
『SHOGUN 将軍』で戸田鞠子という人物に心を掴まれたなら、その「モデル」とされる細川ガラシャ(明智玉)の足跡を、いちど“土地の温度”で確かめてみてほしい。史料の行間にいる彼女は、実際の地形と水と静けさの中に、驚くほど具体的に立ち上がってきます。
私自身、京丹後の味土野(みどの)でレンズを構えた瞬間に、それを痛感しました。丹後半島の内陸へ入ると、潮の匂いがふっと遠のき、山あいの集落が現れます。派手な遺構が続くわけではありません。でも、滝へ向かう細い道、手のひらに残る山水の冷たさ、尾根端から谷を挟んで見える“守りの距離”——こうした身体感覚が、玉が「逆臣の娘」として過ごした時間を、嘘のない輪郭で近づけてくれます。
このページでは、味土野の【ガラシャ大滝/化粧水場/女城跡・男城跡】から、宮津の【ガラシャ像「祈り」/太鼓門/宮津城跡/盛林寺】、そして舞鶴の【田辺城跡】へと、私が実際に歩いて撮影した順にまとめました。ポイントは“観光名所の寄せ集め”にしないこと。ガラシャの人生が揺れた順番に並べると、同じ風景が「ただの景色」から「物語の現場」に変わります。
天橋立の入口として知られる宮津も、港町の舞鶴も、ガラシャの視点で歩くと別の町になります。さあ、地図のピンではなく、あなたの足で——ガラシャの最後の地を辿りましょう。
味土野エリア
丹後半島の内陸に入ると、海の気配がふっと遠のき、山あいの集落・味土野(みどの)が現れます。ここは、本能寺の変(1582)ののち、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が身を隠して暮らしたと伝わる土地。派手な史跡が並ぶというより、地形と水、そして静けさの中に物語が残っています。
まず歩きたいのは、宇川の支流に落ちる「味土野ガラシャ大滝」。黒い玄武岩を割るように落ちる滝は、このエリアでいちばん“自然の迫力”を感じられる場所です。そこから「ガラシャの化粧水場」へ向かえば、山の水が生活の中心だったことが実感できます。華やかな逸話よりも、手を洗い、顔を整える――そんな日常の感覚が、かえって玉の滞在を身近にしてくれます。
味土野の核になるのが「女城跡」と「男城跡」。女城跡は小さな平坦地をもつ砦のような屋敷跡で、昭和11年(1936)建立の「細川忠興夫人隠棲地碑」が伝承を静かに支えています。谷向こうの男城跡は、見張りの拠点として語られる場所。尾根端の立地に立つと、守られていたことと、閉ざされていたことが同時に伝わってきます。
味土野は「見どころが点在する観光地」というより、短い距離の散策で、自然と歴史の距離感を確かめていく場所。滝の水音、手のひらに残る冷たい水、丘の上の小さな平坦地——それらを順にたどることで、ガラシャの“味土野の時間”が少しだけ具体的になります。
ガラシャ大滝
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆☆☆
体験的価値:☆☆

丹後半島の山深い集落・味土野。戦国の激動のさなか、明智光秀の娘「玉(のちの細川ガラシャ)」がこの地で人目を避けて暮らした――そんな伝承が今も息づきます。集落から東へ約500m、宇川の支流にかかるのが「味土野ガラシャ大滝」。玄武岩の黒い岩肌を、落差約40mの直瀑がまっすぐに駆け落ち、谷にこだまする水音は、祈りの言葉のように澄んで響きます。2019年には展望所が整備され、深い新緑や燃える紅葉に包まれながら“幽閉の地”の自然が生む迫力を、間近に感じられるようになりました。



