
来年の大河ドラマでは豊臣兄弟が描かれると聞き、
「その前に、秀長ゆかりの郡山を静かに歩いてみよう」と思い立ちました。
今回は郡山城そのものではなく、
360度写真を含めた“城の外側”に点在する秀長ゆかりの神社・寺院・史跡をたどる散策編です。
本ブログもそのルートに沿ってまとめています。
まず降り立ったのは 近鉄郡山駅。
観光地らしい派手さはなく、生活の音がそのまま流れている駅前でした。
11月らしい乾いた風が頬にあたり、車の音が淡々と通り過ぎていく。
とても普通の町の午後—でも、こういう静かな町で歴史を歩くのも悪くありません。
■パノラマ写真
最初の目的地は 郡山八幡神社。
ここで早速、今回の散策で一番最初の“落とし穴”にはまりました。
Google Map で「最短ルート」を選んだところ、
私は 表参道ではなく、裏側の脇道へ案内されてしまったのです。
道は合っているのに、神社の門がいきなり現れてしまい、
「あれ? なんだか想像していた入口と違う…」という違和感だけが残る結果に。
門の近くに行くと奥に参道と鳥居が現れます。
もちろん到着できないわけではありませんが、
せっかく八幡神社に参るなら、
落ち着いて表参道から入ったほうが絶対に良い
――この失敗は、読者の方にも共有しておきたいポイントです。
以下が少し大回りになりますが駅からのルートです。
いきなり門に到着してしまった私は、
少し戻って、改めて鳥居、表参道側からはいりました。
そうしてようやく、今回の旅が静かにスタートしたのです。
- セクション
- 郡山八幡神社 ― 郡山城下の守護として重んじられた神社
- 源九郎稲荷神社 ― 義経の名が残る稲荷社と、秀長が守護とした場所
- 郡山城外堀緑地 ― 秀長が整えた外堀の“かたち”を歩いて確かめる
- 箱本館「紺屋」と紺屋川 ― 春岳院へ向かう途中に現れる、郡山らしい景観
- 本家・菊屋本店 ― 御城之口餅と、戦国の茶会につながる老舗
- 春岳院 ― 豊臣秀長の菩提寺として静かに佇む場所
- 永慶寺 ― 郡山城の南門を移設した、城外で最も重要な“実物史跡”
- 大職冠(だいしょくのかん)のクスノキ ― 推定500年、戦国期から残る巨樹
- 大納言塚(秀長墓所) ― 郡山城外散策の締めくくりとなる、秀長をしずかに偲ぶ場所
- まとめ ― 郡山城“外”を歩くと見えてくる、秀長が築いた町の輪郭
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セクション
郡山八幡神社 ― 郡山城下の守護として重んじられた神社

郡山八幡神社は、郡山城にゆかりの深い八幡社として、
城下町の形成とともに人々の信仰を集めてきた場所です。
秀長自身が直接建立に関わった神社ではありませんが、
郡山へ入り、城下を整えていく過程で、
地域の中心となる八幡社がこの地に存在していたという点は重要です。
郡山という土地が、単なる城ではなく「町」として成熟していくうえで、
こうした神社が果たした役割は決して小さくありません。


境内は広すぎず、地域の氏神としてのまとまりが感じられる規模で、
足元には石畳が敷かれています。
私が訪れた日は七五三と重なっており、
家族連れの姿が境内のあちこちに見られました。
地元の人びとが今も自然に集まってくる様子を見ると、
ここが昔から生活と結びついた神社であったことがよくわかります。

