徳川将軍の眠る寛永寺を歩く歴史体験日記

寛永寺

上野の静寂の中で始まる一日

朝から陽射しが容赦なく照りつける上野公園。
待ちに待った「寛永寺・寺子屋体験&徳川将軍御霊廟見学ツアー」の集合場所、上野寛永寺 根本中堂に着いたのは午前10時半。
すでに気温は真夏のようで、石畳を歩く足元から熱気が立ちのぼる。
「この時期、日中に外を歩くのは正直、無謀かもしれない」――そんな思いが頭をよぎるほどの暑さだ。

根本中堂前には、30〜40人ほどの参加者が集まっていた。年齢層は幅広く、カメラを抱えた歴史好きの中年男性から、小さな子を連れた家族連れまで。
ここでスタッフが点呼を取り、やがて落ち着いた雰囲気の住職が現れる。私たちは彼の案内で寺の中へと足を踏み入れた。

いただいた話には、諸説あるとの事だが興味深く聞くことができた。

寛永寺

寺子屋とは?江戸時代の教育の原点

まず最初に案内されたのは、木の温もりを感じる講堂のような畳の一室。
前方には学校の教師席のような机が置かれ、参加者用のテーブルと椅子が整然と並ぶ。
この光景だけでも、これから始まる「寺子屋体験」への期待が高まる。

住職が語り始めたのは、寺子屋の成り立ちについて。
江戸時代、身分の高い子どもたちは家庭教師による教育を受けていたが、それ以外の子どもたちはお寺で読み書きを習った。
お経が中国語(漢文)で書かれていたため、その読み方を教えることから始まったという説もあるそうだ。

当時、文字を読めるのは村長や僧侶などごく一部の人々のみで、名前を付けるのも「文字が読める人」の役割だったという話には驚いた。
比叡山などの寺では、今でもお経の読み方の本が販売されているというのも興味深い。


普段は通れない縁側を歩き、本堂へ

説明が終わると、私たちは列になって本堂へ向かう。
通常は立ち入りが許されない寺の内部を歩くというだけで、胸が高鳴る。
縁側に並ぶ木製の廊下は、歩くたびに足裏にひんやりとした感触を伝え、外の蝉の声と相まって夏の静けさを一層際立たせる。

本堂の中央には、薬師如来像が静かに鎮座していた。
薬師如来は「病を治す仏」として広く知られるが、ここ寛永寺の薬師如来はクラシックバージョンと呼ばれる特別な姿だという。
住職の説明によると、この薬師如来は八本の腕を持ち、そのうち七本の腕には武器が握られている。
かつて戦乱の世において「戦の神」とも崇められた存在であり、残る一本の腕には宝物庫の鍵が握られているのだそうだ。
その鍵は「富をもたらす象徴」であり、戦いと繁栄の両方を司る存在として信仰されてきたという。

さらに、薬師如来の「薬師」という名は「薬を施す者」を意味し、生きている人の病や悩みを癒す存在
一方で、死後の世界を導くのは阿弥陀如来であるという違いにも触れられた。
「生きる今を救う薬師如来」と「死後を導く阿弥陀如来」。
その対比を聞くと、仏教が人の一生に寄り添う体系であることを、改めて実感する。


願いを込める、その先にある「お礼」

祈る前に、住職から大切な心得が伝えられた。
願いをすることは誰でもできるが、願いが叶ったときは必ずお礼をすること
お守りを買って願いを書き留め、叶えば感謝を示す。
それは単なる形式ではなく、仏さまとの誠実な関係を築くための礼儀なのだと感じた。

静まり返った本堂で、住職の読経が始まる。
最初はつぶやくような早口で、やがて耳馴染みのある旋律へと移る。
お経の響きが堂内に反響し、まるで時間そのものが止まったかのような感覚に包まれた。


寺子屋体験と特別なお守り

本堂での祈りを終えて、再び最初の教室のような部屋に戻る。
机の上には、一般には出回らない特別なお守りが整然と並べられていた。
住職の話では、このお守りの色はそれぞれの仏さまの象徴色にちなんでいるという。

