元浜町を横断し材木町へ続く |
| 改修・復元歴 | 2000年〜 電線地中化・地道整備。2001年「川原町まちづくり協定」策定 |
| 現存状況 | 現存。1945年の岐阜空襲を奇跡的に免れ、江戸〜昭和初期の町家・蔵が良好な状態で残存 |
| 文化財指定 | 国重要文化的景観「長良川中流域における岐阜の文化的景観」(2014年選定)/日本遺産第1号「信長公のおもてなし」構成文化財(2015年認定) |
- 空襲を免れた奇跡:川原町が岐阜空襲を免れたのは奇跡的な偶然。岐阜市街地の大部分が焼失する中、この一帯は戦火を逃れ、江戸時代以来の町並みがそのまま残されました。
- 屋根神様:古民家の屋根の上には「屋根神様」と呼ばれる秋葉神社の小さな祠が祀られている。洪水が多い土地柄のため、屋根の上に火災・水難除けの神を祀った風習です。
- 芭蕉と鵜飼:松尾芭蕉は元禄元年(1688年)に岐阜を訪れ、長良川河畔で「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉」の名句を詠みました。信長は鵜飼を賓客接待に用い、漁師に「鵜匠」の名称と禄米を与えて保護した最初の人物とされています。
岐阜善光寺(善光寺安乗院)
信長ゆかりの史跡巡りに「信仰史」の視点を足す
伊奈波神社のそばに岐阜善光寺(善光寺安乗院)があります。信長ゆかりの伝承が残る寺で、善光寺如来の移動にまつわる由緒が語られています。ただし、この種の由緒は伝承・寺伝として語られる部分もあるため、細部は寺の案内や説明に沿って受け取るのが安心です。
明治24年(1891)の濃尾大震災で全焼し、大正初年に再建された本堂は、城下町の暮らしに溶け込みながら”日常の救い”を受け止める佇まい。堂内には平安時代作とされる釈迦如来坐像(岐阜市指定重要文化財)も伝わります。信長ゆかりの史跡巡りの合間に立ち寄れば、天下布武の話ばかりでなく、この土地の人々の暮らしや祈りの側面にも目が向くようになります。
御朱印:参拝後に授与所で拝受しました。行事日(節分/胡瓜封じ周辺)は混みやすく、受付方法や時間が変わることもあります。
- 戦国を渡り歩いた「善光寺如来」の記憶:信長が岐阜へ迎えたとされる由緒が、寺の物語の核。史跡巡りに”信仰史”の視点が加わります。
- 再建本堂の落ち着いた佇まい:濃尾大震災の全焼を経て大正初年に再建。観光地然とした雰囲気はなく、地元の人が普通にお参りに来るような寺です。
- 行事に合わせるなら:節分の「節分星祭り」、夏の「胡瓜封じ」。参拝が”行事体験”に変わる。行事日は混雑や受付時間の変更も起きやすいので、訪問前に確認を。
住所:〒500-8043 岐阜県岐阜市伊奈波通1-8 JR岐阜駅からバスと徒歩で約20分
| 築造年 | 不明(現在の本堂は大正初年に再建) |
|---|---|
| 築造者 | 開基:織田秀信(信長の嫡孫) |
| 構造・特徴 | 真言宗(醍醐派)の寺院/本尊:善光寺如来(御分身)/美濃新四国八十八ヶ所 第1番札所 |
| 改修・復元歴 | 1891年(明治24年)濃尾大震災で全焼→大正初年に本堂再建 |
| 文化財指定 | 釈迦如来坐像:岐阜市指定重要文化財 |
| 備考 | 節分頃の「節分星祭り」、夏の「胡瓜封じ」あり(日程・受付は年ごとに変更の可能性) |
- 本尊の遍歴:本尊にまつわる伝承では、武田・織田・豊臣・徳川へと”時代の手”を渡ったのち本所へ帰ったとされ、戦国の勢力図が信仰にも影を落とします。
- 巡礼の起点:美濃新四国八十八ヶ所の第1番札所。巡礼のスタート地点として歩くと、岐阜の街の見え方が変わります。
- 織田家の次世代:堂を建立したのは信長の嫡孫・織田秀信とされ、織田家の”次の世代”の痕跡としても興味深い存在です。
伝 お濃之墓(濃姫遺髪塚)
住宅街の路地に眠る「史料なき正室」の記憶
