2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目が高まる豊臣秀長。その秀長が城下町づくりに深く関わった大和郡山には、今も彼の息づかいを感じられる場所が点在しています。本ページでは、郡山八幡神社や源九郎稲荷、春岳院、大納言塚、本家 菊屋本店など、郡山城“外”に広がる秀長ゆかりの地を徒歩で巡るためのガイドをまとめました。360度写真、アクセスや所要時間の目安、見どころを押さえながら、ゆっくり「秀長の郡山」を歩いてみませんか。
スポット紹介
郡山八幡神社
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

豊臣秀長と関わりの深い 郡山八幡神社 は、現在の奈良県大和郡山市柳町にある八幡神社で、かつての 郡山城 の南の守りとして古くから人々に信仰されてきた神社です。室町時代の創建と伝えられ、やがて天正13年(1585年)、秀長が郡山城を大規模に整備した際に、守護神としての役割を強め、現在地に遷座されたという歴史があります。
パノラマ写真
| 築造年 | 室町時代(創建年不詳) |
|---|---|
| 築造者 | 不詳(古くから地域の鎮守として) |
| 構造・特徴 | 社殿、鳥居など典型的な八幡神社の構成 |
| 改修・復元歴 | 室町時代の創建と伝えられ、のちに豊臣秀長の郡山城・城下町整備にともない、文禄3年(1594年)ごろ現在地に遷座 |
| 現存状況 | 現存、参拝可能 |
| 消滅・損壊 | なし(定期的に管理・維持されている) |
| 文化財指定 | 特段の国指定文化財ではないが、地域の歴史資産 |
| 備考 | 近年は「グラブ神社」として野球関係の祈願でも知られる |
🗺 住所:奈良県大和郡山市柳4丁目25
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄郡山駅から徒歩約5〜8分(約500m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約30分
📍 見どころ
- 社殿と参道の静けさ:住宅地の中にありながら、境内は落ち着いた雰囲気で、参道や鳥居をくぐると別世界のような静けさを感じられます。
- 武家の守護神としての歴史:御祭神は「八幡神」。かつて武家や城下町の守護神として崇敬され、戦国〜安土桃山期の城下町の歴史を偲ぶ場所です。
- 現代ならではの祈願スタイル:特に野球好きに人気で、“グラブ神社”として、野球グローブの供養や野球上達祈願などユニークな参拝方法があります。
📌 トリビア
- 戦国〜城下町整備とともに移転:郡山城の大改修に伴い、元の丘陵地から現在地に移されたことで、城下町の守護神としての役割を強化。秀長の城づくりとの深いつながりがある神社です。
- 「グラブ神社」としての異色な近年の信仰:かつての武家の守護から、今では野球選手やスポーツを志す人々が勝運や上達を祈願する場所として全国的に知られるようになった点がユニークです。
- 地域の暮らしと繋がる氏神:厄除け、子育て、縁結び、交通安全など、地域住民の日常に根付いた祈願も受け入れており、現代でも地元にとって身近な神社です。
源九郎稲荷神社
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆☆

豊臣秀長(とよとみ ひでなが)ゆかりの神社、源九郎稲荷神社 は、奈良県大和郡山市洞泉寺町にある稲荷神社で、同地にあった郡山城 の鎮守として、天正13年(1585年)に秀長によって創建されたと伝えられています。
パノラマ写真
| 創建年 | 天正13年(1585年)伝承 |
|---|---|
| 創建者 | 豊臣秀長 |
| 構造・特徴 | 本殿・拝殿・社務所、狛狐(狛犬に替わる狐像)あり |
| 改修・復元歴 | 享保4年(1719年)に現在地に遷座、現社殿は大正14年(1925年)建立。 |
| 現存状況 | 良好、参拝可能 |
| 文化財指定 | 特段の国指定文化財ではないが、地域の歴史的資産 |
| 備考 | 「日本三大稲荷」「関西三大稲荷」の一つとされることもある。 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市洞泉寺町15