| 築造年 | 自然形成(形成時期不詳) |
|---|---|
| 築造者 | 自然(宇川支流の浸食作用) |
| 構造・特徴 | 全長約51m・落差約40m/直瀑(直流)/玄武岩上を流下 |
| 改修・復元歴 | 2019年春:展望所整備(「味土野ガラシャ大滝」として案内強化) |
| 現存状況 | 現存(通年見学可 ※積雪期は周辺路面状況に注意) |
| 消滅・損壊 | 特記なし |
| 文化財指定 | 京丹後市指定文化財(名勝)「味土野大滝」〔2023年2月1日指定〕 |
| 備考 | 標高約304m地点/市内最大規模の滝とされ、夏季でも流れが枯れにくい |
🗺 住所:〒627-0102 京都府京丹後市弥栄町味土野
🚶 アクセス
京都丹後鉄道「宮津駅」から運転で60分(約36.2km)
滝の看板から120m程進んだところに駐車場があります。
※公共交通機関はありませんのでレンタカーやタクシーとなります。
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- 展望所からの直瀑ビュー:谷を割るように一直線で落ちる白い水筋を、木々のフレーム越しに鑑賞。写真映えも抜群です。
- 玄武岩の岩肌と水のコントラスト:黒い岩壁に当たって砕ける水しぶきが、滝の迫力をいっそう際立てます。
- 季節限定の楽しみ方:春〜夏は新緑、秋は紅葉が滝を包み込み、同じ場所でも表情が一変します。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:昭和11年(1936)に「細川忠興夫人隠棲の地」碑の除幕を記念した絵葉書にも、味土野の滝の写真が残っています。
- 知る人ぞ知る情報:駐車場から少し下り、さらに階段を降りた先が“特等席”。谷の空気がひんやりと変わるのを体で感じられます。
- 著名人との関係:細川ガラシャ(玉)が味土野で隠棲したという伝承と結びつき、近年は「味土野ガラシャ大滝」の名で展望所整備などが進みました。
ガラシャの化粧水場
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

味土野の静かな山里で語り継がれる「化粧池」の伝承。その近くの水を引いて整えられたのが「ガラシャの化粧水場」です。本能寺の変ののち、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が人目を避けて暮らしたと伝わる味土野。華やかな京の暮らしから遠く離れ、山の季節に身を委ねた彼女にとって、冷たい水は身だしなみ以上に、心を整える“儀式”だったのかもしれません。水場は飾り気のない素朴さが魅力。だからこそ、玉がここで過ごした時間の質感が、ふっと手のひらに戻ってくるように感じられます。

| 築造年 | 不詳(現地の水場としては近年整備) |
|---|---|
| 築造者 | 不詳(地域の案内施設として整備) |
| 構造・特徴 | 「化粧池」伝承地周辺の水を汲める水場(超軟水の原水) |
| 改修・復元歴 | 近年:水場として案内整備(詳細不詳) |
| 現存状況 | 現存(現地で利用可能) |
| 消滅・損壊 | 特記なし |
| 文化財指定 | なし |
| 備考 | 滅菌を行っていない原水のため、生水のままでの飲用は控える(現地表示に従う) |
🗺 住所:〒627-0102 京都府京丹後市弥栄町味土野
🚶 アクセス
駐車場は無いので、前のスポット「ガラシャ大滝」から徒歩で10分(約550m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約20分
📍 見どころ
- “化粧池”伝承をたどる水場:派手な演出はなく、山の水そのものに物語を預けたような素朴さが魅力です。
- 水の質感を手で確かめる:汲んだ瞬間にわかるやわらかな触感。旅の途中で、気持ちを切り替える小さな区切りになります。
- 季節限定の楽しみ方:夏は水音と冷気が心地よく、冬は雪に包まれた味土野の静けさが“隠棲”の空気を濃くします。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:伝承に登場する「化粧池」は、往時の姿をそのまま見られる場所ではなく、記憶が土地に残るタイプの史跡です。
- 知る人ぞ知る情報:滅菌を行っていない原水のため、生水での飲用は避けるのがルール。利用は必ず現地表示に従ってください。
- 著名人との関係:細川ガラシャ(玉)が味土野で身を潜めた日々を、最も日常に近いかたちで想像できるのが「水」。豪華な遺構よりも、彼女の“息づかい”に近づけます。
味土野女城跡
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆


山あいの味土野で、風が一段と静まる小さな丘――そこが「女城跡」です。ここは、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が、本能寺の変(1582)後に天正10〜12年(1582〜1584)頃まで幽閉されたと伝わる場所。城といっても石垣を誇る要塞ではなく、わずかな平坦地をもつ“砦のような屋敷跡”で、地形そのものが防壁の役目を果たしました。昭和11年(1936)に建立された「細川忠興夫人隠棲地碑」が、ここが単なる山里ではなく、ひとりの女性の運命が折り重なった舞台であることを静かに告げています。谷向こうの男城跡に警護の武士が控えたという伝承と合わせて歩くと、玉の「守られていた時間」と「閉ざされていた時間」の両方が、山の空気の中に立ち上がってくるはずです。




| 築造年 | 不詳(戦国期の屋敷・砦跡)/玉の幽閉:天正10〜12年(1582〜1584)頃 |
|---|---|
| 築造者 | 不詳(細川氏の管理下で整えられたと伝承) |
| 構造・特徴 | 小丘上の平坦地(約20㎡規模とされる)/石垣より地形を活かした簡素な砦状の遺構 |
| 改修・復元歴 | 昭和11年(1936):「細川忠興夫人隠棲地碑」建立/案内板などの周辺整備(時期不詳) |
| 現存状況 | 遺構は地形として残存(建物は現存せず)/記念碑が現地に立つ |
| 消滅・損壊 | 建造物は失われ、往時をしのぶ中心は碑と地形遺構 |
| 文化財指定 | 京丹後市指定文化財(史跡)「細川ガラシャ夫人隠棲地(女城跡)」 |
| 備考 | 近くに「ガラシャの古井戸」伝承地あり(昭和2年の丹後大震災で枯渇と伝わる) |
🗺 住所:〒627-0102 京都府京丹後市弥栄町須川(味土野)
🚶 アクセス
前のスポット「ガラシャの化粧水場」から徒歩3分(約200km)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約1時間
📍 見どころ
- 「細川忠興夫人隠棲地碑」:言葉少なに史実と伝承をつなぐランドマーク。まず碑の前に立つと、場所の重みがすっと入ってきます。
- “城というより砦”の地形:小さな平坦地と周囲の起伏がつくる守りの形。豪壮さではなく、隠れ住むための現実味が胸に残ります。
- 季節限定の楽しみ方:新緑のころは谷風が涼しく、秋は山の色が深まり、静けさがいっそう際立ちます。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:味土野への隠棲伝承は、後世の史書で明らかにされ、さらに時代を経て細川家が公式に認めたとされています。
- 知る人ぞ知る情報:女城跡は広大な城郭ではなく、ほんのわずかな平坦地が核。だからこそ、当時の「身を隠す」切実さがリアルに想像できます。
- 著名人との関係:玉が後にキリシタン名「ガラシャ」を得る素地を、この幽閉期の体験に見いだす語りもあり、侍女・清原マリアの存在と合わせて語られます。
味土野男城跡
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆
体験的価値:☆