奥へ進むと、末社が整然と並んでいます。
それぞれは小規模ながら、
郡山という町が長い年月を通してさまざまな信仰を受け入れてきたことを示す景観でもあります。
今回郡山を歩く目的は、豊臣秀長が整えた城下の痕跡をできるだけ丁寧にたどることでした。
八幡神社そのものは秀長専用の祈祷所というわけではありませんが、
「秀長が見たであろう、当時の郡山の地域信仰の核」 のひとつである点で、
訪れる価値があります。
郡山の歴史をたどるとき、城や寺院だけでなく、
こうした“市井に根づいた場所”もまた、当時の城下の空気を知る手がかりになります。
パノラマ写真
源九郎稲荷神社 ― 義経の名が残る稲荷社と、秀長が守護とした場所
郡山八幡神社をあとにして源九郎稲荷神社へ向かったのですが、
ここでもう一つ“旅の落とし穴”が待っていました。
Google Map の案内に従うと、どういうわけか通れない道へ誘導されてしまうのです。
実際、私もその誤案内に従って進んでしまい、
入口が北側にあるとは知らずに南から向かった結果、
気づけばだいぶ遠回りになっていました。
地図上では直線距離が近く見えるのに、まったく辿りつけない。
これから訪れる方には、
「源九郎稲荷神社だけは Google Map の最短ルートを信用しない方がいい」
ということを強くお伝えしておきたいです。
この以下の My Map のルート を参考にしていただく方が確実です。

遠回りしながらたどり着いた源九郎稲荷神社は、
大きな神社ではありませんが、入口の朱色の鳥居がしっかりと存在感を放っていました。
境内には、薄い色の彼岸花に似た花が咲いていたり、
小さなイチョウの苗木が並んでいたりと、
規模の小ささとは対照的に落ち着いた雰囲気が整っています。


ここで神社の方へ、「奈良駅にも源九郎神社があったのですがこの辺りには多いのですか?」と伺ったところ、以下の答えをいただきました。
この神社の「源九郎」という名前は、
“源義経”の幼名「源九郎」からきているという伝承があり、
義経を助けた狐にまつわる物語が由来となっているそうです。
そのため歌舞伎関係者の参拝も多く、
郡山という町でありながら、文化との接点も強い神社だということがわかりました。
そして奈良からこちらにお参りに来るのが大変だということで、奈良付近にも源九郎神社が作られているとのことです。
そして、この神社が今回の散策で重要なのは、
豊臣秀長が郡山城を整えた際、守護神として特に崇敬したと伝わっている点です。
城を築くとき、必ず「どの神を守護とするか」が重視されます。
源九郎稲荷神社は、まさにその役割を担った場所でした。

郡山八幡神社が“地域全体の信仰の中心”だとすれば、
こちらはより個別に、
城内の平穏や武家の安泰を祈るための稲荷社
として位置づけられていたのだと思います。

規模は小さくても、
秀長の郡山統治を語るうえで外せない地点であることがよくわかります。
朱色の社殿は簡素ながらも丁寧に手入れされており、
地元の人びとの信仰が今も続いていることを感じさせました。
派手さはありませんが、
歴史と伝承が小さな空間にぎゅっと詰まった神社です。
迷いながらも、ここを訪れてよかったと思えた理由は、
まさに“郡山らしい歴史の残り方”がここにあったからでした。
パノラマ写真
洞泉寺 ― 秀長が建立した寺院として静かに佇む場所

源九郎稲荷神社のすぐ隣に、洞泉寺があります。
この距離の近さは偶然ではなく、郡山を歩くうえでとてもわかりやすい“歴史の流れ”になっています。
小さな稲荷社のすぐ脇に、秀長が建立した寺院が並んでいる。
郡山城を中心とした城下の構造を思い浮かべると、
この二つが隣り合っていることには合点がいきます。
洞泉寺は、外から見ても規模のある寺で、
瓦屋根の形や、建物の配置を見るだけでも、
“郡山という町の中で重要な位置にあった寺院”という印象が自然と伝わってきます。
観光寺院のように飾り立てられているわけではありませんが、
歴史を背負った寺が持つ、独特の落ち着きがありました。
この寺が今回の散策で外せない理由は、
豊臣秀長自身が建立した寺院であるという点です。
秀長がこの郡山の地を整える中で、
八幡神社・源九郎稲荷と並び、
洞泉寺をしっかり据えたということは、
この寺を中心に“城下の信仰のバランス”を整えたかったのだろうと読み取れます。
実際に境内を歩くと、
本堂の造りや庭の整い方から、
「きちんと意図をもって整備された寺だったのだろう」という印象がありました。
古くはない建物もありますが、
全体としての佇まいは落ち着いていて、
同じ敷地内に流れてきた時間をそのまま留めているように感じられます。
源九郎稲荷神社と合わせて訪れることで、
秀長が郡山城の周辺にどのような祈りの体系を築こうとしたのか、
そこに一つの輪郭が見えてくる。
今回の散策の中でも、
“秀長の郡山統治を理解する上で鍵になる場所” のひとつでした。
パノラマ写真
郡山城外堀緑地 ― 秀長が整えた外堀の“かたち”を歩いて確かめる
洞泉寺から北へ歩いていくと、住宅街の中に突然、戦国期の名残が帯のように伸びる場所が現れます。
それが 郡山城の外堀跡を整備した「外堀緑地(外堀緑地公園)」 です。