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄橿原線「近鉄郡山駅」または JR関西本線「郡山駅」から徒歩約8〜10分(約0.6〜0.8km)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり参拝・見学:約30分
📍 見どころ
- 狛狐の像:本殿前にいる狛狐は、通常の狛犬の代わりに狐を祀ったもので、巻物と宝珠をくわえた姿が特徴。宝珠は金運、巻物は学業・知恵につながると伝えられています。
- 歴史と伝説の舞台:創建は豊臣秀長による郡山城の鎮守として。さらに源義経 伝説と結びつく“源九郎狐”伝説の地でもあり、歴史と民話が交錯する神秘的な空間です。
- 地域と文化のつながり:地元では「源九郎さん」の名で親しまれ、毎年春には白狐の面をつけた子どもたちが練り歩く例祭「白狐渡御」が行われ、町の伝統行事のひとつとなっています。
📌 トリビア
- 歌舞伎との縁:社名の“源九郎”は、歌舞伎・浄瑠璃で知られる“源九郎狐”の伝説に由来。
- 五穀豊穣・商売繁盛の御利益:主祭神は宇迦之御魂神 および源九郎稲荷大明神で、農業、商売、家内安全などのご利益を願う参拝者も多いです。
- 歴史の再編と信仰の継承:当初は郡山城の鎮守として創建され、その後も江戸時代に遷座、近代に社殿再建されるなど、地域の変遷とともに信仰が受け継がれてきた社です。
洞泉寺(とうせんじ)
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

豊臣秀長ゆかりの寺院、洞泉寺 は、現在の奈良県大和郡山市 にある浄土宗の寺。もとは三河(現在の愛知県あたり)にあった寺院を起源とし、最終的に秀長によって郡山城下のこの地へ移されました。秀長が郡山城入城(1585年)にあわせて移転を命じたと伝えられ、そのため“城下町と豊臣政権の拠点”という歴史の中心に位置する寺院です。
パノラマ写真
| 創建/移転年 | もと三河国に起源 → 1585年(天正13年) 現地に移転 |
|---|---|
| 開基 | 宝誉上人(ほうよしょうにん)建立、その後 秀長が移転 |
| 構造・特徴 | 本堂(入母屋造、本瓦葺き)、地蔵堂、境内仏像など |
| 改修・再建歴 | 本堂は1659年(万治2年)建立。江戸期以降も維持管理される。 |
| 現存状況 | 良好。参拝および拝観可能(要予約) |
| 文化財指定 | 本尊の木造阿弥陀如来および両脇侍立像は国の重要文化財に指定。 |
| 備考 | 境内には「垢かき地蔵」と伝わる石仏もあり、かつて郡山城の“沓脱石(くつぬぎ石)”であった石を移して祀ったとされる。 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市洞泉寺町15-1
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄橿原線「近鉄郡山駅」または JR関西本線「JR郡山駅」から徒歩約7〜10分(約0.5〜0.8km)
短時間での見どころ:約10分
じっくり参拝・見学:約20分
📍 見どころ
- 阿弥陀三尊像(本尊):鎌倉時代の有名仏師とされる快慶の作と伝わる木造阿弥陀如来および両脇侍像。国の重要文化財に指定されており、その荘厳さは必見です。
- 垢かき地蔵と石風呂伝説:かつて郡山城の沓脱石だった石を掘り起こしたところ、地蔵尊が現れたとされ、これを寺に移して祀ったという伝承があります。境内の小堂にはその「垢かき地蔵」が安置されています。
- 城下町と宗教の接点:城主であった秀長がわざわざ寺を移転した背景には、城の安泰と領地支配の安定を祈る目的があったとされ、城下町の信仰・護持の象徴としての役割を果たしていました。歴史と信仰の重なりを感じる場所です。
📌 トリビア
- 寺号の由来と移転の歴史:洞泉寺はもともと三河国(現在の愛知県)にあった寺院で、天正9年(1581年)に大和国の長安寺村に建立され、その4年後、天正13年(1585年)に秀長によって郡山へ移されたもの。まさに秀長の大和支配構想と直結した寺院です。
- 廃城後の一時期の役割:1615年(元和元年)郡山城が荒廃した後、城主となった水野勝成が洞泉寺にしばらく仮住まいしたという記録があります — 城と寺が、時代の変遷の中で守りと拠点を分かち合った証です。
