
清洲城を出た瞬間から、桶狭間はもう始まっています。
2026年大河『豊臣兄弟!』で“桶狭間前夜”の空気に心が揺れたなら——その熱を現地で確かめる一筆書きの行軍ルートへ。
信長が勝つか討ち死にかを天秤にかけ、祈りで心を整え、兵を集め、前線へにじり寄っていった道筋を、スポットごとに追体験できます。
必勝を願った榎白山神社、出陣の所作を想像できる日置神社、熱田の杜で覚悟を固める熱田神宮(信長塀)、敵の牙城・鳴海城跡、軍が“ひとつの塊”になる善照寺砦、そして突撃直前の中島砦——派手な名所だけではない“決断の足跡”が、名古屋の街に静かに残っています。
このページは、清洲城から桶狭間までを「移動」ではなく「物語」として歩くためのガイドです。所要時間とアクセスを添えて、迷わず辿れるように整理しました。大河の感情を、現地の空気で更新しに行きましょう。
清洲城~桶狭間ルート
スタート:清洲城

🚶 アクセス
「名古屋駅」から電車、徒歩で30分
詳細は以下ページへ
榎白山神社
⭐おすすめ度
歴史的価値:[☆☆]
視覚的魅力:[☆]
体験的価値:[☆☆]

清洲城を発って桶狭間へ向かう道は、ただの移動ではありません。信長にとっては、勝つか討ち死にか――運命を賭けた“腹を決める行軍”でした。名古屋・押切の旧美濃路沿いにひっそり鎮まる榎白山神社は、その途中で立ち寄ったと伝わる必勝祈願の社。文明9年(1477)、室町の実力者・斯波義廉が加賀の白山比咩神社を勧請して創建したとされ、古くは「榎権現」の名で親しまれました。社名に残る“榎”は、かつて神木として崇敬を集めた大樹の記憶そのもの。戦後の街に溶け込みながらも、ここには出陣前の緊張と、祈りに託した決意だけが、静かに手触りとして残っています。さらに境内には、名古屋では珍しい“お菓子の神様”を祀る田道間守社も。戦勝祈願と甘味守護が同居する、この土地らしい信仰のレイヤーが、短い立ち寄りを濃い体験に変えてくれます。


| 築造年 | 文明9年(1477年) |
|---|---|
| 築造者 | 斯波義廉(しば よしかど) |
| 構造・特徴 | 白山比咩神社(加賀)勧請/旧美濃路沿い/榎権現の伝承/境内に田道間守社 |
| 改修・復元歴 | 昭和20年(1945)5月の空襲で本殿・宝物焼失後、戦後に再建 |
| 現存状況 | 社殿(本殿・拝殿)現存、境内社あり |
| 消滅・損壊 | 昭和20年(1945)5月の空襲で本殿・宝物焼失(神木の榎も枯れたと伝わる) |
| 文化財指定 | 特段の指定情報なし |
| 備考 | 信長が桶狭間出陣前に戦勝祈願し、勝利後に太刀一口を奉納したと伝承/最寄:地下鉄鶴舞線「浅間町」駅 |
🗺 住所:〒451-0063 愛知県名古屋市西区押切2丁目5-2
🚶 アクセス
前のスポット「清洲城」から電車、徒歩で60分
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- 旧美濃路に面した“行軍の停泊地”感:大通りではなく街道沿いに鎮座するため、信長が立ち寄った“途中の祈り”が想像しやすい。
- 田道間守社(お菓子の神様):名古屋では珍しい甘味守護の境内社。戦勝祈願だけで終わらない、土地の信仰の厚みが面白い。
- 季節限定の楽しみ方:7月17日・18日の例大祭シーズンは、地域の熱量が上がり“生きた氏神”としての表情が見える。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:創建者は室町の有力守護・斯波義廉。戦国の前段階から続く権力の残響が、桶狭間ルートの厚みを増す。
- 知る人ぞ知る情報:かつて神木として崇敬された“榎”の記憶が社名に残る。街に埋もれやすいが、ここにしかない物語の核。
- 著名人との関係:桶狭間出陣前に信長が戦勝祈願し、勝利後に太刀一口を奉納したと伝わる“必勝祈願スポット”。
日置神社
⭐おすすめ度
歴史的価値:[☆☆☆]
視覚的魅力:[☆☆]
体験的価値:[☆☆]