外堀は、郡山城の防御と町割りの基準となった重要な構造で、
基礎となる城の形は秀長の入部(1585年)以降に整えられましたが、
現在知られる“外堀の規模”を定めたのは、後に入部した五奉行・増田長盛の普請によるもの
と伝えられています。
いずれにしても、郡山城が「城と町が一体化した城下町」として発展していく中で、
外堀はその“外側の境界線”として欠かせない役割を持っていました。

緑地の入口にあたる南門には、木造の復元門が建てられています。
当時の門を忠実に再現したものではありませんが、
「この場所が城の外郭の一部であった」というイメージをつかむには十分で、
地域の歴史を伝えるランドマークになっています。
南門をくぐって左手を見ると、公園の中に伸びる外堀跡が現れます。
現在は水がない区画も多く、穏やかな散策路として整備されていますが、
堀の幅や深さをたどっていくと、
これがかつて“まち全体を守る堀”として機能していたことが理解できます。

堀に沿うように木製の橋や和風の壁が配置され、
そのまま北へ歩いていくと、現代の住宅地の中に
外堀のラインだけが静かに残り続けている という独特の景観が続きます。
まさに「地図の上で、戦国期の町割りと現在の町並みが重なっている」という印象を受けるエリアです。


さらに進むと、北側にも復元門が建てられています。
こちらは南門よりも簡素な造りで、
“城下の外縁部にあった防御門”としての性格がより分かりやすく表現されています。
郡山城そのものは後の章で扱いますが、
この外堀緑地を先に歩いておくことで、
- 城下町がどの範囲まで広がっていたのか
- 城と町の境界がどこにあったのか
- 郡山城がどんな規模の都市を支えていたのか
といった「外側の輪郭」を具体的に把握できるのが大きな魅力です。
現在は静かな公園として整備されていますが、
そのラインを実際に歩くことで、
地図だけでは分からない 郡山城のスケール感 が自然と掴めてきます。
パノラマ写真
箱本館「紺屋」と紺屋川 ― 春岳院へ向かう途中に現れる、郡山らしい景観

郡山城外堀緑地から春岳院へ向かう途中、
町の中にひっそりと残る歴史的建物が 箱本館「紺屋(こんや)」 です。
江戸時代の染物屋を起源とする建物で、
現在は郡山の町並み保存の一部として公開されています。
内部には染物に関する資料のほか、金魚にまつわる展示などもあり、
“郡山が城下町であると同時に生活文化の町であった”ことを伝える施設でもあります。

この紺屋を訪れる際に印象的なのは、建物そのもの以上に、
建物の前を通る独特な景観です。

ここには、道の真ん中を一直線に流れる 紺屋川(こんやがわ) があります。
道路の中央に水路が走り、ところどころに小さな橋がかけられているという構造は、
全国的に見ても珍しい街路景観です。
川幅は大きくありませんが、
“町の生活の中に水が流れている”という風景は、
郡山の歴史的背景を考える上でも興味深いものがあります。
この紺屋川は、かつての城下町の生活用水・職人の仕事場としての役割を担っており、
染物の作業とも深く関係していたと言われています。
城下の暮らしを支えた水路が現在まで町割りの中に残り、
形を変えながら今も機能しているという点で、
“郡山が歴史と生活を併せ持つ町である”ことがよく現れている場所です。
春岳院へ向かうルートの途中にあるため、
特別に寄り道をしなくても気軽に立ち寄れます。
城下の宗教空間(春岳院)へ向かう前に、
郡山の生活文化の一端に触れられるという点でも、
旅の流れの中で自然に組み込まれるスポットです。
春岳院を目的に歩いていたところ、
偶然この紺屋の前を通り、
歴史的な建物と紺屋川の組み合わせが“郡山らしさ”として強く印象に残りました。