- 歴史と現在をつなぐ場:城下町の寺院としてだけでなく、今も地域の人々の信仰の場として存在し、重要文化財という形で中世・近世の仏教芸術を伝える貴重な空間です。
郡山城外堀緑地
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

郡山城 の「外堀」のうち一部を保存・整備して生まれた公園が、郡山城外堀緑地です。かつて城郭を囲んでいた水堀 — 城の防御や城下町の境界をなしていた外堀 — を現代に復活・保存し、遊歩道や水辺、門の再現、案内板などを整備。戦国〜江戸期の城下町の雰囲気と、現代の散策のしやすさを融合させたスポットです。現在では、地元住民や観光客の憩いと歴史散策の場となっています。
パノラマ写真
| 整備年相当/由来 | 「郡山城」外堀の一部 — 城の整備は1585年に豊臣秀長入城後の大規模改修によるもの。 |
|---|---|
| 整備形態 | 城の外堀跡を公園化(遊歩道、水路、再現門など) |
| 構造・特徴 | 約580–600 m の堀跡遊歩道、再現された「北門(冠木門)」と「南門(高麗門)」、水路・池、水辺、散策用石畳、休憩ベンチ、案内板など |
| 現存状況 | 良好 — 公園として整備され、自由に散策可能 |
| 文化財指定 | 特定の建造物としての文化財指定はなし。ただし、外堀を含む「郡山城跡」は国の史跡に指定。 |
| 備考 | かつての城下町の堀景観と、地域の洪水対策・保水機能を兼ねる構造も一部に含まれている。 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市材木町あたり(外堀緑地入口)
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄橿原線「近鉄郡山駅」または JR「JR郡山駅」から徒歩約6〜10分。
⏳ 見学の目安
散策〜休憩:約20分
のんびり遊歩道と水路歩き:約45分
📍 見どころ
- 再現された城門「北門(冠木門)」・「南門(高麗門)」:外堀の入り口となる門が、当時の様式を模して再現され、城下町の入口の雰囲気を現代に伝えます。
- 堀跡の水路と池、水辺の風景:かつての水堀の名残をとどめ、金魚や鯉が泳ぐこともある水辺を眺めながら、ゆったり散策できます。
- 城下町の歴史を感じる案内石碑や説明板:かつての堀跡、門跡、城の外堀の全体構造などを示す案内があり、かつてこの地が城と城下町を取り囲む防御線だったことを学べます。
- 気軽な散歩や四季の散策にぴったりな環境:石畳の遊歩道、あずまややベンチもあり、地元の人の散歩や観光客の休憩にも最適。春には城址の桜とあわせて散策するのもおすすめです。
📌 トリビア
- 城の外堀が地域の「惣堀」だった:もともとこの外堀は、城だけでなく城下町全体を囲む惣堀 〜 周囲約5.5 kmに及ぶ堀 の一部で、城の防御と町の区画、防災の役割を併せ持っていた。
- 現代の洪水対策も兼ねた設計:当時の堀跡が、近年の都市計画で「特定保水地」として用いられ、大雨時の雨水貯留も想定した構造になっている区間もある。歴史と実用性が重なる場所です。
- 地元イベントとの接点:毎月第2日曜日にはフリーマーケットが行われるなど、地域の「暮らし」とつながる市民の憩いの場でもある。
本家 菊屋本店
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆☆

本家 菊屋本店は、現在の奈良県大和郡山市にある老舗和菓子店で、創業は天正13年(1585年) — すなわち、豊臣秀長が大和に入った年と深く結びついています。
当時、秀長が兄 豊臣秀吉 をもてなす茶会のため、「何か珍しい菓子を作るように」と命じたのがこの店の祖である菊屋治兵衛。その際に作られたのが“粒あんを餅で包み、きな粉をまぶした”一口菓子で、これが後に「御城之口餅」(別名「鶯餅」)として知られるようになりました。
パノラマ写真
| 創業年 | 天正13年(1585年) |
|---|---|
| 創業者 | 菊屋治兵衛(豊臣秀長 に伴って大和に移住) |
| 構造・特徴 | 古い商家風の建物。店内には和菓子型の木型が天井に多数並び、昔ながらの和菓子屋の佇まい。 |
| 改修・再建歴 | 詳細な改修年などは公表されていないが、現在も老舗として営業・保存されている。 |