桶狭間へ向かう“最初の深呼吸”を、この場所で想像してみてください。永禄3年(1560)5月、清洲城を発った織田信長は、まだ勝ち目の見えない出陣の朝に日置神社へ立ち寄り、ここで戦勝を祈り、そして舞った――と伝わります。熱田神宮へ向かう道の途中、名古屋の南端にあたるこの神域は、軍勢の集結を待つ「間(ま)」にもふさわしい静けさを残しています。
日置神社は『延喜式』にも名が載る式内社に比定され、古代から“この土地の核”として人々の時間と暮らしを見守ってきました。主祭神の天太玉命(あめのふとだまのみこと)は祭祀を司る神。戦の勝敗を決めるのは刃だけではない――祈りで心を整え、運を引き寄せ、仲間を束ねる。信長がここで行った所作は、まさに「出陣の儀式」そのものです。
境内に足を踏み入れると、都会の喧騒がふっと薄れ、参道の奥へ視線が吸い込まれます。戦後の名古屋大空襲で社殿は焼失しましたが、昭和33年(1958)に復興。新しい社殿でありながら、千年単位の記憶を抱えた“要衝の神社”として、今も旅人を迎えてくれます。

| 築造年 | 不詳(10世紀以前とされ、『延喜式』(927年)に記載) |
|---|---|
| 築造者 | 不詳 |
| 構造・特徴 | 本殿は流造/熱田台地の高地に鎮座/奥行きある参道と静かな境内 |
| 改修・復元歴 | 1945年(昭和20)名古屋大空襲で戦災/1958年(昭和33)社殿復興造営が完成 |
| 現存状況 | 社殿・境内ともに現存(戦後復興の建物が中心) |
| 消滅・損壊 | 1945年の戦災で社殿焼失 |
| 文化財指定 | 特になし(戦後復興社殿のため指定は確認できず) |
| 備考 | 別名:日置八幡宮/「千本松日置八幡宮」の伝承(信長が松を寄進したという話が残る) |
🗺 住所:愛知県名古屋市中区橘1丁目3-21
🚶 アクセス
前のスポット「榎白山神社」から電車で約35分(約4.9km)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- “出陣の朝”を想像できる参道の奥行き:街中とは思えない静けさが残り、信長が気持ちを整えた時間の手触りを感じられます。
- 境内に残る「力石」:力比べの石がひっそりと置かれ、祈願と身体感覚が結びつく“庶民の信仰”を伝えます。
- 季節限定の楽しみ方:春は境内の桜が見頃。1月の「初えびす」など、地域の季節行事も旅の記憶を濃くしてくれます。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:桶狭間へ向かう途中、信長がここで戦勝祈願し「敦盛」を舞ったという伝承が残ります。
- 知る人ぞ知る情報:勝利の報賽として松を千本寄進したとされ、「千本松日置八幡宮」と呼ばれた時代がありました。
- 著名人との関係:織田信長の“出陣ルート上の要所”。熱田へ向かう前の立ち寄り地として、物語の導入に最適です。
白鳥山 法持寺
⭐おすすめ度
歴史的価値:[☆☆☆]
視覚的魅力:[☆☆]
体験的価値:[☆☆]

