徳川の威信を刻む石垣と建築美 ― 名古屋城を歩く
徳川の威信を刻む石垣と建築美 ― 名古屋城を歩く 名古屋城の歴史は、戦国時代までさかのぼります。もともとこの地には「那古野城(なごやじょう)」が築かれており、1500年代初頭には今川氏豊が築城。その後、織田信秀(織田信長の父)が奪取し、信長自身も若年期に那古野城に居住していたと伝えられています。やがて信長は清須城へ拠点を移し、那古野城はその役目を終えました。
安土桃山時代を経て、1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、三男・徳川義直を尾張藩主とし、東海道の要所であるこの地に新たな城を築くことを決定しました。これには、洪水被害が深刻だった清須の地に代わり、より広大で安全な土地への藩都移転という実利的な理由がありました。こうして実施されたのが「清須越し」と呼ばれる大規模な移転計画で、清須城下の町民や寺社、商家を丸ごと新たな城下町へと移す前代未聞の事業でした。
この時、清須城からは建築資材や建物そのものも移され、西北隅櫓(清洲櫓)など、現在も現存する構造物の一部が移築されたと伝えられています。特に西北隅櫓は、清須城の天守または小天守を転用した可能性が指摘され、名古屋城の築城が単なる新築ではなく、戦国から江戸へとつながる歴史の架け橋であることを物語っています。
こうして1610年から築城が開始され、1612年に天守が完成。以後、名古屋城は徳川御三家筆頭・尾張徳川家の居城として、江戸時代を通じてその威光を放ちました。壮麗な金鯱(きんしゃち)を頂く天守、狩野派の障壁画で彩られた本丸御殿、重厚な石垣と精緻な門や櫓など、名古屋城は武威と美の結晶とされました。
しかし1945年、第二次世界大戦末期の名古屋大空襲により天守や本丸御殿の大部分が焼失。その後、1959年に天守が鉄筋コンクリートで再建され、2009年からは本丸御殿の復元工事が本格的にスタート。2018年には御殿が往時の姿を忠実に再現して全面公開されました。
本記事では、地下鉄名城線「名古屋城駅」からスタートし、同じ駅に戻るルートで名古屋城の各スポットを巡ります。知られざる物語や建築美、文化的価値に迫る本ガイドを、訪れる前にも後にもぜひご活用ください。
二之丸エリア
- 二之丸東門跡
↓ 約5分(約400m) - 東門
↓ 約1分(約70m) - 二之丸庭園
↓ 約1分(約100m) - 霜傑跡(茶屋跡)
↓約1分(約70m) - 北暗渠
↓約1分(約100m) - 南蛮練塀
↓約1分(約40m) - 埋門跡
↓約1分(約110m) - 二之丸茶亭
↓約1分(約60m) - 那古野城跡
↓約1分(約55m) - 青松葉事件之遺跡
↓約1分(約50m) - 藩訓秘伝碑
↓約2分(約60m) - 清正公石曳きの像
↓約1分(約110m)
本丸エリア
- 表二之門
↓約1分(約45m) - 東南隅櫓
↓約1分(約10m) - 一之門跡
↓約3分(約100m) - 西南隅櫓
↓約1分(約50m) - 湯殿・黒木書院
↓約5分(約200m) - 本丸御殿
↓約2分(約60m) - 本丸東一門跡
↓約1分(約5m) - 清正石
↓約1分(約20m) - 旧二之丸 東二之門
↓約1分(約20m)ただし、現在立ち入り禁止 - 搦手馬出跡
↓約2分(約150m) - 天守閣
↓約1分(約40m) - 不明門
↓約1分(約30m)
御深井丸エリア
西之丸エリア
- 西の丸御蔵城宝館
↓約3分(約230m) - 西之丸
↓約3分(約20m) - 名古屋城之榧
↓約2分(約100m) - 正門(旧榎多御門)
↓約1分(約26m) - 恩賜元離宮名古屋城石標
↓約3分(約270m)
城外エリア
- 西丸未申櫓跡
↓約2分(約140m) - 月見櫓跡
↓約7分(約550m) - 御深井大堀
↓約15分(約1.1km) - 「加藤清正像」高藤鎮夫
↓約7分(約500m) - 大手二之門(西鉄門二之門)
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