| 現存状況 | 現存、営業中 |
| 文化財指定 | 特定の国指定文化財指定はないが、400年以上続く地域の歴史的伝統。 |
| 備考 | 現在26代目が営む老舗。看板菓子「御城之口餅」は2025年から大河ドラマに合わせた限定パッケージも登場。 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市柳1-11
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄「近鉄郡山駅」または JR「郡山駅」から徒歩約5分ほど。
⏳ 訪問の目安
訪問・お買い物:約20分
📍 見どころ・楽しみどころ
- 御城之口餅(鶯餅):秀長が秀吉をもてなすため命じて作らせた和菓子で、現在も看板商品。きな粉の風味と餅の優しい食感、あんこの甘さが調和した逸品。
- 歴史ある店構えと内観:昔ながらの商家の建物で、店内には和菓子を作るための木型が天井にずらりと並び、まるで時間が止まったような雰囲気。和菓子の文化と歴史を肌で感じられます。
- お城と城下町の歴史とのつながり:「御城之口餅」の名は、もともと店が城の大門を出て町人街に入ってすぐの “城の口(入り口)” にあったことに由来 — 当時の城下町の風景を彷彿とさせます。
📌 トリビア
- 400年以上続く伝統:創業は1585年 — すなわち秀長が郡山城を拠点とした時代から続く、奈良県でも最古級の和菓子店のひとつ。
- 木型に刻まれた歴史:店内の天井に並ぶ和菓子の木型は過去に実際に使われてきたもので、和菓子づくりの変遷と職人の技を今に伝える貴重な品々。
- 時代に合わせた進化 — 限定パッケージも:2025年には、放送予定の大河ドラマに合わせて「御城之口餅」の限定パッケージが登場 — 古くからの伝統を守りつつ、新しい試みにも積極的。
春岳院(しゅんがくいん)
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

豊臣秀長の菩提寺として知られる春岳院は、奈良県大和郡山市新中町にある寺院です。もともとは「東光寺」と称されていたものが、秀長の菩提所とされた後、彼の戒名にちなんで「春岳院」と改称されたと伝えられています。
パノラマ写真
| 創建時期/寺号 | 鎌倉中期(開基は鎌倉時代の石造塔の存在からとされる)/旧称「東光寺」、のち春岳院 |
|---|---|
| 宗派・本尊 | 高野山真言宗/本尊は阿弥陀如来 |
| 再建・改修 | 本堂は正徳元年(1711年)に再建されたと伝わる。 |
| 現存状況 | 良好。通常は事前連絡のうえ拝観可能だが、現在(2025)は本堂改修工事のため境内立ち入りが制限されている。最新情報は観光協会・寺院の案内を要確認。 |
| 所蔵・寺宝 | 秀長の肖像画(市指定文化財)および「箱本制度」関連の資料(御朱印箱、文書)など地域の歴史資料が残る。 |
| 所在地 | 奈良県大和郡山市新中町2 |
| 備考 | 拝観は原則事前連絡・志納。 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市新中町2
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄郡山駅から徒歩約10分
⏳ 見学の目安
短時間の参拝:約10分
寺宝や資料をゆっくり見るなら:約30分
📍 見どころ
- 秀長の肖像画と木像:江戸時代に制作された秀長の画像や、近年に造られた木像が安置されており、戦国〜江戸を通じての豊臣期の面影を伝える貴重な資料です。
- 「箱本制度」の史料:城下町の自治制度であった「箱本制度」にまつわる御朱印箱や文書が残されており、当時の城下町の仕組みや人々の暮らしを垣間見ることができます。
- 静謐な寺域と歴史の空気:町中にひっそりと佇む寺院で、城下町としてのかつての面影と、時代を超えた落ち着きを感じることができます。城跡や他のゆかりの寺社とあわせて巡ると、秀長の時代が甦ります。
📌 トリビア
- 旧寺号「東光寺」からの改称:当初は「東光寺」と称されていたが、秀長の没後、彼の戒名「春岳紹榮大居士」にちなんで寺号を「春岳院」と改めた。
- 地域を結ぶ「箱本制度」のシンボル:その箱本制度に使われた御朱印箱や文書が今に残り、近世の城下町の自治・暮らしの記録として非常に貴重。
