郡山城は、遺構が“残っていない場所”ほど面白い。なぜなら、石碑が示す一点から、門の位置や枡形の構えが立ち上がるからです。
このVol.1では、柳御門跡・頬當門跡・五軒屋敷跡から鉄御門跡、追手周辺の櫓までを、現地写真+360°パノラマで可視化。画面の中でぐるっと見回せるから、初めてでも迷わず「城の輪郭」をつかめます。
スポット紹介
以下は、郡山城の石碑マップです。ブルーのスポットは、Vol.1で、オレンジは、Vol.2で紹介しています。
柳御門跡

五軒屋敷前の道の南側に配される門として、絵図資料に「柳御門」の記載があります。
また城郭入口の「枡形」には2つの門があり、一の門が柳御門、二の門が頬当門であったとの説があります。
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頬當門跡

柳御門の枡形に設けられた二の門であったと説明されています。
名称については、枡形全体を兜になぞらえ、二の門が「頬当」のような機能を持つことになぞらえた、という説があります。
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五軒屋敷跡

享保9年(1724)に柳澤氏が甲府から郡山へ転封したのち、一族家老5家の屋敷が置かれたことから「五軒屋敷」と呼ばれた、と説があります。
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桜御門跡

県の紹介ページで、三の丸五軒屋敷の北側に桜門の跡が残る旨が記されています。
また絵図資料では、五軒屋敷前の道の南北に「柳御門(南)」「桜御門(北)」を配する、と説明されています。
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鉄御門跡

絵図資料の解説で、本丸・二の丸への出入り口に当たる門が鉄御門である旨が説明されています。
また市の保存活用計画資料には、鉄門へは「五軒屋敷堀」と「蓮堀(蓮池堀)」を画する陸橋を通じて進入する、という趣旨の記述があります。
さらに市の公開史料(歴史資料ページ)では、鉄門・桜門・西門等を伏見城から移した説があります。
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郡山城ガイド:鉄御門跡
東隅櫓

史跡案内図では「東隅櫓」として示され、追手門付近に位置づけられています。
また同案内図の説明で、追手門の復元に続き、追手東隅櫓・追手向櫓・多聞櫓などが昭和62年(1987)にかけて再建された旨が記されています。
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郡山城ガイド:東隅櫓
追手向櫓

現地案内板(市教育委員会名義)の引用を含む公開記事により、追手向櫓は追手門(梅林門)を守るための二重櫓で、本多氏時代は「大手先艮角櫓」と呼ばれ、柳澤氏入城後に「追手向櫓」と呼ばれるようになった、と説明されています。
同資料では、明治6年(1873)に取り払われ、昭和62年(1987)に復元された旨も示されています。
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郡山城ガイド:追手向櫓
久護門跡

久護門はもともと「冠木門」で、昭和40年代頃から「久護門」と呼ばれるようになった、という経緯が説明されています。
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月見櫓趾

市の保存活用計画資料に、曲輪の各辺の施設として月見櫓が挙げられています。
現在位置は史跡案内図で「月見櫓跡」として示されています。
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埋門跡

史跡案内図で「埋門跡」として位置が示されています。
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御厩向櫓趾

市の保存活用計画資料に、曲輪の各辺の施設として厩向櫓が挙げられています。
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竹林門跡

市の保存活用計画資料に、曲輪の各辺の施設として竹林門が挙げられています。
現在位置は史跡案内図で「竹林門跡」として示されています。
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竹林橋跡

史跡案内図で「竹林橋跡」として位置が示されています。
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坤櫓跡

市の保存活用計画資料に、曲輪の各辺の施設として坤櫓が挙げられています。
史跡案内図でも「坤櫓跡」として示され、英訳で「Hitsujisaru Tower Site」とされています。
現在は、スズメバチの危険性があるとのことで付近には近寄れません。
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表門跡
奈良県の絵図資料解説に、二の丸御殿を中心に建物名称を記し、その中に「をもて門」が含まれる、と説明されています。
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