
前田利家(1538-1599)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、織田信長の重臣として頭角を現したのち豊臣政権下で五大老の一人に名を連ねた人物です。槍の名手として知られ「槍の又左」の異名を取り、勇猛さと忠義で名を馳せました豊臣秀吉の天下統一を支え、加賀百万石の初代大名として北陸を統治するなど、その生涯は戦国の世の終焉と徳川の時代への橋渡しとなる重要な役割を果たしました。
初期の人生と信長への仕官

利家は1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の愛知県名古屋市中川区)で、荒子城主・前田利春(利昌)の四男として生まれました。幼名を犬千代と称し、14歳頃に織田信長に小姓(近侍)として仕え始めます。兄たちが健在でありながら家督を許されたのは異例でしたが、それだけ信長から信頼を得ていたと言われます。若い頃の利家は信長同様にやんちゃで派手な装いを好む傾向があり、同じく小姓だった木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)とは盟友でした。信長は藤吉郎を「猿」、利家を「犬」とあだ名するなど、二人は対照的な性格ながらも若年期からの仲間だったようです。
武将としての経歴は、信長の赤母衣衆(あかほろしゅう)に選抜されたことに始まります。赤母衣衆は赤い陣羽織を纏った精鋭部隊で、利家はやがてその隊長に抜擢されました。槍術に秀でていた利家は「槍の又左」の異名を取り、その勇猛さを示す数々の武勇伝を残します。たとえば、桶狭間の戦い(1560年)では信長軍の一員として今川義元討伐に貢献し、姉川の戦い(1570年)や長篠の戦い(1575年)など数多くの合戦で武功を挙げました。その活躍により利家は信長から厚い信頼を寄せられ、家中で重要な地位を占めるようになっていきました。
信長の死と天下統一への関与

1582年6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、利家は当時柴田勝家配下として北陸方面で上杉景勝と戦っており、直後の山崎の戦いには参戦できませんでした。信長死去後の後継を巡る清洲会議では、北陸に所縁の深い利家は柴田勝家側に与します。しかし一方で旧知の羽柴秀吉(豊臣秀吉)との関係もあり、心中は複雑だったと伝えられます。やがて1583年4月の賤ヶ岳の戦いで、利家は当初柴田軍として5,000の兵を率いて布陣しましたが、合戦の最中に戦線を離脱し、結果的に秀吉の誘いに応じたとされています。利家の離反により柴田軍は動揺し、秀吉の勝利が決定的となりました。その後、利家は開城降伏して秀吉に恭順し、旧領を安堵されるばかりか功績を認められて加賀国のうち二郡(旧柴田領)を加増されます。こうして利家は能登一国に加え加賀国の半分を領有し、拠点を能登の小丸山城から加賀の金沢城へと移しました。
秀吉の下で大名として仕えるようになった利家は、その後も各地の戦いで重要な役割を果たしました。1584年の小牧・長久手の戦いでは、秀吉と徳川家康が対峙する中、利家は北陸に侵攻してきた佐々成政(かつての盟友でもある)を迎え撃ち、末森城の戦いでこれを撃退しました。成政は降伏後に切腹させられ、北陸の脅威は排除されます。1585年以降、秀吉が関白就任や四国・九州平定を進める間、利家は丹羽長秀らと共に北陸の守備にあたりつつ、豊臣政権に貢献しました。続く1590年の小田原征伐では、利家は上杉景勝とともに北国勢を率いて参陣し、北関東から関東にかけて北条方の諸城を次々と攻略しました。特に八王子城の攻略などで軍功を立て、北条氏討伐に寄与しています。こうした功績により、豊臣政権下で利家の地位と所領は一層盤石なものとなりました。
加賀百万石の大名としての統治

天下統一後、利家は加賀・能登二国に加え、隣接する越中の一部も与えられ、その石高は合計で約83万石にも達しました(一説には100万石近くとも言われ、「加賀百万石」の由来となります)。これは徳川家康を除けば最大級の領地であり、利家は事実上、北陸地方の太守となりました。利家は金沢城を本拠とし、有能な家臣団とともに領国経営に力を注ぎます。かつて一向一揆で荒廃していた加賀の地において検地の実施や治安の維持に努め、豊臣政権が発布した刀狩令についても領内で徹底させるなど、戦乱で疲弊した民生の安定を図りました。加賀藩のちの繁栄を支えた基盤は、利家の時代に築かれたといえるでしょう。
利家はまた、その統治において人望を集めました。家臣には村井長頼・奥村永福(永富)といった有能な武将が揃い、主君利家を支えています。利家自身、派手好みで豪放磊落な武将である一方、キリシタン大名の高山右近を匿うなど度量の大きさも示しました。領民や同僚大名からも慕われた利家の存在は、豊臣政権内で重臣たちの潤滑油となり、秀吉からも特に信頼される「豊臣政権の良心」と評されることもあります。北陸に雄藩・加賀前田家を築き上げた利家の内政手腕は、単なる武勇に留まらない名将としての側面を物語っています。
朝鮮出兵と晩年