- 拝観は事前連絡推奨:基本的に拝観・寺宝の閲覧は「事前連絡+志納制」。参拝前に寺側へ連絡を入れる必要があります。
郡山城
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆☆
体験的価値:☆☆☆

豊臣秀長ゆかりの城として名高い郡山城は、現在の奈良県大和郡山市に位置する城跡で、戦国末期から近世にかけての城郭の歴史を今に伝える重要な場です。もともとは戦国武将 筒井順慶 によって築城が始まりましたが、1585年(天正13年)に秀長が大和・紀伊・和泉あわせて百万石の領主となり入城。その後、城郭を大規模に拡張し、「大和国支配の拠点」「豊臣勢力の重要な前線基地」としての役割を担いました。
| 築城開始年 | 天正8年(1580年) |
|---|---|
| 主要整備時期 | 天正13年(1585年)ほか豊臣期 |
| 築造者 | 筒井順慶 → 入城後、豊臣秀長による大改修 |
| 構造・特徴 | 本丸、複数の曲輪、内堀・中堀・外堀を巡らせた三重の堀構え、大規模な石垣(転用石材も多用)など |
| 改修・整備歴 | 江戸期以降、城主交代後も維持。明治の廃城で建物は失われるが、昭和期に追手門・櫓などを復元。近年、天守台展望施設など整備。 |
| 現存状況 | 建物は現存しないが、石垣・堀・天守台など遺構が良好に残り、公園として整備・公開。 |
| 文化財指定 | 2022年11月10日、国史跡 に指定。 |
| 備考 | 石垣に寺社の礎石・石仏・五輪塔などの転用石材が用いられており、往時の石材調達の一端がうかがえる。 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市城内町および周辺一帯
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄「近鉄郡山駅」または JR「郡山駅」から徒歩約7〜10分ほど。
⏳ 見学の目安
石垣・堀・天守台などを見て回るなら:約20分
ゆったり散策、桜や自然、周囲の寺社・旧跡も巡るなら:約1.5時間
📍 見どころ
- 石垣と堀の遺構:転用石材を含む野面積みの石垣や、三重に巡らされた堀跡が現存。城の防御・城下町の区画を偲ぶことができます。
- 天守台と展望施設:かつて天守があったとされる天守台は現在展望施設として整備されており、遺構の上から奈良盆地や周囲の景色を一望できます。
- 桜と城址の風景:春には約800本もの桜が城跡を彩り、「日本さくら名所100選」に選ばれるほど。花見と歴史散策を同時に楽しむことができます。
- 城下町の歴史を感じる散策路:かつての城域と町割の名残をたどりつつ、近くの寺社やかつての城下町の構成を感じられる歴史散歩が充実。秀長ゆかりの他のスポットとあわせて巡ると、当時の雰囲気をより深く味わえます。
📌 トリビア
- 寺社の礎石や石仏を転用した石垣:石材不足の中、周辺の寺社から採取された礎石・石仏・五輪塔などが石垣に再利用され、「逆さ地蔵(さかさ地蔵)」などと呼ばれる石仏も見ることができます。これは当時の資材調達の過酷さと、戦国期の城づくりの現実を物語る一端です。
- 百万石大名にふさわしい城として整備された:秀長が入城した1585年以降、わずか数年のうちに石垣・堀・曲輪などを整備し、百万石の大名家の居城にふさわしい規模へと発展させた点から、「豊臣政権下の近世城郭の理想形のひとつ」と評価されます。
- 近年、国史跡に昇格:かつては県史跡だったものが、2022年11月10日に国史跡に指定され、その歴史的価値が国レベルで再評価されています。
永慶寺(えいけいじ) — 郡山城 の門を移築した寺院
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

永慶寺 は奈良県大和郡山市永慶寺町にある寺院で、現在は黄檗宗に属します。表向きの創建は江戸時代、宝永元年(1704年)に開基されたとされます。 しかしこの寺院が特に注目されるのは、かつての郡山城の城門が移築され、山門として現存している点にあります — つまり、かつての城郭の「生き証人」と言える場所です。
パノラマ写真
| 寺院名 | 永慶寺(龍華山 永慶寺) |
|---|---|
| 創建年 | 宝永元年(1704年) |
| 開基 | 柳澤吉保(およびその一族) |
| 宗派 | 黄檗宗 |