秀長が統治したころと比べれば町の姿は大きく変わっていますが、
水路が町の中心に流れ、人々の生活を支えてきたという事実は、
現代まで続く郡山の特色のひとつと言えるでしょう。
パノラマ写真
本家・菊屋本店 ― 御城之口餅と、戦国の茶会につながる老舗

春岳院へ向かう途中、道端に人が数人集まっている和菓子店が目に入りました。
特に立ち寄る予定はなかったのですが、
このあたりではあまり見ない賑わいだったため、気になって覗いてみたのが 本家・菊屋本店 でした。
ホームページ:https://kikuya.co.jp/
店内に入ってわかったのは、
ここが単なる和菓子屋ではなく、
戦国時代から記録に残る老舗だということです。
店の説明によれば、
秀吉・秀長が奈良で茶会を開いた際、
この店の菓子が供されたと伝えられています。
郡山城主として秀長がこの地域を治めていた時代、
菊屋はすでに“茶会に菓子を出せる格式”を持っていたということになります。



その歴史を象徴するのが、店の看板菓子である 「御城之口餅(おしろのくちもち)」。
餅を柔らかいきなこで包み、中には餡が入った素朴な菓子ですが、
当時は砂糖が貴重だったため、これでも充分に贅沢品でした。
説明書きには、この餅がのちに うぐいす餅の原型となったとされる逸話も紹介されています。
秀長ゆかりの地を歩いている最中に、
こうした形で戦国期の食文化に触れられるのは興味深い経験でした。
城や寺だけでなく、
「当時どんな甘味が振る舞われていたのか」
という視点が加わることで、秀長の時代がより具体的にイメージできます。
実際にこの御城之口餅を店頭で買い、
その場でいただくことができました。
味わいは素朴で、派手な特徴はありませんが、
“この土地で、戦国期の茶会にも供された菓子”という背景を知った上で食べると、
長い時間をひと口のなかに感じられるようでした。
春岳院へ向かうルート上にあるため、
大きく道を外さず立ち寄れる点も含め、
秀長ゆかりの地を歩く際には訪れておくと理解が深まる場所だと思います。
パノラマ写真
春岳院 ― 豊臣秀長の菩提寺として静かに佇む場所

本家・菊屋本店をあとにして少し歩くと、
今回の散策の中でもとくに訪れたかった 春岳院(しゅんがくいん) に到着します。
春岳院は、もとは「東光寺」と称していた寺院が、のちに豊臣秀長の戒名「春岳院殿」から山号を改めたもので、
大納言・豊臣秀長の菩提寺 として知られています。
本来であれば、本堂には秀長の位牌や肖像画、木像、箱本制度に関わる御朱印箱など、
郡山城下の歴史を物語る資料が数多く残されている寺です。
ただ、私が訪れた2025年11月時点では、ちょうど本堂の「令和の大改修」が行われている期間で、
寺院の中には入ることができませんでした。
門前から中を覗くと工事用の足場や養生が組まれており、
境内への立ち入りは一時的に制限されている状況でした。
御朱印については、観光案内などでは
「電話で問い合わせのうえ授与を受ける」形式が案内されていますが、
この日はお寺に電話をしたところ、住職が外出中とのことで、
御朱印をいただくことはできませんでした。
春岳院の御朱印や堂内拝観を希望する場合は、
工事状況や拝観再開時期も含めて、事前に最新情報を確認してから訪れるのが安全だと感じました。
工事中のため境内には入れなかったものの、
門前から本堂方向を眺めると、敷地の広さや建物の配置から、
ここが「秀長の菩提寺」として、郡山の歴史の中に静かに位置づけられてきた寺院であることがわかります。
城や外堀とは異なるかたちで、秀長その人に直接結びつく場所として、
郡山城外を歩くうえで欠かせない一カ所だと思います。
(この後、郡山城へ行きますがそれは別途記載します。)
パノラマ写真
永慶寺 ― 郡山城の南門を移設した、城外で最も重要な“実物史跡”

