織田信長 ゆかりの地 清洲編

名古屋のすぐ隣にありながら、清洲(清須)には「都が移ったあと」の静けさが残っています。けれどこの町は、信長が尾張をまとめ、桶狭間へ踏み出した“出発点”であり、本能寺の変ののちには清須会議が開かれた、戦国の流れが折り返す「分岐点」でもあります。

そして今、清洲は2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の“序盤の要所”としても注目の舞台。第1回では、藤吉郎(のちの秀吉)が弟・小一郎(のちの秀長)を「清須へ行こう」と誘い、農の暮らしに満足していた小一郎が戸惑いながらもついて行く——その先に、若き織田信長が待っています。さらに物語は清須を軸に動き、信長が尾張統一へ動き出す場面も描かれていきます。

このページでは、清洲という街のバックグラウンドを軸に、總見院、織田信長公社、清須古城石垣、清須城、清洲公園までを“歩いてつなげる旅”として実際に歩いて撮影した写真(360度パノラマ含む)とともに整理しました。ドラマを観てからでも、観る前でも刺さる——信長と豊臣兄弟の物語が交差する清洲へ、さあ出かけましょう。

清洲(清須)

⭐おすすめ度
 歴史的価値:[☆☆☆]
 視覚的魅力:[☆☆☆]
 体験的価値:[☆☆☆]

名古屋のすぐ隣にありながら、清洲(清須)の空気には「都が移ったあと」の静けさが残っています。五条川と新川、庄内川の水がつくる低地の風景は、いまは穏やかな散策路。でも戦国期、この水と道こそが“街の強さ”でした。尾張平野の要所として、人・物・情報が集まる結節点——それが清洲という街の原点です。市の公式プロフィールでも、清須の歴史は弥生時代の朝日貝塚(朝日遺跡)までさかのぼり、室町期に清洲周辺が尾張の中心として形づくられていったことが語られています。

織田信長が那古野城から清洲へ入り、ここを拠点に尾張を掌握していく(1555年)のは、街が「武の中枢」として機能していたからこそ。清洲は単に“城がある場所”ではなく、街道と市場、川の舟運が結びついた都市でした。美濃街道は名古屋と中山道をつなぐ重要路として位置づけられ、こうした水陸の利が、信長の天下取りを支える舞台装置となりました。清須越を経て江戸期に入ると、この地は美濃路の宿場町として再出発。1622年には「清須の青物市場(小田井市)」が始まり、尾張の台所を支える商いの街としての新たな歴史を刻みました。

そして本能寺の変ののち、後継と領国配分を協議する「清須会議」が開かれたことで、清洲は“天下の行方を決める会議都市”として記憶されます。さらに江戸初期、徳川家康が名古屋城と碁盤割の城下町を整備すると、尾張の中心だった清須の町ごと名古屋へ移す「清須(清洲)越し」が進み、都市の主役は名古屋へ——清洲には、かつての繁栄の輪郭が残されました。いま五条川の風に当たると、戦国の喧騒と、移転後の静けさが同じ景色の中で折り重なるのがわかります。

パノラマ写真

築造年15世紀初頭(1405年に清須城が築かれ、城下町が形成)
築造者斯波義重(尾張守護)とされる
構造・特徴河川(五条川・新川など)の水系と街道網に支えられた城下町・宿場町機能
改修・復元歴17世紀初頭に「清須(清洲)越し」で都市機能が名古屋へ段階的に移転/清洲公園は1922年開園、1999年にリニューアル
現存状況旧中心部は近代以降の市街地として継続。五条川沿いの散策環境や史跡公園として記憶が継承
消滅・損壊「清須(清洲)越し」により中心市街・寺社・町人地などが名古屋へ移転し、往時の都市規模は縮小
文化財指定史跡貝殻山貝塚(国史跡)/朝日遺跡出土品(国指定重要文化財)など。清須市指定文化財もあり
備考春は五条川沿いの桜が街の“名物の回廊”に。清洲周辺は戦国史と古代史(朝日遺跡)が一度に触れられる稀有なエリア