女城跡に幽閉された玉(のちの細川ガラシャ)を、谷向こうから“見張りの目”で守った――それが味土野男城跡です。天正10~12年(1582~1584)、逆臣の娘となった玉は深山の味土野へ移され、静かな祈りの時間を重ねました。その日々のすぐ隣で、家臣たちは谷あいの道と女城を一望できる尾根端に詰め、万一に備えて見張りを続けたと伝わります。城というより砦に近い素朴な構えでも、尾根を断ち切る堀切や段状の平坦地(曲輪)が残り、護衛の緊張感だけが今も地形に刻まれています。
| 築造年 | 不詳(天正10~12年=1582~1584年頃に警護拠点として伝承) |
|---|---|
| 築造者 | 不詳(細川忠興方の家臣が警護のため詰めたとされる) |
| 構造・特徴 | 尾根先端を堀切で遮断/段状の曲輪(平坦地)/女城を見下ろす見張りの立地 |
| 改修・復元歴 | 復元なし(散策路は「道は整備されていない」と案内される) |
| 現存状況 | 地形遺構(堀切・曲輪など)が残る/建物は現存せず |
| 消滅・損壊 | 建物は失われ山林化(雨後は滑りやすい箇所あり) |
| 文化財指定 | 未指定 |
| 備考 | 谷越しに女城跡を望む位置関係が、護衛の視点を体感させる |
🗺 住所:京都府京丹後市弥栄町須川(味土野)
🚶 アクセス
前のスポット「味土野女城跡」から徒歩15分(約900m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約5分
じっくり観光するなら:約20分
📍 見どころ
- 見張りの尾根端:谷あいの道と女城跡を一望できる場所。家臣がここから警護したという伝承が、景色の切り取り方で腑に落ちます。
- 堀切と段状の平坦地:尾根を断ち切る堀切や段状の曲輪が残り、砦の輪郭を“地形”から読み取れます。
- 季節限定の楽しみ方:新緑(5〜6月)と紅葉(11月)は山道の表情が一変。足元は滑りやすいのでトレッキングシューズ推奨です。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:“城”と呼ばれていても、実態は幽閉生活を支える警護の砦として語り継がれてきました。
- 知る人ぞ知る情報:府道655号線ができる前の尾根伝いの古道「味土野のガラシャ古道」は男城跡を通るとされ、上級者向けのルートです。
- 著名人との関係:細川ガラシャ(玉)が女城で過ごした天正10~12年、家臣が男城で見張りを続けた――谷を隔てた“守りの距離”が、この地の物語です。
宮津エリア
天橋立の玄関口として知られる宮津は、海の景色だけで終わらない町です。大手川が宮津湾へ注ぐあたりには、かつて細川藤孝(幽斎)が築いた宮津城があり、城下町としての骨格が今も道筋や川の位置関係に残っています。歩く距離が短くても、歴史の断片が点々と現れるのが宮津エリアの面白さです。
入口としてちょうどいいのが、桜山の「大窪山城跡(大久保山城跡)」。神社の奥へ少し入るだけで、町を見下ろす“見張り台”の感覚がつかめます。ここには、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が宮津にいた時期の伝承も重なり、味土野へ移る前の「宮津の時間」を想像しやすい場所です。
町なかに戻ったら、大手川沿いのガラシャ像「祈り」へ。平成の建立ながら、像が宮津城の方向を見やる構図がよくできていて、城下町の現在と過去が自然につながります。すぐ近くの太鼓門(馬場先御門)は、城が失われたあとも移築で残った“持ち運べる遺構”。門の前に立つと、城下の出入り口が町の暮らしと地続きだったことが実感できます。
そして、宮津城跡は「何もないのに城を感じる」場所。復元城壁(大手川沿い)や街割りを頼りに歩くと、海城としての立地の意味が少しずつ見えてきます。最後に時間があれば、少し高台の盛林寺へ。光秀の首塚伝承を含め、宮津が“城の町”であると同時に“祈りの町”でもあったことを、静かに教えてくれます。
宮津エリアは、名所を次々見るというより、川沿いと城下を歩きながら「場所のつながり」を確かめる旅向き。景色と歴史が無理なく重なるので、ガラシャの物語も自然に頭に入ってきます。
大窪山城跡(大久保山城跡)
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆
体験的価値:☆


宮津の町並みを見下ろす桜山の小高い丘——いまは天満宮や神社の気配に包まれていますが、ここは「大窪(大久保)山城」と呼ばれた城の名残が伝わる場所です。天正年間、細川忠興に嫁いだ明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が宮津に入った頃、新たな城が整うまでこのあたりの城で暮らしたのではないか、と語り継がれてきました。さらに翌年には、光秀や細川藤孝・忠興らの茶の湯の席が設けられ、玉と父・光秀が“最後に会った場所”になったとも——。味土野の深い山里へと身を隠す前、玉がまだ「ガラシャ」になる前の、静かな“宮津の時間”を想像させてくれる丘です。

| 築造年 | 中世(築城年不詳) |
|---|---|
| 築造者 | 不明(伝:一色氏の重臣・小倉播磨守 ほか) |
| 構造・特徴 | 標高約52mの丘城とされ、曲輪・土塁など土の遺構が中心(現状は改変が大きい) |
| 改修・復元歴 | 安政3年(1856)に島崎台場(砲台)築造の土砂搬出で桜山一帯の地形が大きく改変された |
| 現存状況 | 遺構は断片的。周辺は社寺・施設・園地として利用され、散策路から眺望を楽しめる |
| 消滅・損壊 | 土取り・造成・整備により遺構の多くが失われた |
| 文化財指定 | 未指定(周辺は歴史散策エリアとして紹介されることが多い) |
| 備考 | 本荘神社の奥手側から城山へ。宮津市街を見渡す“見張り台”の感覚が残る |
🗺 住所:京都府宮津市万町(桜山天満宮・本荘神社奥 周辺)
🚶 アクセス
京都丹後鉄道「宮津駅」から徒歩で13分(約950m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- 本荘神社奥の城山散策:社の気配を背に、かつての城山へ。遺構は控えめでも「丘城」の立地が体感できます。
- 宮津市街を望む眺望ポイント:城が“見張る場所”だった理由がストンと腹落ちする、街の見下ろしが魅力。
- 季節限定の楽しみ方:春は“桜山”らしく桜、秋は色づく木々が散策を心地よくしてくれます。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:幕末、黒船来航後の海防強化で島崎台場を築く際、桜山から土砂が運び出され、地形が大きく変わりました。
- 知る人ぞ知る情報:城跡は“神社の奥”にひっそり。まずは桜山天満宮・本荘神社周辺を目印にすると迷いにくいです。
- 著名人との関係:玉(のちの細川ガラシャ)が宮津で暮らした場所の一つとされ、父・明智光秀と最後に会った場面が語られます。
宮津 細川ガラシャ像「祈り」
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆☆☆
体験的価値:☆