春岳院からさらに南へ歩くと、住宅地の中にひっそりと佇む 永慶寺(えいけいじ) に着きます。
寺そのものは江戸時代に郡山を治めた柳沢家の母大寺であり、
秀長ゆかりの寺院ではありません。
しかし今回の散策では、この永慶寺が非常に重要な意味を持っています。

その理由は、ここの山門が
「郡山城の南門を移設したもの」
と伝わっているためです。
郡山城関連の史跡は多くが石垣・土塁・堀跡といった“地形の痕跡”で残っていますが、
門の実物が現存している例はほとんどありません。
永慶寺の山門は、そうした中で数少ない“構造物として残る城の遺構”で、
城外散策の中でも特に価値の高い地点です。

実際に門の前に立つと、現在の住宅地の風景とは明らかに異なる時代の木造建築で、
地元の寺院として手入れされながら、城の部材としての面影を保っています。
復元ではなく移築と伝わるため、
当時の郡山城の門がどの程度の規模で、どのような意匠だったかを知る
唯一の手がかりに近い存在 といえます。
秀長が整えた郡山城を理解する際、
外堀や町割りの跡を歩くだけでは“形の残らない想像”に頼る部分が大きくなりますが、
永慶寺の山門は、
「郡山城は実際にこうした門を持つ城だった」
と実感させてくれる、貴重な“実物史料”です。
郡山城そのものに入る前に城外を歩く今回のルートでは、
この永慶寺は見逃せない存在でした。
郡山城の規模や造りを立体的にイメージするためにも、
城下の歴史を追う際には、ぜひ訪れておきたい場所です。
パノラマ写真
大職冠(だいしょくのかん)のクスノキ ― 推定500年、戦国期から残る巨樹

永慶寺からさらに歩いて向かったのが、道路脇に立つ 「大職冠(だいしょくのかん)のクスノキ」 です。
「大職冠」とは飛鳥時代の冠位の名称に由来する地名で、
必ずしもこの木が冠位制度と直接関係しているわけではありませんが、
古くからこの一帯に由緒ある場所名として残っています。
ここに立つクスノキは、
推定樹齢約500年 と伝えられており、
郡山の町の中で歴史的に特に古い樹木の一つです。
樹齢500年となると、時間軸としては戦国時代と完全に重なります。
つまりこの木は、秀長が郡山を治めた16世紀後半の頃にはすでに若木として存在していた可能性が高いということになります。
現地には説明板があり、
道路の脇に数本のクスノキが立っているのを確認できます。
周囲は住宅地で、特別な公園として整備されているわけではありませんが、
木そのものがもつ存在感が大きく、
近くまで行くと幹の太さや枝の張り出し方から、
長い年月を経てきたことがわかります。
秀長ゆかりの地として直接の史跡ではありませんが、
「当時この土地に生きていた自然物として、戦国期と現在をつなぐ唯一の“生き残り”」
という点で価値があります。
城や寺と違い、自然物は意図して残されるものではないため、
こうして戦国時代から現在まで残る樹木は地域史の中でも貴重です。
郡山城外を歩くルートの中ではやや南側に位置していますが、
周辺の史跡と合わせて訪れることで、
“秀長が見ていたかもしれない景観の一端” を把握することができます。
歴史遺構だけでなく自然環境も含めて町を見られるという点で、
散策の幅を広げてくれる場所です。
パノラマ写真
大納言塚(秀長墓所) ― 郡山城外散策の締めくくりとなる、秀長をしずかに偲ぶ場所