🗺 住所:愛知県清須市清洲周辺
🚶 アクセス
最寄り駅:名鉄名古屋本線 新清洲駅もしくは、JR線 清洲駅

⏳ 見学の目安
何処を回るかにもよりますが、1時間~3時間

📍 見どころ

  • 五条川の水辺景観:城下町の記憶を抱えた川沿いは、歩くほどに“街の骨格”が見えてくる散策ルート。
  • 旧街道(美濃街道)と宿場の面影:名古屋と中山道を結ぶ重要路として位置づけられた道筋を辿ると、清洲が「通過点ではなく目的地だった」理由が腑に落ちます。
  • 季節限定の楽しみ方:桜の時期は清洲城五条川対岸で「清洲城桜まつり」などが行われ、夜桜提灯の風景が水辺に映えます。

📌 トリビア

  • 意外な歴史的背景:清須の物語は戦国だけでなく、弥生時代から続く朝日遺跡(貝殻山貝塚の国史跡・出土品の重要文化財)という“もう一つの都”も抱えています。
  • 知る人ぞ知る情報:「清須(清洲)越し」は、名古屋城下の碁盤割の町づくりとセットで進められた“都市まるごと引っ越し”——清洲は名古屋の原型を生んだ側面があります。
  • 著名人との関係:信長の入城(1555年)で清洲は天下取りの始発点となり、本能寺の変後には「清洲会議」で後継と領地配分が協議されました。

スポット紹介

興聖山 總見院(総見院)

⭐おすすめ度
 歴史的価値:[☆☆☆]
 視覚的魅力:[☆☆]
 体験的価値:[☆☆]

本能寺で遺骸が見つからなかった武将 織田信長——その“空白”を、祈りの形に変えようとしたのが、ここ興聖山・總見院です。そもそもの出発点は、信長の子・織田信雄(のぶかつ)が父を弔うため、伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、天正11年(1583)に「景陽山總見寺」を建立したこと(公式由緒)にあります。

けれど清洲の歴史は、ひと筋縄ではいきません。清須城下の寺もまた「清須(清洲)越し」にのみこまれ、慶長15年(1610)に城下町ごと名古屋へ移って旧地は遺跡となった——そのあと、總見寺ゆかりの地を“もう一度、祈りの場として戻す”ように再興されたのが總見院(創建:1644年)です。再興にあたっては、尾張藩初代・徳川義直が「興聖山總見院」と名づけたことも伝わり、織田の記憶を徳川が引き受けていく、尾張ならではの歴史の継ぎ目がここに残ります。

旅人の心を強く揺さぶるのは、寺宝の「焼け兜」。本能寺の変直後、信雄が焼け跡を捜索させて探し当てた兜と説明され、装飾が焼け落ちた鉢の痛ましさが、史料では埋まらない“現実の温度”として迫ってきます(拝観は要予約)。静かな境内でその一点を見つめる時間は、清洲という街が抱えてきた戦国の記憶を、ひと息で自分の旅の体験に引き寄せてくれます。

築造年1644年(正保元年)※旧・總見寺の旧地に再興
築造者永吃(えいきつ)和尚(總見寺3世)が再興
構造・特徴臨済宗妙心寺派の寺院。山門・本堂・鐘楼などを備え、寺宝に「伝・織田信長焼兜」などを伝える
改修・復元歴1585年に地震で大破し清洲に再建/1610年の清須(清洲)越しで總見寺が名古屋へ移転し旧地は遺跡化/1644年に總見院として再興
現存状況本堂・山門など現存。常時拝観ではなく、拝観は事前連絡・要予約
消滅・損壊1585年の地震で大破/1610年の清須(清洲)越しで旧・總見寺は移転し、旧地はいったん遺跡となった
文化財指定愛知県指定文化財:木造観音菩薩立像(彫刻)、唐絹織紫衣(工芸) ※織田信雄ゆかりの寄進品と伝えられる
備考本能寺の変の「焼け兜」を伝える“信長の手触り”に出会える寺。美濃路(旧街道)散策と相性がよい