大手川のほとり、カトリック宮津教会の隣に立つのが、細川ガラシャ夫人像「祈り」。細川忠興・ガラシャ夫人生誕450周年を記念して、平成25年11月に建立されました。川風に衣の裾がふわりと揺れるような造形で、像は自らが暮らした宮津の城(宮津城)を見やりながら、細川家と宮津の人々の幸せが末永く続くことを願う“玉(のちのガラシャ)”の姿を「祈り」のテーマで表現しています。彫刻制作は山本眞輔氏(日本芸術院会員)、銘板の揮毫は細川家18代当主・細川護熙氏。信仰の名「ガラシャ(恩寵)」を得た彼女の生涯を思うと、この場所で静かに手を合わせたくなるはずです。


| 築造年 | 2013年11月(平成25年11月) |
|---|---|
| 築造者 | 細川忠興公・ガラシャ夫人生誕450年記念事業(関係団体による記念事業) |
| 構造・特徴 | 銅像(ブロンズ像)。大手川沿いの広場中央に立ち、宮津城を望む構図 |
| 改修・復元歴 | 特記なし |
| 現存状況 | 現地で公開(屋外) |
| 消滅・損壊 | 特記なし |
| 文化財指定 | なし |
| 備考 | 彫刻:山本眞輔/銘板揮毫:細川護熙 |
🗺 住所:〒626-8501 京都府宮津市字柳縄手344(大手川ふれあい広場)
🚶 アクセス
前のスポット「大窪山城跡(大久保山城跡)」から徒歩5分(約0.33km)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約0.5時間
📍 見どころ
- “宮津城を望む”立ち位置:像は大手川の畔から宮津城を眺める構図。城下町の「いま」と、ガラシャが過ごした時間が重なります。
- 銘板の揮毫(細川護熙):細川家18代当主による揮毫は、この像が“家の記憶”として建てられたことを静かに物語ります。
- 季節限定の楽しみ方:春は大手川沿いで桜並木が整備され、散策がいっそう気持ちいい季節に。像と川、桜で写真も映えます。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:この像は“悲劇”だけでなく、宮津での暮らしや人々の幸せを願う姿に焦点を当て、「祈り」をテーマにした点が特徴です。
- 知る人ぞ知る情報:像が立つ「大手川ふれあい広場」は川辺デッキやベンチが整備され、散歩の途中に立ち寄れる“休憩スポット”として一般開放も進められてきました。
- 著名人との関係:彫刻は日本芸術院会員・山本眞輔氏、銘板揮毫は元首相でもある細川護熙氏。作品そのものに、現代の“細川家のまなざし”が刻まれています。
宮津城 太鼓門(馬場先御門)
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆

宮津のまちなかを歩いていると、ふいに時代の層が“門”のかたちで立ち上がってきます。それが、宮津城の「太鼓門(馬場先御門)」。城そのものは明治期の廃城で姿を失いましたが、この門は移築保存され、いまも人の往来を静かに見守っています。
細川ガラシャ(明智玉)が宮津の城下で若き日を過ごしたと伝わるこの町で、当時の空気を最も具体的に想像させてくれるのが、まさにこうした“出入口”の遺構。板扉の重み、瓦屋根の反り、袖塀の連なり──城下の規律と緊張感、そして日常が交差した境界が、現代の生活圏のなかに溶け込みながら残っています。
| 築造年 | 近世(江戸時代・年不詳/少なくとも19世紀の絵図に門の存在が確認される) |
|---|---|
| 築造者 | 不詳(宮津城の馬場先御門の一部として築造) |
| 構造・特徴 | 瓦葺の門と板扉、袖塀が一体となる城門遺構(移築保存) |
| 改修・復元歴 | 廃城後に移築保存。2010年に移設・補修を経て現在地で公開 |
| 現存状況 | 現存(移築保存) |
| 消滅・損壊 | 宮津城は廃城により大半が消滅。門は移築により保存 |
| 文化財指定 | 未指定 |
| 備考 | 「馬場先御門」とも呼ばれる。現地では生活空間に近いため見学マナーに配慮を |
🗺 住所:京都府宮津市外側2508(宮津市立宮津小学校 正門付近)
🚶 アクセス
前のスポット「宮津 細川ガラシャ像「祈り」」から徒歩3分(約230m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- 門の“現役感”:移築保存でありながら、町の日常と地続きで息づく城門。近づくほど木部の迫力が伝わります。
- 城下の境界を想像する:ここを起点に、宮津城跡や大手川沿いの景観へ視線を伸ばすと、城と町の関係が立体的に見えてきます。
- 季節限定の楽しみ方:春は大手川周辺の桜散策とセットで。柔らかな光の時間帯は門の陰影が美しく映えます。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:城が失われた後も、門は移築されながら残され、町の記憶をつなぐ“持ち運べる遺構”として生き延びました。
- 知る人ぞ知る情報:太鼓門だけで満足せず、周辺を少し歩いて白壁や石垣の復元区間も見ると、城のスケール感が掴みやすくなります。
- 著名人との関係:細川家が治めた宮津の城下は、のちに「細川ガラシャ」と呼ばれる明智玉の若き日とも重なる舞台。門はその城下の“入口”の記憶を今に残します。
宮津城跡
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆
体験的価値:☆


大手川の流れが宮津湾へほどけていく、その河口近く。いまは城の天守も櫓も見当たらないのに、歩いていると「ここに城があった」と身体が納得してしまう瞬間があります。宮津城は天正8年(1580)、織田信長から丹後を与えられた細川藤孝(幽斎)が、丹後支配の拠点として築いた“海城”でした。湾岸に築くという選択そのものが戦略で、のちに各地で花開く本格的な海城の先駆けとも位置づけられます。
そして、ここが「細川ガラシャの物語」と強く結びつくのは、築城の背後に彼女の“ふたつの家”が交差しているからです。城づくりには、ガラシャ(玉子)の父・明智光秀が深く関わったことを示す資料や言い伝えが残り、信長は藤孝に「光秀と相談して堅固に造れ」と指示した書状も伝わっています。父の名が築城の現場に刻まれ、夫・細川忠興(藤孝の子)の家が丹後の政治を動かした場所――宮津城跡は、ガラシャの「生」と「最期」を結ぶ“地図の要”として、静かに立ち上がってくるのです。
| 築造年 | 天正8年(1580)築城開始 |
|---|---|
| 築造者 | 細川藤孝(幽斎)・細川忠興(※築城助言に明智光秀が関与したことをうかがわせる資料が残る) |
| 構造・特徴 | 宮津湾岸に築かれた近世平城(海城)。本丸・二の丸・三の丸などから成る縄張りで、大手川右岸の沖積平野に立地 |
| 改修・復元歴 | 慶長5年(1600)に藤孝が自焼と伝承→京極高広らにより再建、寛永2年(1625)完成と伝承。近年は城壁復元・太鼓門移築が2010年3月に完成(大手川改修と連動) |
| 現存状況 | 城跡の遺構は地表面ではほとんど確認できない一方、復元城壁(大手川沿い)などで往時の輪郭を体感できる |
| 消滅・損壊 | 廃城後の市街地化などにより、城の姿は地上から見えにくくなったとされる |
| 文化財指定 | 未指定(京都府教育委員会の遺跡情報として掲載) |
| 備考 | ガラシャの父・明智光秀、夫・細川忠興、義父・藤孝――三者の名が同じ城の来歴に同居する「交差点」 |
🗺 住所:京都府宮津市鶴賀(大手川右岸周辺)
🚶 アクセス
前のスポット「宮津城 太鼓門(馬場先御門)」から徒歩7分(約500m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約5分
じっくり観光するなら:約10分
📍 見どころ
- 大手川沿いの復元城壁(しらかべの道周辺):水面に沿って続く白壁が、海城だった宮津城の“外縁”を散歩の速度で教えてくれます。
- 城下町の骨格が残る街割り:本丸・二の丸・三の丸を軸にした近世の輪郭は、道の曲がりや川の位置関係にさりげなく残っています。
- 季節限定の楽しみ方:春は大手川周辺の桜と白壁のコントラストが映え、写真散歩がいちばん楽しい季節です。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:関ヶ原の前哨戦とされる田辺城籠城に際し、藤孝は宮津城を自ら焼いた――と伝えられています。
- 知る人ぞ知る情報:地上では遺構が見えにくい一方、発掘調査や絵図の蓄積で縄張りの実態解明が進められています。
- 著名人との関係:築城の背景に、ガラシャの父・明智光秀が深く関わったことをうかがわせる資料が残る――“父の名”が城の設計思想に触れている稀有な城です。
盛林寺
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