掌に乗せた瞬間、柔らかな布の感触とともに、静かな温もりが指先に広がった。
「これは、叶えてほしい願いを込めるものではなく、叶った時にお礼を伝えるためのしるしなんですよ」
住職の言葉が胸に染み入る。江戸の人々も、この小さなお守りに願いと感謝を託したのだろう。

お守りを受け取り、席についた私たちに、住職が静かに語り始めた。
ここ寛永寺と深く結びつく一人の僧――天海大僧侶の物語である。


会津での誕生と修行の旅

天海は、陸奥国会津(現在の福島県)に生まれた。
幼名は舟木。地元の土豪の家の子として生を受け、母は当時の会津を治めていた蘆名(あしな)氏の出自と伝わる。
幼少期から学問に秀で、地元の寺で学びを深めた天海は、やがて更なる高みを求めて諸国を巡る修行の旅に出る。

青年期、彼は比叡山延暦寺をはじめとする名刹や学問所を訪ね歩き、仏教の深奥に触れていく。
しかし、時代は戦国。織田信長による比叡山焼き討ちが起きると、命からがら甲斐国の武田信玄を頼り、一時的に庇護を受けたという。
その後、故郷の蘆名氏に請われて会津に戻るが、再び旅に出て、常陸国(現在の茨城県)の江戸崎不動院の住職となる。


家康との出会い、喜多院へ

天海と徳川家康の運命の出会いは、**関ヶ原の戦い後(1600年以降)**と推定される。
豊臣家の行く末や天下統一後の政治に悩む家康は、深く仏教に傾倒しつつあった。
その中で、天海の豊富な知識と人柄に触れ、彼を厚く信頼するようになる。

元和年間(1612年頃)、天海は武蔵国川越の喜多院の住職に就任。
喜多院は関東天台宗の拠点であり、この地で天海と家康の交流はさらに深まっていった。
喜多院の境内には、のちに江戸城の建築が移築されることになるが、その伏線はここから始まる。


家康死去と「東照大権現」

1616年、家康がこの世を去ると、その神号(神としての名前)をめぐり、大きな論争が起きた。
家康の側近・**金地院崇伝(こんちいんすうでん)**は、豊臣秀吉と同じ「明神」の号を提案するが、天海はこれに強く反対する。

理由は、豊臣秀吉の「豊国大明神」が死後に衰退し、豊臣家が滅んだという近い過去の例だった。
「同じ“明神”では縁起が悪い。徳川家は決して同じ道を辿ってはならない」――
天海はそう主張し、神仏習合の思想に基づいて、**「仏が衆生を救うために仮の姿で現れる存在=権現」**を掲げる。

こうして家康は、**「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」**として祀られ、日光東照宮をはじめ徳川家の守護神となった。
この決断は、徳川政権の永続を願う天海の祈りそのものであった。


江戸都市計画と寛永寺の創建

家康の死後も、天海は二代将軍秀忠、三代将軍家光に重用され、江戸の都市計画や寺社整備に深く関わる。
特に有名なのは、江戸の風水的都市設計――鬼門・裏鬼門の方角に寺社を配置し、江戸城を守護するという構想である。

その一環として、1625年、寛永寺が創建された。
寛永寺は、比叡山延暦寺を模して造営され、「江戸の比叡山」と称された。
ここが徳川将軍家の菩提寺となり、後の徳川将軍御霊廟へとつながっていく。


喜多院の大火と江戸城移築

1638年、川越の喜多院は大火に見舞われ、多くの伽藍を焼失する。
しかし、天海はこの窮地を逆転の契機とした。
三代将軍・家光の命により、江戸城紅葉山御殿の一部を喜多院へ移築し、再建を果たすのだ。

この移築によって、現在の喜多院には江戸城唯一の現存建築が残り、国の重要文化財に指定されている。
喜多院は、天海の功績と徳川家の庇護を象徴する寺院となった。


百年を生きた僧

天海はその後も徳川政権の精神的支柱として、江戸の宗教・文化政策を導き続けた。
驚くべきことに、彼は100歳を超える長寿を全うし、戦国から江戸初期という激動の時代を生き抜いた。