🗺 住所:〒452-0934 愛知県清須市大嶋1丁目5-2
🚶 アクセス
最寄り駅:JR東海道本線「清洲駅」から徒歩6分(約0.45km)

⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約30分

📍 見どころ

  • 寺宝「焼け兜」:本能寺の変直後に信雄が探し当てたとされる兜。焼け落ちた装飾の“欠け方”が、出来事の残酷さを無言で語ります(拝観は要予約)。
  • 山門と鐘楼の取り合わせ:街道沿いの凛とした構え。写真に収めると、城下町の寺らしい“表の顔”がよく出ます。
  • 季節限定の楽しみ方:春は五条川の桜並木と組み合わせて、清洲の「水辺の季節感」と“信長ゆかり”を一日で味わうのがおすすめ。

📌 トリビア

  • 意外な歴史的背景:總見院は「最初からここにあった寺」ではなく、清須(清洲)越しでいったん旧地が遺跡となったのち、1644年に“旧地回帰”する形で再興された寺です。
  • 三つの「総見」と信長の供養:信長を祀る寺は他方にもありますが、建立の背景がそれぞれ異なります。
    • 安土(摠見寺):信長自身が安土城内に建立したルーツ。清洲と同じ「臨済宗妙心寺派」です。
    • 京都(総見院):豊臣秀吉が「信長の後継者」を世に示すため、京都大徳寺に建立。
    • 清洲(總見院):次男・信雄が「子」として父を弔うために建立。安土の寺号と宗派を継承した、最も血縁の情愛が深い場所と言えます。
  • 著名人との関係:起源は織田信雄によるものですが、一度失われたこの寺を再興させ、現在の名を与えたのは徳川家康の九男・徳川義直です。織田の記憶を徳川が守り継いだ、清洲ならではの「時代のバトンタッチ」を感じさせる場所です。
  • 知る人ぞ知る情報:拝観は常時ではなく、事前連絡・要予約の案内があります。予定が決まったら早めに連絡を。

織田信長公社(清洲古城跡公園内)

⭐おすすめ度
 歴史的価値:[☆☆]
 視覚的魅力:[☆]
 体験的価値:[☆☆]

清洲を歩く旅の核心は、巨大な建物ではなく「祈りの小ささ」に宿ることがあります。清洲古城跡公園の本丸跡付近にひっそりと鎮座する織田信長公社。ここは信長を“郷土の守り神”として祀る場所です。この地には、本能寺の変で亡くなった信長を悼み、その最期の場所を見立てて整えられたという伝承もあり、清須市の案内でも幕末の顕彰碑と並び「信長を祠る小社」として紹介されています。毎年6月2日の命日には、ここで「織田信長公顕彰祭」が執り行われ、時を超えて今もなお祈りが捧げられ続けています。

社が大きく主張しないぶん、参拝は“静かな対話”になります。小高い場所に鎮座するため、木々の間を抜けてたどり着く道のり自体が、気持ちを整える小さな儀式。派手な演出がないからこそ、信長をめぐる物語を自分の速度で反芻できる——清洲という街に似合う、控えめで強い追悼のかたちです。

そして、年に一度だけ空気が変わる日があります。清須市観光協会の告知によれば、顕彰祭は「毎年6月2日」に執り行われ、神事や式典、奉納などが予定されます。旅程が合えば、信長が“歴史上の人物”から“郷土の英雄”へと戻る瞬間に立ち会えるはずです。