路地が入り組む住宅街の一角、西野不動尊前。そこに立つ石碑が、伝 お濃之墓(濃姫遺髪塚)です。濃姫(帰蝶)は斎藤道三の娘で、織田信長の正室として語られる存在ですが、婚姻後の確かな史料は少なく、その生涯は霧の中にあります。だからこそ、この場所に伝わる「本能寺の変で信長と共に亡くなり、逃れた家臣が遺髪を持ち帰って埋葬した」という伝承は、史実の断片というより、岐阜の人々が”信長の時代”を心に留めるために語り継いできた場所なのだと感じます。
岐阜市の案内によれば、遺髪塚は1945年(昭和20年)の岐阜空襲で焼失し、のちに有志の尽力で1976年(昭和51年)に再建されたとされます。石碑の前には花が供えられていることがあり、今も誰かが手を合わせに来ているのがわかります。
お濃之墓由来
この墓は天正十年六月二日、京都本能寺の変の折、夫君 織田信長公と共に討死された、お濃之方の墓で、討死された時、家臣の一人が遺髪を持ってこの地迄逃れ来て、埋葬したものと伝えられて居ります。
昭和二十年七月九日のB29の空襲により焼失し、昭和五十年にお濃の墓の碑文がみつかり、氏子有志の御協力を得て再建いたしました。
- 巨木と石碑の対比:路地の中で突然現れる大木と石碑。城や寺とは違う”生活の中の歴史”が迫ってきます。
- 「伝承」と向き合う体験:濃姫は史料が少ない人物。ここでは史実の断定より、土地が残した記憶の温度を味わうのが醍醐味です。
- 夏場の路地歩き:夏は木陰が濃く、静かな路地歩きが心地よい。花の供えが増える時期もあり、地元の祈りが感じられます。
住所:〒500-8802 岐阜県岐阜市不動町 西野不動尊前 岐阜駅からバス・徒歩で約24分
| 築造年 | 不明(遺髪塚は1945年焼失後、1976年に再建) |
|---|---|
| 築造者 | 不明(再建:有志の尽力による) |
| 構造・特徴 | 遺髪塚(石碑)/「お濃之墓」として伝承される/西野不動尊前の路地に所在 |
| 文化財指定 | 不明(岐阜市の案内では「史跡ではない」と明記) |
| 備考 | 濃姫(帰蝶)に関する伝承地。史料が少ない人物のため、内容は「伝」として受け止めたい |
- 焼失と再建:戦国の火災ではなく、1945年(昭和20年)の岐阜空襲で焼失し、1976年(昭和51年)に再建されたと案内されています。
- 見つけにくい場所:大通りの観光導線から少し外れた住宅街にあり、地図アプリがないと見落としやすい”街の奥の史跡風景”です。
- 濃姫の伝承地:織田信長の正室として語られる濃姫(帰蝶)に結びつく伝承地で、信長の史跡だけでなく、濃姫にまつわる場所にも足を延ばせます。
西野不動堂
信長が城下四方に配した「四天王」の一角――霊的な城下町設計を読む
濃姫遺髪塚のすぐ向かいに建つのが西野不動堂です。遺髪塚に目を引かれがちですが、実はこちらの不動堂こそ、信長の城下町構想を物語る重要なピースとなっています。
本尊の不動尊像は、弘法大師(空海)が彫ったものと伝えられています。美濃を平定した織田信長がこの地に移し、岐阜城の守護仏としています。信長は城下の四方に仏を配し、結界のように町を守護させました。伊奈波の善光寺「善光寺如来」、西野「不動」、小熊「地蔵」(慈恩寺)、美江寺「観音」。この四尊を「四天王」と称したと伝えられています。
遺髪塚と同様に1945年の岐阜空襲で焼失しましたが、その後再建されて現在に至ります。信長が城下四方に仏を配した構図を知ったうえで来ると、この小堂の見え方が変わります。
- 不動堂と本尊:弘法大師作と伝わる不動明王像を祀る小堂。信長がわざわざ遠方から移してきた守護仏という来歴が、この場所の重みを伝えています。
- 「四天王」の配置を想像する:善光寺如来(伊奈波)、不動(西野)、地蔵(小熊・慈恩寺)、観音(美江寺)と、信長が城下に張りめぐらせた霊的な守りの構図を地図上で結んでみると、城下町全体を包み込むような配置になっています。
- 周辺と合わせるなら:崇福寺や道三塚など信長・濃姫ゆかりの史跡と合わせて巡ることで、岐阜城下町の意外な広がりに気づけます。
住所:〒500-8802 岐阜県岐阜市不動町 前のスポット(濃姫遺髪塚)と同じ場所(隣接)