住職の穏やかな語り口に耳を傾けながら、私は蝉の声が響く窓の外を見やった。
もし天海がいなければ、江戸の町も、寛永寺も、そして今日歩いた将軍御霊廟も存在しなかったかもしれない――
そんな思いが胸に広がり、歴史の重みと不思議な敬意が静かに心に刻まれた。

寛永寺と大名の参詣

住職の話は、天海の生涯からさらに広がり、江戸時代の寛永寺の様子へと移っていった。

当時、寛永寺は徳川将軍家の菩提寺として、格式の高い寺院だった。
そのため、将軍家に縁の深い大名(藩主)たちが参詣に訪れることも多かったが、将軍家ゆかりの寺ゆえに参拝の順番待ちが大変だったという。

「大名たちは、順番が来たら家来が呼びに来るようにして、近くの寺で待機していたそうです」
その結果、寛永寺の周辺には大名専用の休憩寺が次々と作られていった。

例えば、**豪徳寺(ごうとくじ)**は彦根藩・井伊家のゆかりであり、
**塔学院(とうがくいん)**には池田家を含む複数の藩が利用する休憩所があったとされる。
こうした寺々は、参詣だけでなく、江戸の大名社会のネットワークを形づくる拠点にもなっていたのだ。


徳川家の紋と二葉葵

また、寛永寺や周辺の寺社には、三つ葉葵の徳川家紋が多く見られる。
その近くに、ひっそりと二葉葵の紋が刻まれていることがあるという。
この二葉葵は、賀茂神社の神紋であり、徳川家康が深く崇敬した神道信仰の名残ともいわれる。
歩きながら葵紋を探すのも、当時の徳川家と神仏習合の関係を知る手がかりになる。


藤堂高虎と「七度主君を変える」言葉

さらに、意外な人物の名前も登場した。
藤堂高虎――江戸初期の武将で、築城の名手として知られ、徳川家からも重用された人物だ。

「一人前の武士になるには、七度主君を変える必要がある」
これは高虎の言葉とされ、波乱に満ちた戦国武将の生き方を象徴する。

高虎の墓は、なんと上野動物園の敷地内にあるという。
江戸の町と現代の東京が、思いがけない場所で重なり合う瞬間だ。

また、家康が天台宗に改宗した際、高虎も同じく改宗したと伝わる。
天海の影響が、こうした武将たちにも及んでいたことを物語っている。


天海と桜 ― 一般公開の寛永寺

寛永寺の歴史を語る上で忘れてはならないのが、天海による桜の植樹だ。
天海は、将軍家の菩提寺である寛永寺を一般庶民にも開かれた場所にしようと考え、奈良から山桜の苗木を取り寄せて植えた。

桜は成長し花を咲かせるまでに長い年月を要する。
しかし、108歳まで生きた天海は、晩年、その花を満開の姿で眺めたのではないか――
そう語る住職の声には、どこか感慨がこもっていた。


図書館の起源と地名

さらに驚いたのは、日本の図書館の起源がここ寛永寺にあるという話だ。
天海が集めた経典や文献が、後の図書館機能の原型となり、学問の中心地としての役割も果たしていたのだという。

そして、寛永寺周辺の地名にも秘密がある。
「坂下」などの名前は、天海が比叡山の地名を真似て付けたものだという。
江戸の町に、遠い比叡山の気配を重ね合わせた天海の想いが、今も地名として息づいている。


歴史の中で息づく寛永寺

住職の語りは、天海の生涯から、寛永寺を中心とした江戸の宗教文化、そして現代にまで続く歴史の痕跡へと広がった。
静かな寺の空気の中で、かつての大名や庶民、武将や僧侶の姿が重なり合うように思えた。

「天海がいなければ、この桜も、この寺も、この江戸の町並みも生まれなかったかもしれない」
そう感じながら、私はこれから訪れる徳川将軍御霊廟へと、心を整えて向かうのだった。