パノラマ写真

築造年不詳(明治期の公園整備や顕彰碑建立に関連すると見られる)
築造者地元住民・有志(現在は清須市観光協会などが顕彰祭を主催)
構造・特徴織田信長を祀る「小社」(清洲古城跡公園内)。命日に社前で顕彰祭が行われる
改修・復元歴不詳(公的案内ページ等に改修履歴の明記なし)
現存状況現存(公園内の参拝スポットとして案内あり)
消滅・損壊不詳(公的案内ページ等に記載なし)
文化財指定文化財指定の記載は確認できず(市の施設案内・観光案内に記載なし)
備考毎年6月2日に「織田信長公顕彰祭」(神事・式典など)

🗺 住所:〒452-0942 愛知県清須市清洲古城448番地(清洲古城跡公園内)
🚶 アクセス
總見院から徒歩20分(約1.5km)

⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約5分
じっくり観光するなら:約20分

📍 見どころ

  • 「信長を祠る小社」そのもの:大きな社殿ではなく“小さな祈り”で信長を迎える場所。参拝は短時間でも、余韻は長く残ります。
  • 顕彰祭の舞台(社前):顕彰祭の舞台(社前):毎年6月2日、信長の命日に合わせて神事が行われます。太鼓の奉納や民謡踊りなどが執り行われる年もあり、静かな公園がこの日ばかりは郷土の英雄を称える特別な空間へと変わります。
  • 季節限定の楽しみ方:6月2日は「織田信長公顕彰祭」。また春は周辺一帯が桜シーズンで賑わい、参拝+散策が気持ちいい時期です。

📌 トリビア

  • 意外な歴史的背景:この小社が建つ一帯は、清須城の「本丸跡」にあたります。大正から昭和にかけて、本能寺の変で亡くなった信長を悼み、この場所を「本能寺」に見立てて小社や庭園が整えられたという背景があります。
  • 知る人ぞ知る情報:公園の中でも“社”は目立ちにくく、木々の奥へ進むと現れるタイプ。先に場所のあたりをつけておくとスムーズです。
  • 著名人との関係:顕彰祭は信長の命日(6月2日)にあわせて毎年実施。神事・式典などが行われると案内されています。

清洲ふるさとのやかた

⭐おすすめ度
 歴史的価値:[ー]
 視覚的魅力:[☆☆]
 体験的価値:[☆☆]

清洲で“信長の気配”を追いかける旅は、史跡だけで完結しません。戦国の舞台を歩いたあと、息を整え、頭の中の年表を「体験」に変える場所——それが清洲城の前にかかる朱色の大手橋、その対岸に建つ無料休憩施設「清洲ふるさとのやかた」です。清洲古城跡公園に隣接し、大手橋から清洲城全景を望める立地は、まさに“物語の見晴らし台”。散策で火照った足を休めながら、信長が尾張を束ねていった城下の地形や、水路(五条川)に守られた要害感を、いまの景色に重ねて味わえます。館内では信長の偉業にちなむ土産物も扱われ、清洲という街が「信長の出発点」を観光の言葉に翻訳して、来訪者へ手渡してくれる拠点になっています。

もう一歩、信長へ近づける仕掛けもあります。地下には「清洲甲冑工房」があり、信長が考案したといわれる桶側胴(おけがわどう)当世甲冑をモデルに、アルミ製の甲冑づくりが行われています。工房の様子を間近に見られるだけでなく、製作された甲冑は清洲城内で試着できる——史跡の“見る”から、武具文化の“触れる”へ。清洲の旅を一段深くする、現代ならではの体験導線です。

築造年不詳(公的施設案内ページ等に明記なし)
築造者清須市(観光施設として運営)
構造・特徴無料休憩所+物産・土産販売/清洲古城跡公園に隣接し、大手橋から清洲城全景を望める
改修・復元歴不詳(公的資料に明記なし)
現存状況現存(9:00〜17:00開館、月曜休館ほか。桜の花見期間は休館日除外の案内あり)
消滅・損壊該当なし
文化財指定なし(施設としての文化財指定は確認できず)
備考地下に清洲甲冑工房/ボランティアガイド受付も案内あり

