春の兆しを感じ始めるある日、私は皇居乾通りの一般公開に参加した。午前9時の開門に備え、少し早めの8時30分に坂下門前へ到着。すでに多くの人が列を成していた。日本各地から集まった人々のほか、異国の言葉を交わす観光客の姿も目立ち、皇居の魅力が国境を越えて広がっていることを改めて感じた。


定刻の9時になると、整然と列が動き始めた。手荷物検査も驚くほどスムーズで、警備の方々の丁寧な対応が印象的だった。坂下門が近づくにつれ、その門の持つ威容が徐々に明らかになる。江戸時代、将軍や重臣が出入りしたであろうこの門は、普段は通行が許されない場所であるだけに、近づくほどに胸が高鳴った。

坂下門は、元々は江戸城の「表御門」のひとつで、明治以降は宮城(現・皇居)への正式な出入口として機能している。石垣に囲まれた門は、堂々とした木組みの屋根と、幾重にも重ねられた瓦が歴史の重みを語っていた。門をくぐった瞬間、まるで時を超えて江戸の空気に包まれたかのような感覚を覚えた。
門を抜けると、ふと後ろを振り返り、普段は目にできない裏側の造形を味わう。しっかりと組まれた梁、瓦の繊細な曲線が静かに美を語っていた。
右手に現れたのは、富士見櫓。何度見てもそのたたずまいは見飽きることがない。白漆喰の壁に黒瓦の対比が美しく、緩やかな曲線を描く屋根はまさに日本建築の美意識の結晶だ。江戸城の現存三櫓のひとつで、かつてはその名の通り富士山を眺めることができたと言われている。今は都心のビル群に阻まれその姿は見えないが、静かに佇むその姿には凛とした気品が漂う。

ふと気がつくと、櫓と自分の間に数本の杉の木が立っていた。その杉越しに見る富士見櫓は、まるで額縁に納められた日本画のようで、思わず立ち止まり見入ってしまう。人工物と自然が互いを引き立てる絶妙なバランスに、時が止まったようなひとときだった。

いよいよ乾通りへと足を踏み入れる。前回は反対側から歩いた道を、今回は坂下門側から進むという新たな体験。右手には蓮池濠が広がり、その静寂な石垣は光景は、まるで墨絵のように美しい。

蓮池濠は、江戸城の外郭を守る防御の一部として築かれたものだが、今ではその役割を終え、訪れる者に静けさと安らぎを与える存在となっている。今回はじっくりと立ち止まり、石垣の高さ、積み方の妙に目を凝らす。何百年も風雨にさらされながら崩れることのないその技術力に、ただただ感嘆するばかりだ。

濠を彩る桜は、残念ながらまだ満開とはいかなかったが、ソメイヨシノ、しだれ桜、山桜と多種多様な桜がほころび始めており、風に乗ってかすかに甘い香りを漂わせていた。枝先にふくらむ蕾に希望の気配を感じ、春の訪れを肌で感じる。

しばらく歩くと、左手に竹下通りが現れる。前回はツアー客でごった返していたが、今回は人影もなく、まるで別の場所のような静寂が広がっている。歴史ある空間は、時としてその「音のなさ」が空気を支配し、風景をより印象深く感じさせてくれる。

ここから先は、私にとっても未知の領域。歩みが自然と早まり、胸が高鳴る。最初に目に飛び込んできたのは、「局門(つぼねもん)」と呼ばれる門だった。
この門は、かつて江戸城の大奥への出入り口として使われた場所。初めてその存在を知り、驚きとともに歴史の奥行きを感じた。グーグルマップでは本丸に「大奥」と記されていたが、実際にはここに繋がっていたとは。地図の情報だけでは読み解けない、現地に立って初めて見える「真実」があるのだ。
局門は、木造の柱と伝統的な屋根瓦で構成された、日本建築の粋を凝らした立派な門である。門の表情はどこか静かで、しかし確固たる存在感があり、大奥という特殊な世界への結界のようにも感じられた。

さらに進むと、右手の石垣の上に「富士見多聞」が姿を現す。前回は斜めからかすかに見えただけだったが、今回は正面から堂々とその姿を目にすることができた。江戸時代、藩主や高官たちが謁見の待機などに用いた多聞櫓(たもんやぐら)の一つで、城郭建築としての完成度の高さがうかがえる。
特筆すべきは、その正面に咲く桜の木々だ。淡い桃色の花越しに見る富士見多聞は、まさに「和の美」の象徴。静けさと華やかさが共存するその風景は、記憶に刻まれる一枚の絵のようだった。