名古屋の街を南へ抜け、熱田の空気が濃くなるころ——白鳥山法持寺は、派手な戦国“名所”とは違う静けさで、信長の足取りを深く感じさせてくれる場所です。始まりは天長年間(824〜834)。弘法大師・空海が熱田神宮に籠もった折、日本武尊を敬い、自ら延命地蔵菩薩を刻んで小祠を建てたのが起源と伝わります。
法持寺がただの寺ではないのは、すぐ隣に「白鳥陵(白鳥古墳)」があることにあります。白鳥となって帰ってきた日本武尊の伝承に寄り添うこの地で、寺は“陵の宝物を護る”役目を負い、古くは宝持寺とも呼ばれました。のちに曹洞宗の寺として再興され、承応年間(1652〜1654)に「法持寺」と改称。
そして戦国時代、桶狭間へ向かう途中の織田信長も、ここに立ち寄り必勝を祈願したと伝わります。刀槍の神ではなく、古代英雄の影と、地蔵の慈悲に手を合わせる——その構図が、信長の「勝つための冷静さ」と「運を掴みにいく胆力」を同時に浮かび上がらせます。境内には芭蕉ゆかりの句碑や、大相撲名古屋場所で部屋が宿舎にした痕跡も残り、戦と文化が同居する熱田らしい奥行きが味わえます。
| 築造年 | 天長年間(824〜834年) |
|---|---|
| 築造者 | 空海(弘法大師) |
| 構造・特徴 | 曹洞宗寺院/白鳥陵(白鳥古墳)に隣接/句碑・石碑が多く文化性が高い |
| 改修・復元歴 | 室町期に曹洞宗寺院として再興(宝徳元年1449年頃など諸説)/承応年間(1652〜1654)に法持寺へ改称/宝暦7年(1757)大火後に復興/1945年空襲で焼失後、1955年に現在地へ移転 |
| 現存状況 | 本堂・山門など現地で参拝可能(現代の伽藍) |
| 消滅・損壊 | 1757年の大火で全焼/1945年の空襲で大きく焼失 |
| 文化財指定 | 不明(寺院そのものの国指定文化財指定は未確認) |
| 備考 | 隣接する白鳥古墳は、古くは日本武尊の墓と伝えられた前方後円墳。境内には戦災の痕跡を残す石なども伝わる。 |
🗺 住所:愛知県名古屋市熱田区白鳥1-2-17
🚶 アクセス
前のスポット「日置神社」から徒歩45分(約3.6km)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- 白鳥陵(白鳥古墳)と隣り合う“空気”:寺の背後に古墳の気配が寄り、信長の祈願が「戦の前の儀式」ではなく、“土地の物語”に結びついて感じられます。
- 文化人と武の足跡が混ざる境内:芭蕉ゆかりの句碑、大相撲の宿舎の痕跡など、熱田らしい“戦と文化の同居”が静かに刻まれています。
- 季節限定の楽しみ方:春〜初夏は境内の緑が深く、白鳥古墳周辺の散策が気持ちいい季節。秋は日差しが柔らかく、熱田歩きの寄り道に最適です。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:草創期は“宝を護る寺”として宝持寺とも呼ばれ、白鳥陵に結びつく守護の役割を担っていました。
- 知る人ぞ知る情報:1945年の空襲で大きく焼失し、1955年に現在地へ移転しています。戦災復興の都市史も背負う寺です。
- 著名人との関係:織田信長の必勝祈願の伝承に加え、俳人や相撲部屋の縁が残る“名古屋らしい文化交差点”でもあります。
熱田神宮
⭐おすすめ度
歴史的価値:[☆☆☆]
視覚的魅力:[☆☆☆]
体験的価値:[☆☆☆]

桶狭間へ向かう信長の足取りの中で、熱田神宮は「心を決める場所」として特別です。名古屋の街のすぐそばにありながら、境内に一歩入ると空気が変わる。深い緑に包まれた“熱田の杜”は、戦の前夜のざわめきを吸い込み、武将の迷いさえ静かに整えていくように感じられます。
ここがただの名社ではない理由は、三種の神器のひとつ「草薙神剣(くさなぎのしんけん)」を奉斎する社であること。伝承では、日本武尊の物語とともに神剣がこの地に鎮まり、以来、朝廷や武家の信仰を集め続けてきました。