🗺 住所:〒452-0942 愛知県清須市清洲古城479-1
🚶 アクセス
前のスポット「清洲古城跡公園(織田信長公社)」から徒歩1分(約100m)

⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約30分

📍 見どころ

  • 大手橋越しの清洲城ビュー:清洲城全景を望める“特等席”。散策後に座って眺めると、城下の地形まで読み解けます。
  • 土産・物産コーナー:信長にちなんだ土産も扱うので、旅の記憶を「手元に残る形」に変えられます。
  • 季節限定の楽しみ方:桜の花見期間は休館日(通常は月曜)を除く案内があり、春の五条川散策と相性抜群です。

📌 トリビア

  • 意外な歴史的背景:ここは「清洲古城跡公園に隣接」する休憩拠点。史跡巡りの“間”をつなぐことで、清洲の旅がぐっと歩きやすくなります。
  • 知る人ぞ知る情報:地下の清洲甲冑工房では、桶側胴当世甲冑をモデルにしたアルミ製甲冑を製作。ものづくりの現場を間近に見られます。
  • 著名人との関係:清洲は信長の“天下取りの出発点”。この施設でも、信長にちなむ土産や企画が用意され、旅人は史跡の余韻を持ち帰れます。

清洲古城石垣(清洲古城跡公園・復元石垣)

⭐おすすめ度
 歴史的価値:[☆☆☆]
 視覚的魅力:[☆☆]
 体験的価値:[☆☆]

五条川の風を受ける清洲古城跡公園で、ふいに視界を奪うのが、この「清洲古城石垣」です。石はきれいに切り揃えられた近世城郭の石垣とは違い、自然石を活かした野面積み。その素朴さが、清洲が“戦国の都”へと変貌していく途上にあったことを、むしろ雄弁に語ります。

織田信長が清洲を拠点に勢力を伸ばした時代を経て、本能寺の変ののち城主となった信長の次男・織田信雄は、天正14年(1586年)に清須城を大改修したとされます。軟弱な地盤に巨大な石垣を築くため、松材の杭を打ち込み、その上に「梯子胴木(はしごどうぎ)」と呼ばれるハシゴ状の土台を敷く高度な基礎工事が施されていました。この石垣は、中世の「土の城」から近世の「石の城」へと進化する過渡期の土木技術を現代に伝える、極めて貴重な証拠です。

慶長15年(1610)の「清須(清洲)越し」に際し、多くの石材が名古屋城築城のために転用されたと伝えられています。長らく地中に埋もれていましたが、1996年(平成8年)の河川事業に伴う調査で石材が発見され、本丸東側の石垣の一部が奇跡的に発見され、現在の公園内へと移築・復元されました。目の前の石の凹凸に触れるたび、信長が見据えた尾張の未来と、信雄が試みた「城郭の近世化」が、一本の線でつながっていくのを感じられるはずです。

築造年天正14年(1586年)頃(清須城大改修期の築造と推定)
築造者織田信雄(信長の次男/当時の城主)
構造・特徴野面積み。弱い沖積地盤に対応するため、杭・土台木などで基礎固めを施した石垣構造が特徴
改修・復元歴1996年(平成8年)の河川事業(五条川護岸工事等)に伴う調査で確認された石材を、清洲古城跡公園内に移築復元
現存状況清洲古城跡公園内で、石垣が展示(移築復元)されている
消滅・損壊清洲越し(慶長15年・1610年)以降、清須城は資材転用などにより廃城となり、遺構の多くは失われた
文化財指定個別の文化財指定について、公的ページ上で明確な記載を確認できず(現地は史跡・遺跡として保存整備)
備考清須城本丸の防御に関わる石垣(本丸東面を防御した石垣)として紹介・推定されている