宮津の町を少し離れ、高台へ。石段を上りきった先に現れるのが、曹洞宗・大圓山 盛林寺です。天正5年(1577)、上宮津城の城主で一色家重臣だった小倉播磨守の菩提寺として創建され、のちに二度移転して貞享2年(1685)に現在地へ。戦国の波に揺れた丹後で、祈りの場所だけが“居場所”を変えながらも受け継がれてきました。ここがガラシャと結びつくのは、父・明智光秀の「首塚」が境内裏山に残るから。光秀が討たれたのち、その首が宮津にいた娘のもとへ届けられ、盛林寺で葬られた――そんな伝承が語り継がれています。宝篋印塔の基礎には法名「条鉄光秀居士」、そして「天正十年六月十三日」の刻銘。史実と伝承の境目に立つ一文字一文字が、ガラシャの“祈りの影”を静かに浮かび上がらせます。さらに、学問を求め人々が集ったという開山・趙室宗栢和尚の存在や、巨石の「三界唯心塔婆」、山から引いた水が流れる庭園まで——盛林寺は、物語を読むように歩ける寺です。



| 築造年 | 天正5年(1577)創建/貞享2年(1685)に現在地へ移転 |
|---|---|
| 築造者 | 小倉播磨守(上宮津城主・一色家重臣)の菩提寺として創建/開山:趙室宗栢和尚 |
| 構造・特徴 | 高台の伽藍、境内に三界唯心塔婆(巨石の塔婆)、裏山に明智光秀首塚(宝篋印塔)、山水を引く庭園 |
| 改修・復元歴 | 創建地(宮津大久保谷)から二度移転し、貞享2年(1685)に現地へ |
| 現存状況 | 本堂・山門・庭園など現存(首塚も現存) |
| 消滅・損壊 | 創建地(宮津大久保谷)の旧伽藍は現地に残らず(移転による) |
| 文化財指定 | 宮津市指定文化財:絹本著色 即安梅心童子像 |
| 備考 | 光秀首塚は「現在地へ移送された可能性」が指摘される/ルイス・フロイス『日本史』の記述と重なる可能性も語られている |
🗺 住所:京都府宮津市喜多696
🚶 アクセス
前のスポット「宮津城跡」から電車、徒歩22分(約3.9km)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約25分
じっくり観光するなら:約1時間
📍 見どころ
- 明智光秀の首塚(宝篋印塔):基礎に刻まれた法名と日付が、ガラシャと父をめぐる伝承を“確かな手触り”に変えてくれます。
- 三界唯心塔婆と石段の伽藍:開山が建立したと伝わる重さ約2トンの巨石塔婆。石段を上る体験そのものが、境内への導入として印象的です。
- 季節限定の楽しみ方:新緑の季節は庭園の水音がいっそう澄み、秋は境内の木々が色づいて“静かな絶景”になります。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:盛林寺は創建後に二度移転し、現在地へ移ったのは貞享2年(1685)。首塚も創建地から運ばれた可能性が語られています。
- 知る人ぞ知る情報:学問を求めて様々な身分の人が集ったという刻銘が、三界唯心塔婆に残るとされています。境内でぜひ探してみてください。
- 著名人との関係:光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)が“丹後の城近くの禅寺”に通ったというフロイス『日本史』の記述があり、盛林寺と重なる可能性が語られています。
西舞鶴エリア
西舞鶴は、港町のイメージが強い舞鶴の中でも、城下町としての“芯”がわかりやすいエリアです。JR西舞鶴駅から歩いてすぐ、田辺城跡(舞鶴公園)に入ると、白壁の城門や石垣がまとまったスケールで残り、短時間でも城の輪郭をつかめます。観光の導線がシンプルなのも、西舞鶴らしいところです。
この場所が細川ガラシャの物語に深く関わるのは、関ヶ原の前哨戦として知られる「田辺城籠城戦」の舞台だから。慶長5年(1600)、ガラシャが大坂で命を落としたのと同じ年に、義父・細川藤孝(幽斎)が城に入り、西軍の大軍を引き受けました。戦いの焦点は城の奪い合いだけでなく、幽斎が担っていた和歌・古典の伝承(古今伝授)とも絡み、やがて朝廷の仲介で包囲が解かれる――。武と文化が同じ城でせめぎ合った、少し珍しいタイプの城跡です。
公園内は、田辺城資料館(復興城門)→彰古館(復興二層櫓)→石垣や天守台周辺、という流れで歩くと理解しやすく、初めてでも迷いません。春は桜の名所としても知られ、城門や白壁と花の取り合わせがきれい。歴史を追う人も、散歩を楽しむ人も、同じルートで気持ちよく歩けるのが西舞鶴エリアの良さです。
田辺城址 (舞鶴市)
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆☆
体験的価値:☆☆☆