| 構造・特徴 | 本堂、仏殿、山門(旧郡山城の城門を移築)など |
| 移築の由来 | 旧 郡山城南御門 を移築 → 永慶寺山門として現存 |
| 現存状況 | 良好。山門を含め寺院として拝観可能 |
| 文化財指定 | 山門は市指定文化財 |
| 備考 | 郡山城の“建造物遺構”としては唯一の現存建造物 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市永慶寺町5-76
🚶 アクセス
近鉄橿原線「近鉄郡山駅」または JR「郡山駅」から徒歩約7〜10分ほど。
⏳ 拝観の目安
寺院と山門の見学:約10〜20分
📍 見どころ
- 旧郡山城の城門を移築した山門(黒門):この門はかつて郡山城の「南御門(菊門または南門)」であったとされ、城の建物の中では 永慶寺に移築されたこの山門だけが現存 しています。城郭の実物建造物として、郡山城の歴史を物理的に伝える貴重な痕跡です。
- 城の歴史と寺院の再利用の重なり:明治維新後、郡山城は破却されましたが、城門だけを寺院の門として再利用することで、「城」と「寺」の歴史が重ねられ、城下町の変遷を今に伝えています。
- 柳澤家の菩提寺としての歴史:永慶寺は、江戸時代に郡山城主となった柳澤氏の菩提寺として建立された寺院で、城下町の武家支配層と寺社の関係性を知る手がかりになります。
📌 トリビア
- 郡山城から唯一「移築」された建造物:郡山城は明治の廃城で櫓・塀・門などほとんどの建物が失われましたが、唯一この山門だけが別の寺に移され、現在も見ることができます — 城の“生きた遺物”。
- 市指定文化財として保存:永慶寺の山門は現在「市指定文化財」に指定されており、地元/自治体によって歴史資産として保護されています。
- 城下町の変遷を象徴する場所:戦国〜安土桃山の城郭時代 → 江戸期の大名支配 → 廃城後の寺院利用、という日本の地域史の変遷を、ひとつの建物で体感できる稀有な例。
もしよければ、永慶寺の山門を起点にした「郡山城ゆかり建造物めぐりマップ」を作成できます — 城跡、移築門、周辺寺社・史跡を含めて、徒歩圏で回れるモデルコースとして便利です。
大職冠のクスノキ — 豊臣秀長 時代の痕跡を伝える大樹
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆

「大職冠のクスノキ」は、現在の奈良県大和郡山市南郡山町あたりにある、幹周り約 5.7 m・樹高約 25 m・推定樹齢約 500 年 のクスノキの巨樹で、かつて、郡山城 の西北、大織冠鎌足神社(かつては「大織冠宮」とも)の社地とされていた「大織冠(たいしょくかん)」の地に立つ木です。
この地は、1585年(天正13年)に豊臣秀長が郡山城主となった際、城の守護神として多武峰(現・談山神社)の御神霊を移して建立された大織冠宮があった場所で、当時この地一帯は「大織冠」「大職冠」の名で呼ばれていました。
パノラマ写真
| 樹種 | クスノキ |
|---|---|
| 推定年齢/幹周・樹高 | 樹齢 約500年/幹周 約5.7 m・樹高 約25 m |
| 場所・所在 | 奈良県大和郡山市南郡山町 付近(大織冠の地) |
| 由来・歴史的背景 | 1585年の郡山城制圧後、城の守護神として大織冠宮を設けた際にその社地となった地域に育つ木。後に神社が移転後も、地名とともに“生き証人”的に残る。 |
| 現存状況 | 良好 — 道路沿いに立ち、現在も確認可能、公的に「大職冠のクスノキ」として紹介あり。 |
| 文化財指定 | 国・県の指定は確認されず。ただし地元では「郡山城ゆかり」「大織冠の地の名残」として案内されている。 |
🗺 住所:奈良県大和郡山市南郡山町 464-11あたり(大職冠の地)
🚶 アクセス
近鉄郡山駅から東へ約600 m、県道9号線を北へ少し — 徒歩で約8〜10分ほど。
⏳ 訪問の目安
立ち寄り:約5分〜10分(道沿いで簡単に見られます)
📍 見どころ
- 圧巻の大樹の姿:住宅や道路に囲まれた環境にもかかわらず、堂々と立つ巨木 — 幹回り5.7 m・樹高25 mという存在感は圧倒的で、古の城下町の名残を感じさせます。
- 歴史の記憶を刻む“地名と樹木”:「大織冠」や「大職冠」といった古代官位を冠した地名、その地名に由来する神社の移転範囲、そしてその名のままの巨木――このクスノキは、時代をまたいだ記憶のアンカーです。