🗺 住所:〒452-0942 愛知県清須市清洲古城448番地(清洲古城跡公園)
🚶 アクセス
「清洲ふるさとのやかた」から徒歩1分(約21m)

⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約10分
じっくり観光するなら:約30分

📍 見どころ

  • 野面積みの“戦国らしさ”:切石の整然さとは違う、自然石の凹凸がつくる表情が、清洲の戦国期の空気感をそのまま伝えます。
  • 地盤に挑んだ基礎技術:沖積地の弱い地盤でも石垣を成立させるため、杭や土台木で基礎固めを行った点が大きな見どころ。説明板と合わせると理解が深まります。
  • 季節限定の楽しみ方:春は五条川沿いの桜とあわせて散策が気持ちいい時期。周辺は花見ムードに包まれます。

📌 トリビア

  • 意外な歴史的背景:清洲越しの際、石垣は名古屋城へ再利用するために運び出されたとされています。今ここにある石垣は、地中に深く埋まっていた基礎部分が平成の工事で偶然発見されたものです。いわば「名古屋に行きそびれた石たち」が、かつての清洲の栄華を今に伝えています。
  • 知る人ぞ知る情報:石垣そのもの以上に注目したいのが「地盤対策」。城の防御は石の高さだけでなく、足元の工夫で決まる――その発想が見える遺構です。
  • 著名人との関係:この石垣を築いたのは信長の次男・織田信雄です。彼は「凡庸な人物」と評されることもありますが、清須城を石垣のある壮麗な近世城郭へとアップデートさせたその土木・建築センスを、この遺構は無言で物語っています。

清洲城(清須市・再建天主閣と城内体験スポット)

⭐おすすめ度
 歴史的価値:[☆☆]
 視覚的魅力:[☆☆☆]
 体験的価値:[☆☆☆]

五条川のほとりに朱の大手橋が架かり、金鯱を戴く天主閣が水面に映る——いま私たちが出会う清洲城は、戦国の“実物”をそのまま残す場所ではなく、清須の歴史を展示と体感で立ち上げる「再建の城」です。けれど、ここに立つと、織田信長が那古野城から清須へ移り、桶狭間へと駆け出していった“天下取りの助走路”が、確かにこの町の地勢と交通の要衝性に支えられていたことが腑に落ちます。

信長が清須にいたころの城は、のちの近世城郭のイメージとは違い、守護所を核とした“館”に近い性格だったと考えられています。一方で、本能寺の変の後に清須会議を経て城主となった信雄は、天守を備えた大規模な城郭へ改修し、清須は城下の機能まで抱え込む巨大な城塞都市として最盛期を迎えました。

しかし慶長15年(1610)の「清須越」で城と町の中心機能は名古屋へ移り、清須越(1610年)により城は解体され、その資材は名古屋城へと引き継がれました。名古屋城の西北隅櫓が「清洲櫓」と呼ばれるのは、この時の古材を転用したためと伝えられています。

歴史の表舞台から一度消えたこの地に、1989年、清洲のシンボルとして再建されたのが現在の天主閣。ここは単なる見学場所ではなく、五条川の景観も含めた「回遊型歴史ミュージアム」として楽しむのが正解です。

朱塗りの大手橋から入り、名前の付いた大手門をくぐり、門脇の信長塀(熱田神宮の信長塀をモデルにした再現)で信長の気配を拾う。続いて枯山水の日本庭園へ足を向ければ、水琴窟の澄んだ音が旅のテンポを整えてくれます。天主閣の館内は1階から4階まで、清須の成り立ちと歩み、城下の喧騒を追体験できるバーチャルウォーク、清須会議の映像シアター、桶狭間の体感シアター、火縄銃体験シアター、そして最上階の展望(双眼鏡・清須からくり望遠鏡)まで、戦国を“読む”だけでなく“体で覚える”仕掛けが連続します。さらに隣接する芸能文化館では、映画『清須会議』の舞台背景のモデルとなった「黒木書院」が見学できるほか、土日祝には甲冑や打掛の試着体験(有料)も行われています。また、清洲城記念メダルの販売や、時期によっては「清洲城おもてなし隊」によるパフォーマンス、吊るし雛展示など、いつ訪れても地域の温かみを感じる催しが揃っています。