さらに奥へと足を進めると、左手に現れたのは「門長屋」。初めて目にする建物で、「こんな歴史的構造物が今なお残っているとは」と感嘆せざるを得ない。黒褐色の壁が歴史の深みを伝え、手前に咲く桜との対比が、まるで舞台の演出のように見事だった。

さらに足を進めていくと、ふいに視界が開け、大きなお堀が目の前に現れる。その姿は、まるで静かにたたずむ池のようにも見えた。案内板を確認すると、ここは「道灌濠」と呼ばれる場所。ふとその名前に覚えがあり、思いを巡らせていると、はたと気づいた。そう、大田道灌――徳川家康が江戸に入る遥か以前、室町時代にこの地に江戸城の原型を築いた名将の名である。

地名や構造物の名前から歴史の人物と繋がる瞬間。それは、単なる観光では味わえない“歴史を知る者の特権”のようなものであり、この上ない悦びでもある。水面に映る空と緑が、時を超えて道灌の志を映しているように思えた。
この道灌濠の左手――茂る木々の向こう側が、かつて「紅葉山東照宮」があった場所だ。江戸時代、三代将軍・徳川家光が創建したこの社は、江戸城内にありながら一般の人々も詣でることができた特別な場所だった。現在は非公開であるが、私はその位置を確かめたくなり、スマートフォンで江戸時代の古地図を広げた。地図と現在の風景を重ね合わせることで、「ここに東照宮があったのか」と実感できた瞬間、まるで過去と今が手を結ぶような、不思議な感動に包まれた。
木々に覆われた紅葉山を後にし、さらに進んでいくと、右手に「西桔橋」が姿を見せる。美しく積まれた石垣の上に架かるこの橋は、江戸時代の防御と移動を兼ね備えた実用的な構造物でありながら、現在では景観の一部として、その美を放っている。自然石を一つひとつ丁寧に積み上げ、角度と重心を計算し尽くして築かれた石垣には、当時の職人たちの技術と気概が宿る。いまはさらりとその上を歩く私たちも、かつてこの構築物がいかに苦心の末に完成されたかを想像すれば、ただ通り過ぎるには惜しい場所だ。

乾通もいよいよ終盤、視界がふたたび大きく開け、眼前には「乾濠(いぬいぼり)」が広がった。整備された芝生、堂々と立つ松の木、そしてその奥に凛然とそびえる石垣。言葉を失うほどの広がりと静けさが、ここにはあった。

この石垣の上が、かつて天守台が築かれていた場所だ。現在、江戸城の天守閣は再建されておらず、その姿を直接目にすることはできないが、私は想像を膨らませてみた。400年ほど前、ここには五層七重、44.8メートルにも及ぶ壮大な天守が聳え立っていた。徳川幕府の威光を象徴する建造物として、江戸の町を見下ろしていたであろうその姿に、思いを馳せるだけでも十分に満たされる。

そして、ついに乾通の出口、「乾門」がその堂々たる姿を見せる。通常時は、外周から遠巻きに見ることしかできないこの門を、今日はすぐ間近で、その細部までもしっかりと目にすることができる。木組みの柱、飾り気のない重厚な門扉、そしてその奥に広がる外の世界。この門はもともと紅葉山にあったものを移築したとされており、その歴史の重みが今も確かに息づいている。

門をくぐった瞬間、背中越しに過ぎていった乾通りの風景が、まるで一本の映画のように脳裏に浮かんだ。石垣、濠、桜、櫓、そしてそこに息づく人々の記憶。それは単なる観光ではなく、時と空間を旅する特別な経験だった。
旅の終わりに
今回の乾通り一般公開では、ただ歩くだけでなく、歴史の文脈と自然の美が折り重なる「皇居」という場所の深さを改めて実感しました。建造物ひとつ、濠の名前ひとつにまで物語が宿っており、それに気づけるかどうかで旅の質は大きく変わります。
皆さんも、次に皇居を訪れる際には、ひとつひとつの風景に耳を傾け、物語を探しながら歩いてみてはいかがでしょうか。そこには、ガイドブックには載っていない、自分だけの「歴史の旅」が待っています。

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