見逃されがちな城の“陰の主役”たち
二条城を支えた門と防御施設には、江戸時代の築城思想が色濃く息づいています。
南北の防御を司る鳴子門と北中仕切門は、それぞれ構造に工夫を凝らした堅牢な門。そして西北隅櫓跡は、天明の大火により焼失した幻の櫓の痕跡として、今も静かに歴史を伝えます。これらのディテールにこそ、城の真価が宿ります。
鳴子門

🏛 概要
鳴子門は、二条城本丸の北側に位置する重要な門で、1626年(寛永3年)頃に建築されました。南側にある桃山門と対をなしており、本丸の防御を強化する役割を果たしていました。
門の形式は、正面と背面に4本の控柱を持つ「四脚門」です。ただし、正面の控柱の突出が小さいため、外観上は四脚門には見えません。これは、控柱が壊されると門が倒れてしまうという弱点を補うための工夫と考えられています。このような構造の門は非常に珍しく、二条城内では他に唐門が同様の構造を持っています。
項目 | 内容 |
---|---|
築造年 | 1625-1626年(慶長7〜8年)及び1626年(寛永3年)頃 |
築造者 | 不明(幕府の城郭整備の一環と推定) |
構造・特徴 | 脇戸付き一間門、一重、切妻造、本瓦葺。 正面・背面に控柱を立てた「四脚門」形式とされるが、控柱の出が小さく、見た目には四脚門とわかりにくい構造。 南の桃山門と対をなす門で、北側から本丸を防御する位置付け。 |
改修・復元歴 | 明確な改修記録は少ないが、維持修理が行われてきたとされる |
現存状況 | 現存。国の重要文化財に指定されている。 |
消滅・損壊 | 重大な焼失・損壊記録は確認されていない |
文化財指定 | 国の重要文化財(1939年10月28日指定) |
備考 | 見た目は小ぶりな門だが、珍しい構造ゆえ注目される。 二の丸と本丸を分ける通路北端の門であり、桃山門と対をなす位置関係。 屋根には菊花紋を模した飾り瓦がある。 |
🚶 アクセス
平安宮東限から徒歩約2分(約120m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約20分(門の構造や周辺の防御施設を詳しく観察する場合)
📍 見どころ
🔹 四脚門の構造:
鳴子門は、正面と背面に4本の控柱を持つ「四脚門」です。ただし、正面の控柱の突出が小さいため、外観上は四脚門には見えません。これは、控柱が壊されると門が倒れてしまうという弱点を補うための工夫と考えられています。
🔹 桃山門との対比:
鳴子門は、南側にある桃山門と対をなしており、本丸の防御を強化する役割を果たしていました。両門の構造や配置を比較することで、当時の防御戦略を理解する手がかりとなります。
🔹 珍しい構造:
このような構造の門は非常に珍しく、二条城内では他に唐門が同様の構造を持っています。
📌 トリビア
💡 意外な歴史的背景:
鳴子門は、1626年(寛永3年)頃に建築され、当時の防御戦略や建築技術を反映した構造となっています。
💡 知る人ぞ知る情報:
門の屋根には、徳川家の家紋である「三つ葉葵」が施された鬼瓦が取り付けられており、細部にまで意匠が凝らされています。
💡 著名人との関係:
鳴子門は、後水尾天皇の行幸時に整備されたとされ、天皇の安全な移動を確保するためのルートとしても機能していた可能性があります。
北中仕切門

🏛 概要
北中仕切門は、二条城本丸の北側に位置する重要な門で、1626年(寛永3年)頃に建築されました。南側にある南中仕切門と対をなしており、本丸の防御を強化する役割を果たしていました。
門の形式は、一間一戸の招造庇付本瓦葺で、石垣に囲まれた「埋門(うずみもん)」と呼ばれる構造です。このような構造は、門の両側に石垣が積まれ、屋根の一部が石垣に覆われることで、敵の侵入を防ぐ工夫が施されています。
また、門の通路は直線ではなく、クランク状に折れ曲がっており、敵の進入を複雑化させることで、防御性を高めています。このような構造は、江戸時代の城郭建築において、特に重要な防御拠点に採用されました。
項目 | 内容 |
---|---|
築造年 | 1625〜1626年(寛永2〜3年)頃 |
築造者 | 徳川家光(江戸幕府による本丸整備事業の一環) |
構造・特徴 | 一間一戸の小門、入母屋造、本瓦葺。 南中仕切門と対をなす位置にあり、二の丸と西二の丸の境界を仕切る。 構造は簡素ながら、堅牢な扉金具・控柱を持ち、実用性重視の設計。 |
改修・復元歴 | 江戸期以降、屋根葺替や扉補修が実施されている。 |
現存状況 | 現存。南中仕切門とともに保存され、城内構成要素として公開されている。 |
消滅・損壊 | 焼失や戦災による損壊記録はない。 |
文化財指定 | 国の重要文化財(1939年10月28日指定) |
備考 | 北中仕切門は南中仕切門と対を成す構成で、二条城の防御構造を示す。 扉金具は厚く、実戦的な設計。 現在も二の丸北側の通路として位置を確認できる。 |
🗺 住所:
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
🚶 アクセス
鳴子門から徒歩約2分(約150m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約20分(門の構造や周辺の防御施設を詳しく観察する場合)
📍 見どころ
🔹 埋門の構造:
北中仕切門は、石垣に囲まれた「埋門」と呼ばれる構造で、門の両側に石垣が積まれ、屋根の一部が石垣に覆われています。このような構造は、敵の侵入を防ぐ工夫が施されています。
🔹 クランク状の通路:
門の通路は直線ではなく、クランク状に折れ曲がっており、敵の進入を複雑化させることで、防御性を高めています。このような構造は、江戸時代の城郭建築において、特に重要な防御拠点に採用されました。
🔹 南中仕切門との対比:
北中仕切門は、南側にある南中仕切門と対をなしており、本丸の防御を強化する役割を果たしていました。両門の構造や配置を比較することで、当時の防御戦略を理解する手がかりとなります。
📌 トリビア
💡 意外な歴史的背景:
北中仕切門は、1626年(寛永3年)頃に建築され、当時の防御戦略や建築技術を反映した構造となっています。
💡 知る人ぞ知る情報:
門の屋根には、徳川家の家紋である「三つ葉葵」が施された鬼瓦が取り付けられており、細部にまで意匠が凝らされています。
💡 著名人との関係:
北中仕切門は、後水尾天皇の行幸時に整備されたとされ、天皇の安全な移動を確保するためのルートとしても機能していた可能性があります。
西北隅櫓跡