パノラマ写真

大手橋

大手門の内側1

大手門の内側2

大手門の内側3

築造年(清須城の始まり)応永12年(1405年)/(現・清洲城天主閣)平成元年(1989年)に再建整備
築造者(創建)斯波義重/(現施設)清須市(旧・清洲町)による再建整備
構造・特徴再建天主閣(4層の展示施設)+芸能文化館(黒木書院・芸能の間)+枯山水の日本庭園(水琴窟)+朱塗りの大手橋・大手門・信長塀(再現)など、回遊型の体験スポットが集約
改修・復元歴信長期の基本構造は守護所の館に近いと考えられる/清須会議後、城主となった信雄が天守を備えた大規模改修を行い最盛期へ/慶長15年(1610)の清須越で廃城・解体/1989年に現在地で再建整備
現存状況戦国期の建造物は現存せず。現在は再建天主閣を中心とした展示・体験施設として公開
消滅・損壊清須越(1610)に伴い城は解体され、資材の転用が伝えられる
文化財指定なし(現施設は1989年再建の展示施設)
備考「清須/清洲」の表記が併存する土地で、歴史解説では清須越(1610)を境に表記を使い分ける考え方もある。館内外の体験要素(シアター・試着・紙芝居・記念メダル等)が充実

🗺 住所:〒452-0932 愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
🚶 アクセス
「清洲古城石垣」から徒歩2分(約120m)

⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約60分
じっくり観光するなら:約2時間

📍 見どころ

  • 到着から“戦国スイッチ”が入る外構(大手橋・大手門・信長塀):朱塗りの大手橋で気分が上がり、大手門をくぐって、門脇の信長塀(再現)で「信長と桶狭間」の物語に一気につながります。
  • 館内は「見る→感じる→見晴らす」の4層構成:1階で清須の通史をつかみ、2階の城下バーチャルウォークで賑わいを歩き、3階の体験フロアは必見。特に「火縄銃体験」や、清須会議の様子を等身大モニターで再現したシアターは没入感抜群です。4階の最上階展望デッキからは、眼下の五条川から遠くは名古屋駅のビル群まで一望でき、信長が目指した天下の広さを実感できます。庭園の水琴窟も、途中の小休止に最適です。
  • 季節限定の楽しみ方:春は五条川沿いの桜と清洲城の組み合わせが鉄板。冬〜早春には芸能文化館で雛段飾り・吊るし雛飾りが展示され、桜まつり・信長まつりの時期にはお茶会など「城の一日」を華やかにする催しもあります。

📌 トリビア

  • 意外な歴史的背景:信長が清須にいたころの城は、近世城郭の“天守がそびえる城”というより、守護所を核にした館に近い性格だったと考えられています。再建天主閣は、そのギャップも含めて「清須の歴史」を学ぶための舞台です。
  • 知る人ぞ知る情報:古文書では「清須」が多く、江戸時代の清須越以降に「清洲」の字が定着したと言われています。そのため、中世・戦国期を語る際は「清須城」、現在の地名や再建施設を指す際は「清洲城」と表記し分けるのが歴史通の楽しみ方です。
  • 著名人との関係:信長は清須から桶狭間へ出陣し、天下統一への第一歩を踏み出しました。その後の清須会議で跡目が論じられ、信雄の大改修で城は巨大化——清洲城は「信長の出発点」と「信長後の権力再編」を同じ場所で辿れる稀有な舞台です。

清洲公園(織田信長・濃姫像と「桶狭間山」)

⭐おすすめ度
 歴史的価値:[☆]
 視覚的魅力:[☆☆☆]
 体験的価値:[☆☆]