- 秀長時代の城下町の空気を偲ぶ:かつてこの丘陵地は、秀長が城の守護神として鎌足公を祀った社のあった場所。戦国から安土桃山期の政治・宗教の変化、城下町の立ち上げの現場を想像するきっかけになります。
📌 トリビア
- 「大職冠」の由来:「大職冠/大織冠(たいしょくかん/たいおりかん)」は、古代日本の冠位制度における最高位の冠位で、藤原鎌足 のみが授けられたと伝わる。秀長はその鎌足公の霊を多武峰から郡山に遷して守護神としたため、地域に「大織冠/大職冠」の名が残った。
- 神社の短期遷座とその後:鎌足公の分霊を祀る「大織冠宮(後の大織冠鎌足神社)」は、1587〜1590年ごろ、秀長の郡山入城後に城の守護として鎮座。しかし、帰山運動などにより談山神社に御霊は戻され、遷座は短期間だった。とはいえ、この木は「かつての守護地」の自然の証人となっている。
- 郡山城下町の記憶:城下町は戦国から近世にかけて大きく変わったが、地名「大職冠」、そしてこのクスノキのような自然の名残が、かつての時代を現代に伝えている — 歴史と自然が交錯する貴重なスポット。
大納言塚 — 豊臣秀長 の墓所
⭐おすすめ度
歴史的価値:☆☆☆
視覚的魅力:☆☆
体験的価値:☆☆

大納言塚は、豊臣秀長が亡くなった地である郡山城およびその城下に眠る、秀長の墓所です。1591年(天正19年)1月22日、郡山城内で亡くなった秀長は当初、兄 豊臣秀吉 によって建立された菩提寺 大光院 に葬られましたが、豊臣家滅亡後に大光院が京都へ移され、墓地は荒廃しました。のちに、江戸時代中期の1777年(安永6年)、当時の菩提寺だった 春岳院 の僧侶と地域住民の手により整備され、秀長の戒名を刻んだ高さ約2メートルの五輪塔が建立されました。現在は、地域および市によって保存され、誰でも自由に参拝できる史跡となっています。
パノラマ写真
| 所在地 | 奈良県大和郡山市箕山町14 |
|---|---|
| 建立(埋葬)年 | 1591年(天正19年) — 秀長没後埋葬 |
| 再整備年 | 1777年(安永6年)五輪塔建立および塚の整備 |
| 構造・特徴 | 土壇の上に五輪塔(高さ約2m)+周囲に土塀(かつて) |
| 現存状況 | 良好。現在も五輪塔が残り、自由に参拝可能 |
| 文化財指定 | 市指定文化財(市史跡) |
| 備考 | 墓所前に「お願いの砂箱」が設置されており、願掛けの風習が残っている |
🗺 住所:奈良県大和郡山市箕山町14
🚶 アクセス
最寄り駅:近鉄「近鉄郡山駅」または JR「郡山駅」から徒歩約10〜15分ほど。
⏳ 見学の目安
墓所の見学:約5分
ゆっくり参拝:約15分
📍 見どころ
- 五輪塔:墓所の中心に立つ、高さ約2 mの五輪塔。地輪の表面には秀長の戒名「大光院殿 前亜相春岳 紹栄居士」、裏面には建立に尽力した者たちの名が刻まれており、地域の歴史と人々の祈りが重ねられた石塔です。
- 願掛け「お願いの砂箱」:五輪塔の前にある砂箱に、名前と願い事を書いた紙を入れ、砂を通すと願いが叶うという風習があります。地元の人々や観光客が、秀長にちなんで学業成就・武運・安産などを祈願することも。
- 静かな住宅街の中の歴史の場:現在は住宅街の一角にひっそり佇む墓所。観光地の賑わいからは離れていますが、その静けさゆえに、秀長の時代と現在をつなぐ時間を感じることができます。
📌 トリビア
- 「大納言」の官位にちなむ名称:秀長は生前、朝廷から「従二位権大納言」に任ぜられ、「大和大納言」と称されました。この官位名にちなんで、この墓所は「大納言塚」と呼ばれています。
- 菩提寺の移転と墓所の荒廃、再興の歴史:秀長没後、兄秀吉が建立した菩提寺・大光院が京都へ移され、墓所は一時荒廃。その後、春岳院の僧と町人たちが手を携えて1777年に五輪塔を建て直し、現在の墓所の形を整えました。地元の人々の「秀長を忘れまい」という祈りと努力の結晶です。
- 地域のシビックプライドと歴史の継承:2026年に向けて放送予定の大河ドラマの主人公に秀長が選ばれたことで、地元では改めて大納言塚への注目が高まっており、毎年4月22日前後には「大納言祭」が行われ、地域とともに秀長の遺徳を顕彰する機会となっています。


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