そして永禄3年(1560)。桶狭間へ出陣する信長はここで必勝を祈願し、勝利ののちに“証拠”を残します。境内に現存する「信長塀」――土と石灰を油で練り、瓦を幾層にも挟み込んで固めた重厚な築地塀は、信長が勝利の礼として奉納したもの。つまり熱田神宮は、神話の深さと戦国の現実が、同じ敷地の中で交差する場所です。
次に鳴海・善照寺砦へ進む前に、ここで一度立ち止まる。信長が「勝てるかどうか」ではなく、「勝つために何を捨てるか」を決めた空気を、杜の静けさの中で追体験できるはずです。


| 築造年 | 伝・景行天皇43年(113年)創祀 |
|---|---|
| 築造者 | 伝・宮簀媛命(みやずひめのみこと) |
| 構造・特徴 | 草薙神剣を奉斎/本宮は神明造/「熱田の杜」に抱かれる大社 |
| 改修・復元歴 | 1893年(明治26年)神明造に改修/1945年戦災後に再建/1955年(昭和30年)造替/2009年(平成21年)創祀1900年記念事業 |
| 現存状況 | 本宮・信長塀・宝物館など見学可 |
| 消滅・損壊 | 1945年の空襲で境内施設が被害を受けた記録あり |
| 文化財指定 | 宝物館に刀剣など貴重な奉納品を多数所蔵(展示は時期により異なる) |
| 備考 | 信長塀は「日本三大土塀」の一つとして知られる/例祭「熱田まつり(尚武祭)」は毎年6月5日頃 |
🗺 住所:〒456-8585 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
🚶 アクセス
前のスポット「白鳥山 法持寺」から徒歩6分(約0.46km)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約25分
じっくり観光するなら:約1.5時間
📍 見どころ
- 本宮(熱田の杜の中心):都市のすぐ隣とは思えない静けさ。深い緑に包まれた参道を歩くほど、気持ちが整っていく“戦の前の神域”を体感できます。
- 信長塀:桶狭間勝利の礼として信長が奉納したと伝わる築地塀。土・石灰・油・瓦を重ねた堅牢さが、信長の「勝利を現実に変える執念」を物として残します。
- 季節限定の楽しみ方:初夏の「熱田まつり(尚武祭)」は奉納行事と花火で名古屋の夏の始まりを告げる風物詩。杜の厳かさと賑わいのコントラストが印象的です。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:本宮は明治26年(1893年)まで尾張独自の「尾張造」だったとされ、三種の神器奉斎の社として伊勢神宮に近い神明造へ改められました。
- 知る人ぞ知る情報:境内には弘法大師のお手植えと伝わる大楠など、千年級の巨木が点在。歩くほど“熱田の杜”の厚みがわかります。
- 著名人との関係:織田信長は桶狭間出陣の際に必勝祈願し、勝利後に信長塀を奉納。ここには「勝った後に感謝を形にする」信長のリアリズムが残っています。
鳴海城跡
⭐おすすめ度
歴史的価値:[☆☆☆]
視覚的魅力:[☆]
体験的価値:[☆]