五条川のこちら岸に広がる清洲公園は、清須の歴史を「歩く実感」に変えてくれる、いわば“信長の出発点のベンチ”のような場所です。1922年(大正11年)に開園し、1999年(平成11年)にリニューアル。若い木々の間に古木が枝を張り、街の記憶を深く影に落とします。

ここで必ず押さえたいのは、公園が単なる憩いの場ではなく、信長の「桶狭間へ向かう視線」を今に固定していること。園内の一段高い場所に立つ織田信長公の銅像は、永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いに向かう26歳の若き日の姿。マントを翻し、遥か南方の桶狭間を見据えるその鋭い眼光は、清洲が「天下取りの出発点」であったことを物語ります。旅人は像の立ち位置に立つだけで、軍勢を率いて“南へ踏み出す瞬間”を追体験できるのです。

そして、その視線の脇に置かれた“もう一つの物語”が濃姫像。市の説明では、2012年(平成24年)夏に信長像の脇へ移設されたとされ、清洲公園は「始まりの地から二人の愛と希望の丘」と称して、夫婦円満・恋愛・立身出世・必勝祈願のパワースポットとして親しまれている——と紹介されています。出陣する信長と、寄り添う濃姫。戦国の大事件を、夫婦の距離感で読み直せるのが清洲公園の良さです。

パノラマ写真

信長と濃姫


園内には、「桶狭間山」と掲示された小高い丘(盛り土)へと続く遊歩道があり、看板に沿って進む演出が施されています。史跡としての“おけはざま山”そのものではありませんが、清須から桶狭間へ向かう物語を、公園の中で身体的になぞらせる装置としてよくできています。

パノラマ写真

桶狭間山の頂上

築造年1922年(大正11年)開園
築造者地元有志の保存活動を経て、公園として整備(旧・清洲町/現・清須市が管理)
構造・特徴五条川沿いの公園。園内高台に「信長公出陣」の銅像と濃姫像/「桶狭間山」と掲示された小丘(園内名称としての演出)がある
改修・復元歴1999年(平成11年)3月リニューアル/2012年(平成24年)夏に濃姫像を信長像脇へ移設
現存状況現存(公園として常時散策可能)
消滅・損壊該当なし(公園として継続整備)
文化財指定公園自体の文化財指定の記載は確認できず(市の施設案内に記載なし)
備考信長像は桶狭間の方向を見据える設定/「始まりの地から二人の愛と希望の丘」として紹介

🗺 住所:愛知県清須市清洲三丁目7番地1
🚶 アクセス
「清洲城」から徒歩5分(約350m)

⏳ 見学の目安
短時間での見どころ:約15分
じっくり観光するなら:約45分

📍 見どころ

  • 織田信長公銅像(出陣の姿):1560年、桶狭間へ出陣する信長(26歳)を模した銅像。視線の先=桶狭間の方向という“物語の仕掛け”が効いています。
  • 濃姫像(2012年に移設):信長像の脇へ移された濃姫像が、出陣の緊張を“夫婦の時間”として読み替えてくれます。
  • 季節限定の楽しみ方:桜の名所としても紹介される公園。春は五条川の水辺と像が一緒に絵になり、写真の完成度が跳ね上がります。

📌 トリビア

  • 意外な歴史的背景:清洲公園は1922年開園。明治期から地元で保存活動が続いた流れの上に“公園としての記憶”が形づくられました。
  • 知る人ぞ知る情報:信長像の足元には、桶狭間の戦いの際の進軍ルートが記されたプレートなどもあり、歴史の現場感覚を味わえます。また、像の立つ位置から、実際に南東方向(桶狭間の方向)を指さして写真を撮るのがファンの定番です。
  • 著名人との関係:2012年に移設された濃姫像。それまでは一人で桶狭間を見据えていた信長公ですが、現在は濃姫が寄り添い、一対の「夫婦像」として親しまれています。

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