寛永寺 徳川将軍御霊廟

赤い勅額門から始まる、非公開の世界

寛永寺の境内を歩き、まず目に飛び込んできたのは、一般公開エリアからも見える赤い「厳有院霊廟勅額門」
朱色の門は、時を経た今も鮮やかで、どこか厳かな気配を放っている。
その脇を抜けると、いよいよ非公開エリアへの入口――静けさと期待が同時に胸を満たす瞬間だった。

高い塀に挟まれた細い道を進むと、木々がうっそうと茂り、風が葉を揺らす音が心地よく耳に届く。
ふと見上げると、木漏れ日が差し込み、石板が敷かれた参道を柔らかな緑に染めていた。
その先に、いくつもの時代を越えた将軍たちの眠る御霊廟がひっそりと佇んでいる。


常憲院殿御宝塔 ― 五代将軍・綱吉公

最初に目にしたのは、常憲院殿御宝塔(じょうけんいんでんごほうとう)、五代将軍・徳川綱吉公の墓所だった。
重厚な銅造りの宝塔が、深い緑の中で静かに時を刻む。

住職の説明によると、仏教では**「長く続くこと」が良し**とされ、通常は石造りのお墓が多いが、銅はさらに長持ちし、かつ費用も莫大なため、特別に格式の高い墓とされるという。
綱吉公の墓が銅で造られたのは、その地位と時代の繁栄を象徴しているのだろう。


増上寺との違い

ここでふと思い出したのが、芝の増上寺にある徳川将軍家の墓所。
増上寺では墓が一か所に集められているが、寛永寺では一基ごとに独立して配置されている
それはまるで、家康公の墓(日光東照宮)が独立している姿を思わせ、将軍一人ひとりの存在感を際立たせていた。


有徳院殿御宝塔 ― 八代将軍・吉宗公

次に訪れたのは、有徳院殿御宝塔(ゆうとくいんでんごほうとう)、八代将軍・徳川吉宗公の墓所だ。
暴れん坊将軍として知られる吉宗公は、質素倹約を重んじた人物。
その影響か、吉宗の墓は石造りとなっていた。

「この時代になると、幕府の財政も厳しくなり、墓の造営にかける費用も制限されるようになりました」
住職の説明に、時代の移り変わりを感じずにはいられない。
それでも、立派な台座の上に鎮座する墓は堂々たる風格を漂わせていた。


徳川家治・家定・篤姫の墓

続いて案内されたのは、第十代将軍・徳川家治の墓所、そして第十三代将軍・徳川家定とその正室、**天璋院(篤姫)**の墓所だ。

驚いたのは、篤姫の墓が夫・家定の隣にあったこと。
これまでの将軍家の墓所は夫婦別々に祀られていたが、篤姫の死去は明治時代に入ってからであり、江戸幕府のしきたりが既に失われていたため、夫婦で隣り合わせに眠るという稀有な形となったのだという。

幕末の動乱を生き抜いた篤姫が、家定と静かに並んで眠る姿を想像すると、胸に温かな余韻が広がった。


静寂の中で終わるツアー

すべての御宝塔を巡り終えると、再び石板の参道を歩き、勅額門の前に戻った。
蝉の声と木々のざわめきが混じり合い、まるで江戸と現代の境界を越えてきたかのような不思議な感覚が残る。

徳川将軍たちが眠るこの場所は、単なる墓所ではなく、江戸という時代そのものを映し出す場所だ。
豪奢な銅造りから質素な石造りへの変遷は、繁栄と衰退、そして歴史の流れを物語っていた。


寛永寺 徳川将軍御霊廟

旅を終えて

ツアーを終えて振り返ると、寛永寺という場所が、

  • 天海大僧侶の壮大な構想
  • 大名たちが参詣に集う格式
  • 徳川将軍たちの眠る静謐な御霊廟

それらすべてを抱え込む、江戸の精神的中心地であったことを改めて実感した。

「歴史は、今もここに息づいている」――
そう感じながら、私はゆっくりと門を後にした。

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