大職冠のクスノキからさらに南へ歩くと、
今回の郡山城外の散策の中で最も重要な地点といえる 大納言塚(だいなごんづか) に到着します。
ここはその名の通り、豊臣秀長の墓所です。
官職名である「大納言」がそのまま塚の呼び名として残っています。

大納言塚は、周囲を白壁と瓦屋根の塀で囲まれ、
外から見ても大切に保護されていることが伝わってきます。
門をくぐると内部は一段高くなっており、
中心部に秀長の墓石が据えられています。
過度な装飾はなく、規模も大きくありませんが、
“領主の墓所として丁寧に守られてきた”という印象を受ける造りです。


この場所で特徴的なのが、墓前に置かれた 「お願いの砂箱」 です。
石の箱のような形状で、上部に蓋があり、
中には砂と小石が入っています。
参拝者はその砂を一つかみして指定の場所に入れ、
願い事や感謝の気持ちを伝えるという、
他の史跡ではあまり見られない形式が残っています。

秀長は「太閤の右腕」と呼ばれ、
人望と行政手腕に優れた人物として知られています。
その性格を反映してか、この塚が祈りの場として静かに機能している様子には、
地域の人々が秀長をどのように捉えてきたのかが表れているように感じられます。

今回のルートでは、郡山城外の神社・寺院・自然地を見てきましたが、
この大納言塚は、それらの散策を歴史的な意味で締めくくる場所になります。
秀長の統治がどのような形で郡山に残ったのか、
その“結び”的な意味を持つ地点だからです。
郡山城内の史跡へ進む前に、
城主本人の墓所に立ち寄ることで、
これから見る城の価値や背景がより理解しやすくなると思います。
郡山城外のゆかりの地をめぐるルートとして、
大納言塚は必ず訪れておきたい重要な史跡です。
パノラマ写真
まとめ ― 郡山城“外”を歩くと見えてくる、秀長が築いた町の輪郭
今回の散策では、郡山城そのものに入る前に、
城の外側(周縁部)に残る秀長ゆかりの地点を中心に歩きました。
城下全体を理解する上で、この“外側からの視点”は非常に重要です。
郡山は、秀長が1585年に入部したのち、
城と町の両方が大きく整備されていきました。
その名残は、現在も次のような形で確認できます。
■ 城下の信仰を支えた施設
- 郡山八幡神社
→ 郡山の氏神として、城と町を支える基盤的存在。 - 源九郎稲荷神社
→ 秀長が郡山城の守護として崇敬した稲荷社。
義経伝承も重なり、武家・文化の両方に結びつく。 - 洞泉寺
→ 秀長自らが建立した寺。
城下における精神的な中心のひとつとして配置された。 - 春岳院
→ 豊臣秀長の菩提寺。秀長の位牌やゆかりの品が残る。
“秀長一族の歴史”を直接示す数少ない場所。
■ 城と町の構造を示すポイント
- 郡山城外堀緑地
→ 豊臣秀長〜増田長盛の時代に整えられた外堀ラインを、現在に伝える場所。
外堀の位置を歩いて確かめることで、城下町の規模が把握しやすくなる。 - 永慶寺の山門(郡山城南門の移設)
→ 当時の城門の実物を確認できる貴重な史跡。
“防御構造物の現物”としての価値が高い。
■ 戦国期の空気をわずかに留める自然・文化
- 大職冠のクスノキ(推定樹齢500年)
→ 秀長の時代と重なる年齢をもつ数少ない自然物。
町の歴史を考える上での指標になる。 - 本家・菊屋本店(御城之口餅)
→ 秀吉・秀長の茶会に供されたと伝わる菓子を現代に伝える。
当時の文化・生活を知る手がかりとなる。
◆ 郡山城外を歩く意義
今回のルートを通して見えてくるのは、
「秀長が郡山をひとつの“町”として整備していった過程」 です。
城そのものよりも外側に、
・守護神
・祈りの場
・町の生活基盤
・城郭を示すライン
が配置されており、
郡山全体がどのように機能していたかが立体的に理解できます。
郡山城を見る前にこの城外を歩いておくことで、
“城が支えていた町の姿”が明確になり、
後の城内散策がより深く味わえる準備が整います。

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