桶狭間へ向かう信長の行軍で、ここは「戦いのスイッチが入る地点」です。熱田神宮で祈りを済ませたあと、信長が向かったのは“神域”ではなく、敵の牙城。鳴海城は、今川方の重要拠点として尾張南部に深く食い込み、織田方の喉元に突きつけられた刃でした。
鳴海城の起源は応永年間(1394〜1428)にさかのぼり、安原宗範が築いたと伝わります。戦国期には織田家臣だった山口教継が今川へ転じ、のちに今川譜代の武将・岡部元信が入ってさらに要塞化。信長にとって鳴海城は、ただの城ではありません。今川の侵攻を“現実の危機”として突きつけ、決戦を引き寄せた装置でした。
現在は「鳴海城跡公園」として整備され、天守や石垣の派手さは残っていません。けれど、この高台に立つと、周囲の街並みの見渡しが効くことがすぐに分かります。派手な遺構がないからこそ、ここでは想像力が働く。信長が「ここを放置できない」と判断した理由、そして敵中に踏み込む決断の重さが、静かな公園の風景から逆に伝わってきます。
| 築造年 | 応永年間(1394〜1428年) |
|---|---|
| 築造者 | 安原宗範(やすはら むねのり)と伝わる |
| 構造・特徴 | 平山城/高台の曲輪配置で見晴らしが良い(現在は公園) |
| 改修・復元歴 | 戦国期に今川方の重要拠点化(岡部元信が守将)/江戸初期までに廃城とされる |
| 現存状況 | 城址は公園として整備、遺構は限定的(地形から城の要害性を感じられる) |
| 消滅・損壊 | 廃城後に建物は消失(明確な焼失年は不詳) |
| 文化財指定 | 特段の指定情報なし |
| 備考 | 桶狭間の戦いの際は今川方拠点。岡部元信が義元の首と引き換えに開城したと伝わる。 |
🗺 住所:愛知県名古屋市緑区鳴海町字城3(鳴海城跡公園)
🚶 アクセス
前のスポット「熱田神宮」から電車で35分
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- 城跡公園の“高台”:遺構が少ない分、地形が主役。ここに立つだけで、見張りと防御の合理性が実感できます。
- 静かな広場に残る「最前線の気配」:子どもが遊ぶ穏やかな公園だからこそ、かつて敵味方が睨み合った緊張との差が際立ちます。
- 季節限定の楽しみ方:春は公園の桜、初夏は新緑が気持ちよく、短時間の史跡散策でも満足度が上がります。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:鳴海城は桶狭間の戦いの“決戦前夜”における今川方の重要拠点。ここがあるからこそ、信長は戦いを避けられませんでした。
- 知る人ぞ知る情報:当時は海が近く、満潮時には城の近くまで潮が来たという話も伝わります。地形を知ると見え方が変わります。
- 著名人との関係:守将・岡部元信は、桶狭間後に義元の首と引き換えに開城したとされ、城が“戦の結末”を背負った場所になりました。
善照寺砦
⭐おすすめ度
歴史的価値:[☆☆☆]
視覚的魅力:[☆]
体験的価値:[☆]

ここは「決戦の前に、軍が“ひとつの塊”になる場所」です。熱田神宮で祈りを済ませた信長が次に向かったのは、華やかな城でも、名のある社でもありません。今川方の鳴海城を封じるために築いた前線拠点――善照寺砦。桶狭間の戦い当日、信長は午前10時ごろこの砦に入ったとされ、ここで軍勢を整え、熱田では数百規模だった兵を“数千”へと膨らませた、と伝わります。つまり善照寺砦は、信長の奇襲が「勢い」ではなく「編成と統率」の上に立っていたことを、静かに物語る場所です。
鳴海城から東へわずか700m。近すぎる距離感が、この砦の緊張を生々しくします。敵の城が視界の延長にある距離で、味方を集め、隊列を組み直し、情報を整理し、動く方向を一つにそろえる。戦国の勝敗は、最初の一撃よりも前に、こうした“整える時間”で決まることがある――その事実が、児童公園として整備された今の姿から逆に伝わってきます。
北側に残る急斜面の谷、そして高台からの見通し。派手な遺構がないからこそ、「砦」という軍事装置の本質が、地形の輪郭として残っています。ここを訪れると、桶狭間への道が“移動”ではなく、勝利へ向けた段取りの連続だったことが腑に落ちます。
| 築造年 | 永禄2年(1559年) |
|---|---|
| 築造者 | 織田信長 |
| 構造・特徴 | 鳴海城を抑える平山の砦/丹下砦・中島砦と連携/現在は砦公園として整備 |
| 改修・復元歴 | 戦後、公園として整備(遺構復元はなし) |
| 現存状況 | 砦跡は公園として現存(地形から立地の要害性を体感できる) |
| 消滅・損壊 | 建物は廃絶し、遺構は残らない |
| 文化財指定 | 特段の指定情報なし |
| 備考 | 合戦当日、信長がここで軍勢を整え、中島砦へ進んだと伝わる |
🗺 住所:〒458-0801 愛知県名古屋市緑区鳴海町砦3
🚶 アクセス
前のスポット「鳴海城跡」から徒歩10分(約750m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- “軍を整える”前線指揮所の空気:ここは勝利の直前に兵が集まり直す地点。静かな高台で、決戦前の緊張が想像しやすい。
- 北側の急斜面と地形の防御性:遺構がなくても、谷へ落ちる斜面が「砦が砦である理由」を地形で教えてくれます。
- 季節限定の楽しみ方:新緑の季節は木陰が気持ちよく、短時間でも“行軍の途中の立ち寄り”として満足度が高い。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:鳴海城の東わずか700m。敵城を“視界の延長”で封じる距離感が、前線のリアルさを際立たせます。
- 知る人ぞ知る情報:熱田神宮では数百規模だった兵が、善照寺砦で数千へ――と伝わり、ここが「奇襲の出発点」ではなく「編成の完成点」だったことがわかります。
- 著名人との関係:桶狭間当日、信長がここで軍勢を整えたとされる“決戦前の整列地点”。次の中島砦へ繋がる重要なワンステップです。
中島砦
⭐おすすめ度
歴史的価値:[☆☆☆]
視覚的魅力:[☆]
体験的価値:[☆]