🏛 概要
西北隅櫓跡は、二条城の外堀北西隅に位置する、かつての隅櫓(すみやぐら)の跡地です。二条城には、外堀と内堀の四隅および外堀北中央に計9棟の櫓が存在しましたが、1788年(天明8年)の大火により北側の2棟が失われ、現在は東南隅櫓と西南隅櫓の2棟のみが現存しています。西北隅櫓もこの大火で焼失し、以降再建されることはありませんでした。
櫓は、城の防御施設として、見張り台や武器庫の役割を果たしていました。西北隅櫓も、外堀と内堀の交差点に位置し、城の北西方面の警備を担っていたと考えられます。
現在、跡地には櫓の基礎部分や石垣の一部が残されており、当時の構造を偲ぶことができます。また、周辺には説明板が設置されており、訪れる人々に歴史的背景を伝えています。
項目 | 内容 |
---|---|
築造年 | 1626年(寛永3年)頃、徳川家光による本丸整備時に築造 |
築造者 | 徳川家光(江戸幕府) |
構造・特徴 | 本丸北西角に建てられた隅櫓(すみやぐら)。 二重二階建、入母屋造、本瓦葺で、城郭防衛の要所をなす櫓であった。 北・西の両面を監視できる位置にあり、他の隅櫓と連携して防御線を形成していた。 |
改修・復元歴 | 江戸時代を通じて修繕が行われたが、明確な復元はされていない。 現在は櫓台の石垣がわずかに残るのみである。 |
現存状況 | 櫓本体は焼失し、現存しない。 天明8年(1788年)の大火により焼失したとされ、跡地のみが残る。 |
消滅・損壊 | 1788年(天明8年)の大火で焼失。以後再建されなかった。 |
文化財指定 | 西北隅櫓跡としての単独指定はなし(城郭遺構の一部として保存)。 |
備考 | 二条城には四隅に櫓が設けられていたが、現存するのは東南・西南の二基のみ。 北西隅櫓跡は本丸北西部に位置し、石垣の一部が遺構として確認できる。 櫓跡からは北側堀と京都市街を望むことができる。 |
🗺 住所:
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
🚶 アクセス
スタート地点:北中仕切門から徒歩約5分(約300m)
⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約20分(石垣の構造や周辺の防御施設を詳しく観察する場合)
📍 見どころ
🔹 石垣の構造:
西北隅櫓跡には、櫓の基礎部分や石垣の一部が残されており、当時の構造を偲ぶことができます。石垣の積み方や形状から、江戸時代の築城技術を学ぶことができます。
🔹 周辺の防御施設:
西北隅櫓跡周辺には、外堀や土塀などの防御施設が残されており、城の防御体制を理解する手がかりとなります。
🔹 説明板:
跡地には説明板が設置されており、訪れる人々に歴史的背景を伝えています。
📌 トリビア
💡 意外な歴史的背景:
西北隅櫓は、1788年(天明8年)の大火で焼失し、以降再建されることはありませんでした。この大火では、二条城の北側の櫓2棟が失われました。
💡 知る人ぞ知る情報:
西北隅櫓跡の石垣には、江戸時代の築城技術が色濃く残されており、石の積み方や形状から当時の技術を学ぶことができます。
💡 著名人との関係:
西北隅櫓は、徳川家康が築城した二条城の防御施設の一つであり、江戸幕府の権力を象徴する建物でした。また、1788年の大火では、京都市内の多くの建物が焼失し、西北隅櫓もその被害を受けました。
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