| 築造年 | 不動尊像は弘法大師作と伝承。信長が永禄10年(1567年)以降に移設 |
|---|---|
| 築造者 | 不動尊像:弘法大師(伝承)。この地への移設:織田信長 |
| 構造・特徴 | 不動明王を本尊とする小堂。信長が城下四方を守護させた「四天王」の西方 |
| 改修・復元歴 | 1945年(昭和20年)岐阜空襲で焼失。戦後に再建 |
| 文化財指定 | 不明 |
| 備考 | 隣接して濃姫遺髪塚がある。「不動町」の地名は西野不動尊に由来 |
- 「四天王」の意図:信長が城下四方に仏を配した「四天王」は、仏教の四天王になぞらえたもの。武力だけでなく、宗教的な権威をも活用して城下町の秩序を設計した統治手腕がうかがえます。
- 地名の由来:「不動町」という現在の地名自体が、西野不動尊に由来しています。かつて広い境内を持っていた不動尊の存在感が、地名として今も岐阜の町に刻まれています。
- 空海と信長:空海作と伝わる仏像が、数百年の時を経て信長の手によって岐阜城の守りに組み込まれた――空海の時代と信長の時代が一つの仏像でつながっているのが面白いです。
崇福寺
信長父子廟・血天井・一次資料の展示――静かに見ごたえのある寺


永禄10年(1567)、美濃を平定した信長がこの地を拠点にした時期に縁のある寺のひとつが崇福寺です。やがて本能寺の変で信長と信忠が倒れると、側室・お鍋の方が遺品を寺に送り、父子を弔う廟所が守られてきました。境内は手入れが行き届いていて、訪れる人も多くなく、ゆっくり歩ける。さらに本堂には、関ヶ原前夜の岐阜城落城にまつわる”血天井”が伝わり、その天井が、今も本堂に残っています。


そしてもう一つ、崇福寺の”奥の魅力”が、内部で見られる展示です。信長や武家の気配を伝える古文書(書状・禁制)や、金地の屏風・掛軸などが並び、本や映像で知っていた戦国の話が、実際の資料を前にするとぐっとリアルに感じられます。派手な演出はありませんが、静かな空間でじっくり資料を見られるのが、個人的には一番よかったです。
御朱印:
- 織田信長父子廟:華やかな武名の裏側にある”弔い”の場所。静かな一角で、落ち着いて手を合わせられます。
- 血天井(本堂):岐阜城落城の記憶を伝えるとされる天井。由来を知って見上げると、寺の空気が一段と引き締まります。
- 秋の紅葉:秋はドウダンツツジの紅葉が庭に彩りを添え、歴史散策の合間に目が休まります。
住所:〒502-0817 岐阜県岐阜市長良福光2403-1 岐阜駅からバス・徒歩で約27分
| 築造年 | 不明(創建:伝・1469年〔文明元年〕など諸説) |
|---|---|
| 築造者 | 伝:土岐成頼・斎藤長弘 |
| 構造・特徴 | 臨済宗妙心寺派の寺院/織田信長父子廟、位牌堂、血天井(伝承) |
| 文化財指定 | 織田信長父子廟:岐阜市指定史跡 |
| 備考 | 「ぎふ信長まつり」前後に追悼行事が案内されることがあります。実施日・参列可否は年によって異なるため、当日の掲示や案内で確認してください。 |
- 関ヶ原の記憶:信長の時代だけでなく、関ヶ原前後の”岐阜城の記憶”も境内に折り重なっています。
- 信長まつりとの縁:信長まつりの時期に追悼式が営まれ、寺が”追慕の舞台”としても息づきます。
- お鍋の方の弔い:信長の側室・お鍋の方が遺品を送り弔わせたと伝わり、父子廟の成立に関わったとされます。
手力雄神社
信長が戦勝祈願した社。延宝2年再建の本殿と龍彫刻に見入る
「信長ゆかり」と聞いて思い浮かぶのは、城や合戦の舞台かもしれません。でも各務原の手力雄神社は、城や合戦の舞台ではなく、”勝ち運を祈る場所”として続いてきた神社です。ご祭神は天岩戸神話で岩戸をこじ開けた力の神・手力雄神(たぢからおのかみ)。古くは磐座(いわくら)祭祀にさかのぼる起源が語られ、那加地区の総社として、人々の暮らしの節目を受け止めてきました。戦国期には、織田信長が稲葉山城攻略の折に戦勝祈願をしたと伝わります。