善照寺砦で兵を整えた信長が、次に踏み込んだのがこの「中島砦」です。桶狭間へ向かう直前、彼が選んだのは“安全な高台”ではなく、川と湿地に囲まれた低地の前線――扇川と手越川の合流点に近い、中洲のような地形でした。
当時この一帯は、田と水路が複雑に絡み合う見通しの悪い土地。しかも敵方の鳴海城に目を付けられやすく、道も細く、家臣が「危険です」と止めたという逸話が残るほどです。それでも信長は、最前線へ出て“距離感”を自分の肌で測り、勝負に必要な情報と勢いをここで掴みにいきました。
中島砦は、派手な遺構を見せる場所ではありません。だからこそ、門をくぐって石碑の前に立った瞬間、歴史の重みが静かに刺さってきます。ここは「突撃前の最後のためらい」を置いていった場所。桶狭間を“奇跡”ではなく、信長の現場判断として捉え直すのに、これほど似合うスポットはありません。
| 築造年 | 1559年(永禄2年) |
|---|---|
| 築造者 | 織田信長 |
| 構造・特徴 | 河川合流点に近い低地の砦(中洲状の立地) |
| 改修・復元歴 | 不明(恒久的な復元整備はなし) |
| 現存状況 | 遺構はほぼ残らず、石碑・案内表示のみ確認可能 |
| 消滅・損壊 | 宅地化により地形改変が進み、砦の痕跡は消失 |
| 文化財指定 | なし |
| 備考 | 私有地内に石碑があり、見学は周辺住民への配慮が必須 |
🗺 住所:愛知県名古屋市緑区鳴海町下中(中島砦跡周辺)
🚶 アクセス
前のスポット「善照寺砦」から徒歩10分(約750m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約5分
じっくり観光するなら:約20時間
📍 見どころ
- 中島城址の石碑:住宅街の一角に静かに立つ碑が、ここが“突撃前の最前線”だった事実をまっすぐ伝えます。
- 川と低地の地形:扇川周辺の水の気配を感じると、当時の湿地帯と移動の難しさが具体的に想像できます。
- 季節限定の楽しみ方:初夏〜梅雨どきは、水と緑が濃くなり「雨の中の進軍」という桶狭間らしい空気感が出ます。
📌 トリビア
- 意外な歴史的背景:中島砦は、鳴海城を包囲するために築かれた“付け城(三砦)”の一つ。包囲線の一角が、決戦の出発点にもなりました。
- 知る人ぞ知る情報:石碑は昭和2年(1927)建立とされ、遺構が乏しい場所でも「忘れないための痕跡」として残され続けています。
- 著名人との関係:桶狭間当日、この砦を経由した信長が“危険を承知で前へ出た”という逸話は、彼の勝負勘を象徴するエピソードの一つです。
ゴール:桶狭間

🚶 アクセス
前のスポット「中島砦」から電車、バスで約30分
詳細は以下ページへ






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