1592年、秀吉は明国征服を目指して朝鮮への出兵(文禄の役)を開始します。利家は諸大名に先駆けて京を発ち、兵8000を率いて九州名護屋の前線基地に入りました。高齢となっていた秀吉が自ら渡海しようとした際には、徳川家康と共にそれを思い留まらせる進言をしたとも伝えられます。文禄の役の途中、秀吉が母の死去で一時大坂へ戻った際には、留守を預かる諸将を家康と利家がまとめ、軍議や政務を代行しました。この二人による戦線統率は、後の五大老体制の先駆けとも言えるものです。その後、朝鮮出兵は講和交渉のため中断・再開を経て長期化し、利家自身は最前線で大きな武功を挙げる機会はありませんでしたが、豊臣政権の長老として内外に睨みを利かせる立場にありました。
1598年8月、豊臣秀吉が伏見城で没すると、遺命により利家は徳川家康らと共に五大老に任ぜられ、幼い豊臣秀頼を補佐することになりました。しかしこの頃すでに利家自身も病に侵されており、秀吉死去からわずか半年余の1599年4月、伏見屋敷で生涯を閉じます(享年62)。利家の死去により、豊臣政権下で家康と拮抗し得る最大の重鎮がいなくなりました。事実、秀吉死後しばらくは家康も利家に遠慮して慎重に振る舞い、増長を警戒する利家に対しては謝意を示すほどでしたが、利家亡き後は天下取りに向けた動きを公然と進めるようになります。家康は同1599年、前田家討伐の口実を作るため「利家の跡を継いだ利長が謀反を企てている」と糾弾しました。利長は無実を主張しましたが、家康は「潔白ならば母親(まつ)を人質に差し出せ」と要求します。利家の妻であるまつ(芳春院)は、自らの身を犠牲にしてでも家名を守る決意を固め、「家を存続させるためならば喜んで人質となりましょう」と進んで人質となりました。まつの献身により加賀征伐は回避され、前田家は家康の傘下に入ります。その後、前田勢は関ヶ原の合戦では東軍(家康方)について戦い、生き残りを図りました。
前田利家の遺産

前田利家は、「槍の又左」に象徴される勇猛な武将であると同時に、主君への忠義と知略にも優れた名臣として歴史に名を残しています。織田・豊臣という二人の天下人に仕え、その信頼に応えて北陸の大大名へと登り詰めた出世ぶりは、戦国時代において際立った存在です。自ら天下を狙う野心を見せず、あくまで豊臣家への忠節を全うした姿勢から「豊臣政権の良心」とも評され、豊臣家中で重きを成しました。利家がもう少し長く存命であれば豊臣政権の命運も違ったのではないか、と後世に語られるほど、彼の存在感は大きなものでした。
また、利家と正室のまつが築いた加賀前田家は、徳川幕府下においても外様筆頭の雄藩として存続します。利家の死後、まつが進んで人質となって家名を守った逸話は有名であり、夫婦の絆と忠義の物語として語り継がれています。利家の統治した加賀藩は「加賀百万石」と称される繁栄を享受し、文化面でも大きな花を咲かせました。戦国から江戸への転換点において重要な役割を果たした前田利家。その波乱に富んだ生涯は、現代においてもドラマや小説で度々取り上げられ、人々の想像力をかき立てる歴史物語の一つとなっています。
前田利家と『将軍 SHŌGUN』
近年放映された海外ドラマ『SHŌGUN 将軍』は、関ヶ原前後の時代を舞台に徳川家康(作中名「虎永」)と石田三成(作中名「石戸」)の権力闘争を描いた作品です。劇中では豊臣秀吉をモデルにした「太閤殿下」が既に亡き存在として言及され、その死後に五大老が設立されたことが語られます。しかし、このドラマには前田利家をモデルにした登場人物は現れません。史実において利家は五大老の筆頭格でしたが、関ヶ原の戦いが起こる直前の1599年に世を去っており、ドラマの舞台となる1600年前後には既に不在だったためです。
もっとも、利家の不在そのものが物語の背景に影響を与えているとも言えます。利家存命中、徳川家康は利家に対して容易に横暴な振る舞いができず、家康と石田三成ら他の豊臣政権派閥との均衡が保たれていました。ドラマ『SHŌGUN』で描かれるような家康(虎永)の台頭は、利家亡き後に初めて可能となった歴史的事実でもあります。もし利家が劇中の時代まで生き延びていたなら、物語の権力構図も大きく異なっていたことでしょう。海外の視聴者にとって前田利家の名は馴染みが薄いかもしれませんが、彼はまさに「将軍(SHŌGUN)」へと至る過程で鍵を握った武将の一人なのです。