境内よりも、社殿の彫刻の細部に見ごたえがあります。延宝2年(1674)に再建された本殿は、各務原市の指定文化財。とりわけ見逃せないのが、本殿の海老虹梁(えびこうりょう)に巻きつくように配された一対の龍の彫刻です。信長ゆかりの地を巡りながら、建築や彫刻も楽しみたい方にはとくにおすすめです。
※注意:当社(各務原市)は”火祭を行う神社ではない”旨を公式に案内しています。「手力の火祭」は岐阜市の手力雄神社です。
御朱印・御朱印帳:木製の御朱印帳は一般的な布表紙とは質感が違い、旅の記念性が強いタイプでした。授与品は時期で変わることがあります。



- 本殿の龍彫刻「竜の雌雄」:海老虹梁に巻きつくように配された一対の龍。間近で見るほど、彫りの勢いと迫力に引き込まれます。
- 延宝2年(1674)再建の本殿:各務原市内でも古い木造建築として知られ、社殿鑑賞そのものが”旅の目的”になります。
- 例大祭に合わせるなら:例大祭・御神幸祭は4月下旬〜4月29日前後に案内されることがあります。年によって日程が変わる場合があるため、訪問前に公式案内で確認を。
住所:〒504-0043 岐阜県各務原市那加手力町4 名鉄岐阜駅→新加納駅→徒歩約13分(全体目安:約40分)
| 築造年 | 創建:不詳(社伝では古い起源が語られる)/本殿再建:1674年(延宝2年) |
|---|---|
| 築造者 | 不明 |
| 構造・特徴 | 那加地区の総社/主祭神:手力雄神(天手力雄命)/本殿に一対の龍彫刻 |
| 文化財指定 | 手力雄神社御本殿:各務原市指定文化財(昭和52年4月21日指定)/竜の雌雄:各務原市指定文化財(昭和32年7月13日指定) |
| 備考 | 織田信長が戦勝祈願をしたと伝わる/当社は「火祭」を行う神社ではない |
- 磐座祭祀の起源:社伝では磐座祭祀から始まったとされ、神社になる以前の「祈りの場」の記憶を背負っています。
- 火祭との混同に注意:公式に「当社は火祭りを行う神社ではありません」と案内されています。同名の祭礼(岐阜市の手力の火祭)と混同しやすいので要注意です。
- 勝運祈願の信仰:織田信長が稲葉山城攻略の際に戦勝祈願をしたと伝わり、勝運祈願の信仰につながっています。
御朱印(御城印)窓口まとめ
直書き/書置き、受付時間、頒布の有無は日によって変わるため、「どこで受けられる可能性が高いか(窓口)」を中心にまとめています。参拝当日は現地掲示・公式案内で確認してください。
| スポット | 御朱印 | 授与窓口 | メモ |
|---|---|---|---|
| 建勲神社(岐阜信長神社) | あり | 橿森神社 授与所 | 境内社のため橿森神社で対応。金の御朱印は実施日を当日確認。 |
| 岐阜善光寺 | あり | 岐阜善光寺 授与所 | 行事日は混みやすく、受付時間が変わることも。 |
| 崇福寺 | あり | 崇福寺 受付 | 拝観可否や受付は時期で変動あり。 |
| 円徳寺 | 未確認 | — | 拝観は可能。御朱印対応は現地で確認推奨。 |
| 手力雄神社(各務原) | あり | 手力雄神社 授与所 | 木製の御朱印帳など授与品は時期で変わる場合あり。 |
| 岐阜公園(岐阜城) | 御城印あり | ロープウェイ山麓駅1F | 種類は季節により変わる可能性あり。 |
FAQ
※ 本記事は2026年3月現在の情報をもとに作成しています。拝観時間・入場料・休館日・授与品・行事日程は変更される場合があります。訪問前に各施設の公式案内で最新情報をご確認ください。
※ 御朱印・御城印の授与方法(直書き/書置き)、受付時間、頒布品は日によって変わる場合があるため、当日の掲示・公式発信で確認することを推奨します。
※ 伝承に基づく記述は「伝」として表記しています。史料が乏しい事項については、現地の案内や寺社の説明を優先してください。
関連ページ
岐阜城・岐阜公園の詳細ガイド、その他の織田信長関連スポットは以下をご覧ください。

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