舞鶴の町なかに、白壁と石垣が凛と立ち上がる場所があります。田辺城は、細川ガラシャ(明智玉)の“最後の時代”を語るうえで外せない舞台です。ガラシャが大坂で命を落とした慶長5年(1600)、夫・細川忠興が東軍につく一方、隠居の身だった義父・細川藤孝(幽斎)は自ら城に入り、西軍の大軍を迎え撃ちました。戦のうねりの中で、彼が守ろうとしたのは城の縄張りだけではありません。和歌と古典の伝承者でもあった幽斎の存在は、文化そのものの継承と重なり、やがて朝廷の仲介で包囲が解かれる――。石垣の端に立てば、武と教養がせめぎ合った“関ヶ原前夜”の緊張が、今も微かに風に混じって感じられます。


| 築造年 | 天正9年(1581)頃(築城は天正10年〈1582〉とも伝わる) |
|---|---|
| 築造者 | 細川藤孝(幽斎/長岡藤孝) |
| 構造・特徴 | 輪郭式の平城/石垣・堀を備え、城下町支配の中心となった |
| 改修・復元歴 | 江戸期に京極氏・牧野氏が改修/1940年に二層櫓「彰古館」復興/1992年に城門を模擬復興し田辺城資料館として活用 |
| 現存状況 | 石垣・天守台石塁などの遺構が一部残存(舞鶴公園として整備) |
| 消滅・損壊 | 明治7年(1874)に城跡の大半が取り壊し、堀は埋め立てられた |
| 文化財指定 | 舞鶴市指定史跡(田辺城跡) |
| 備考 | 関ヶ原の前哨戦「田辺城籠城戦」の舞台。現在は田辺城資料館で城と城下町の歴史を紹介 |
🗺 住所:〒624-0853 京都府舞鶴市字南田辺15-22
🚶 アクセス
JR西舞鶴駅から徒歩7分(約500m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約30分
じっくり観光するなら:約1.5時間
📍 見どころ
- 田辺城資料館(復興城門):籠城戦や細川幽斎を軸に、田辺の城下町史をコンパクトに追える“入口”。
- 彰古館(復興二層櫓)と石垣:白い櫓と石垣の陰影が写真映え。往時の輪郭を想像しやすいポイントです。
- 季節限定の楽しみ方:春は桜の名所。開花期にはぼんぼりが灯り、城門と夜桜の取り合わせが旅情を深めます。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:籠城戦のさなか、幽斎が「古今伝授」の重みを背負い、朝廷の仲介で攻撃が止むという異例の展開へ。戦場に“文化”が介入した象徴的事件です。
- 知る人ぞ知る情報:田辺城資料館では御城印も頒布。旅の記念が“紙の戦利品”として残せます。
- 著名人との関係:細川ガラシャの義父・細川幽斎が、この城で関ヶ原前夜を耐え抜いたことが、彼女の最期と一本の線でつながります。


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